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第29話 よく似合ってるじゃないか

 少し離れた場所では、沙奏がナンパ男と楽しそうに話していた。


「いや、マジで綺麗だって! こんな美人、初めて見たよ。モデルとかやってないの?」

「もう。そんなに褒めても、何も出ないわよ?」

「ていうか、沙奏ちゃんって大人っぽいよね。こういうのにも慣れてそうだし」

「こういうことって……どういうことなのかしら?」


 沙奏は人差し指で自らの唇をゆっくりとなぞり、余裕たっぷりに微笑んだ。


「…………」


 完全に『お姉さん』を演じているときの沙奏だ。


 つい先ほどまで、ちょんまりんを抱えてはしゃぎ、ゾンビゲームで泣き叫んでいた女と同一人物とは思えない。


「すっご……」


 隣で様子を窺っていたぱなえが、感心したように声を漏らした。


「沙奏さん、マジでぱないね。見てよ、あの人。完全に沙奏さんに夢中じゃん」

「……そ、そうだな」


 確かに、うまくいっている。


 沙奏が望んだとおりだ。


 初対面の男を前にしても堂々と振る舞い、相手を自分のペースに引き込んでいる。


 本物のお姉さんになる。


 そのための一歩だというなら、俺も喜ぶべきなのだろう。


「…………」


 なのに——。


 先ほどから、どうにも胸の奥が落ち着かない。


「ねえ、このあと二人でどこか行かない?」

「ふふっ。どこへ連れていってくれるの?」


「…………」


 なんだ。


 この、もやもやとした感情は。


 ついさっきまで俺の隣で無邪気に笑っていた沙奏が、今は見知らぬ男へ笑顔を向けている。


 いや——。


 あれは、俺に見せてくれた笑顔ではない。


「……違うだろ」

「ん?」

「本当の姉唐さんは……そんなふうに笑わないだろ……」


 気づけば、そんな言葉が口からこぼれていた。


「…………」


 ぱなえが、俺の横顔をじっと見つめている。


「どうしたの、いざっち?」

「な、なんでもない」

「ふーん……?」


 ぱなえは何かを察したように、にやりと口元を緩めた。


「あっ。でも、このままだと沙奏さん……あの人についていっちゃうかもね」

「…………」


 見ると、沙奏と男は今にもその場を離れようとしていた。


 胸の奥に渦巻くざわめきが、さらに大きくなっていく。


「…………」


 俺には関係ない。


 沙奏自身が決めたことだ。


 俺が口を出すべきではない。


 ——そのはずなのに。


 どうして俺は、沙奏があの男についていくことを、こんなにも嫌だと思っているんだ。


「……くそっ」


 無意識に握り締めた拳に、さらに力がこもる。


「沙奏ちゃん、本当にスタイルやばいよね」

「もう……そんなに見ないでよ」


 沙奏は、いつもの余裕に満ちた笑みを浮かべている。


 しかし、男の視線が沙奏の身体を舐めるように動くたび、その笑顔がわずかに強張っていった。


「いいじゃん。沙奏ちゃんも、こういうの好きなんでしょ?」


 男が沙奏の腰へ腕を回す。


「ひゃっ!」

「何、その反応。意外と可愛いじゃん」

「…………」


 沙奏の笑顔が、はっきりと引きつった。


「ほら。もっと二人でゆっくりできるところへ行こうよ」


 男が沙奏の腰を抱いたまま、強引に歩き始める。


「あっ……」


 押された拍子に、沙奏が持っていたビニール袋が手から滑り落ちた。


 カサリと音を立てて袋が地面へ落ち、中から二体のちょんまりんが転がり出る。


「あ……待って」


 沙奏が慌てて戻り、拾おうとする。


 だが——。


「そんなの、どうでもいいじゃん」


 男が沙奏の腕を強く掴んだ。


「え……?」

「ていうか、何それ。沙奏ちゃんには全然似合わなくない?」

「……似合わない?」

「うん。そういう子どもっぽいの、沙奏ちゃんのイメージじゃないって」


 男は地面に転がったちょんまりんを見て、鼻で笑った。


「どうせ、センスない男からもらったんでしょ? そんなの放っておけばいいじゃん」

「…………」


 沙奏の唇が、かすかに震えた。


 先ほどまで浮かべていた余裕たっぷりの笑みは、もうどこにもない。


 その瞳には、じわりと涙が滲んでいた。


「……ごめんなさい」

「ん?」

「やっぱり……私、行けません!」


 沙奏が勢いよく男の手を振り払う。


「はあ? 今さら何言ってんの?」

「私……分かったんです」


 沙奏は震える手を、自分の胸元でぎゅっと握り締めた。


「私の大切な人が、言ってくれたんです。『おせっせは、好きな人と幸せになるためにするものなんだ』って」

「何それ。急に真面目ぶってどうしたの?」

「真面目ぶってるんじゃありません。私もやっと、その意味が分かったんです」


 沙奏は目元に浮かんだ涙を拭う。


 そして今度は逃げることなく、真っ直ぐ男を見た。


「私……好きな人ができたんです。こういうことは、その人としたいんです」

「ふざけんなよ。今さらそんなこと——」


 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥を渦巻いていた感情の正体が、ようやく分かった。


 男が顔を歪め、再び沙奏の腕を掴もうと手を伸ばす。


「やめろ」


 俺は物陰から飛び出し、二人の間へ割って入った。


「なんだよ……お前」

「俺か?」


 俺は地面に転がった二体のちょんまりんを拾い上げ、ついた汚れを丁寧に払う。


「俺は——沙奏を幸せにしたい男だ」

「…………っ」


 沙奏が息を呑んだ。


「きっつ……。お前みたいなの、沙奏ちゃんに相手にされるわけないだろ」


 男の言葉を無視し、俺はちょんまりんを沙奏へ差し出した。


「ほら。やっぱりちょんまりんは、沙奏によく似合っているじゃないか」

「…………!」


 沙奏が大きく目を見開く。


「伊阪利ちゃん……」


 その瞳には、今にも零れ落ちそうな涙が浮かんでいた。


「……ありがとう」


 沙奏は二体のちょんまりんを受け取ると、大切そうに胸へ抱き締めた。


「なあ、沙奏」

「……何?」

「沙奏は、無理に変わらなくていいと思う」


 ちょんまりんのような可愛いものが好きなこと。

 怖いものが苦手なこと。

 嬉しいときには、子どものようにはしゃいでしまうこと。

 そして、周囲の期待に応えようと、無理をしてお姉さんを演じてしまうこと。


「背伸びをしてお姉さんを演じている沙奏も、無邪気にはしゃいでいる沙奏も、どちらも沙奏の一部なんだ」

「…………」

「今日一日、一緒に過ごして分かった。無理にどちらかを捨てる必要なんてない」

「伊阪利ちゃん……」

「今のままの沙奏が、一番魅力的で素敵だ」


 俺は沙奏の瞳を、真っ直ぐに見つめた。


「俺は——沙奏が好きだ」

「う……っ」


 沙奏の瞳から、大粒の涙が零れ落ちる。


「こんな私で……本当にいいの?」

「俺は、沙奏がいいんだ」

「伊阪利ちゃん……私も、好き」


 沙奏は二体のちょんまりんを抱き締めたまま、泣き笑いの表情を浮かべた。


「だから沙奏。俺のハーレムに入ってくれ」

「……うん。よろしくお願いします」

「ああ!」


「は? ハーレム?」


 男が理解できないものを見るような目を俺へ向ける。


「お前……頭おかしいんじゃねえの?」


「うん、そうそう。いざっちって、ほんと頭おかしいんだよねぇ」


 聞き慣れた声とともに、ぱなえがゆっくりと歩いてきた。


「おお……今度はギャル系の美女まで……」


 男はぱなえを見ると、すぐに下卑た笑みを浮かべる。


「沙奏ちゃんが駄目なら、あんたでもいいや。相手してよ」

「ごめんねぇ。アタシも間に合ってるから」


 ぱなえは俺の隣まで来ると、当然のように肩へ肘を乗せた。


「アタシも、もう先約があるんだよね」

「ぱなえ……」


 男は俺たち三人を見比べ、困惑したように後ずさる。


「なんなんだよ、お前ら……意味分かんねえ」

「まあ、分かんなくていいって」


 ぱなえが追い払うように、ひらひらと手を振った。


「アンタじゃ、到底釣り合わないから。もう帰んな」

「……チッ」


 男は苛立ったように舌打ちすると、そのまま人混みの中へ消えていった。


 沙奏は腕の中のちょんまりんへ頬を寄せ、涙の残る顔で幸せそうに笑っていた。

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