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第24話 それが本性か……

 沙奏の顔が、ゆっくりと近づいてくる。


「…………」


 近い。


 吐息がかかりそうなほどの距離だ。


「ふぅ……はぁ……」


 沙奏の呼吸が、少しずつ荒くなっていく。


 間近で見ても、やはり恐ろしいほど整った顔立ちだった。


 白い頬はうっすらと赤く染まり、切れ長の瞳もどこか潤んでいる。


「伊阪利ちゃん……」


 沙奏が熱っぽい瞳で俺を見つめた。


「もう……我慢しなくてもいいのよ?」

「…………」


 とんでもない状況だ。


 鍵の掛かった空き教室。


 逃げ場のない壁際。


 そして目の前には、今にも唇が触れそうな距離まで迫ったスタイル抜群の絶世の美女。


 男として、何も感じていないと言えば嘘になる。

 

 だが——。


「すまない、姉唐さん」

「……え?」

「俺は、そろそろ行かせてもらう」

「…………なんで?」


 沙奏の動きが、ぴたりと止まった。


「なじみたちと一緒に昼飯を食べたいんだ」

「…………私とのおせっせより、なじみちゃんたちとのお昼を選ぶってこと?」

「ああ」


 迷う理由はなかった。


 俺は壁を塞いでいた沙奏の腕をそっとどかし、その横を通り抜ける。


「それじゃあ」

「ちょ、ちょっと待って!」


 扉へ向かおうとしたところで、制服の裾を掴まれた。


「もういい加減に——」


 振り返った俺は、思わず目を見開いた。


「…………え?」


 沙奏の瞳いっぱいに、涙が溜まっていた。


 先ほどまで浮かべていた妖艶な笑みは、見る影もない。


 唇をわなわなと震わせ、今にも泣き出しそうな顔で俺を見上げている。


「姉唐さん……?」

「うっ……うぅ……」

「いったい、どうし——」


「うわあああああん!」

「なっ!?」


 決壊した。


 大粒の涙をぼろぼろと零しながら、沙奏が子どものように泣き始める。


「私なんて……私なんてぇ……!」

「姉唐さん!? 落ち着いてくれ! なぜ急に泣くんだ!」

「だってぇ……このクラスに男の子、伊阪利ちゃんしかいないのにぃ……!」

「それがどうしたんだ?」

「伊阪利ちゃんにも相手にされなかったら……私、いつまで経っても処女のままだよぉ!」

「…………」


 今、なんと言った?


「しょ、処女!? 姉唐さんが!?」

「うわああああん!」


 まさか。


 これだけの色気を振りまいておいて?


 ついさっきまで、あれほど余裕たっぷりに俺を誘惑しておいて?


「待ってくれ。姉唐さんは、てっきり恋愛経験が豊富なのかと……」

「全部……演技なの……」

「演技?」


 沙奏はその場へぺたんと座り込み、子どものように両手で目元を擦った。


「だってぇ……私、こんな見た目だから、みんな勝手に勘違いするんだもん……」

「勘違い?」

「彼氏が十人くらいいそうとか……男の扱いに慣れてそうとか……経験も豊富そうとか……」


 沙奏は鼻をすすり、さらに顔を歪める。


「そんなことをずっと言われてたら……今さら何も経験ありませんなんて、言えないじゃない!」

「…………」

「こんな見た目なのに処女だなんて知られたら、絶対に笑われるもん!」


 少なくとも、童貞の俺に笑う資格はないな。


「い、いや……それにしても信じられん。全部演技で、あれほどの色気を出していたのか?」

「何も知らないってバレたくなかったから……いっぱい勉強したの」

「勉強?」

「ネットで調べたり、そういう動画を見たりして……男の子を誘惑する仕草とか台詞とか、全部マネしてただけなの……」

「バカな……」


 あの完成されたお姉さん感が、ネットで身につけた独学の成果だったとは。


「伊阪利ちゃんには分からないのよ……」


 沙奏は膝を抱え、ぐすっと鼻をすすった。


「私、昔から背も高かったし……胸だって大きかったし……顔も大人っぽいって言われていて……」

「…………」

「だから、みんな勝手に『経験豊富そう』とか『男の扱いに慣れてそう』とか言ってくるの」


 沙奏は唇を尖らせる。


「本当は私……何も知らないのに」


「…………」


 先ほどまで俺を壁際へ追い詰めていた、妖艶なお姉さんはどこへ消えたのだろう。


 今、目の前にいるのは、床に座り込んで拗ねている普通の女の子だった。


「それなのに……」


 沙奏は膝を抱えたまま、弱々しく呟いた。


「女の子なら誰でもいい、おせっせ三昧の伊阪利ちゃんにまで拒否されたんだよぉ……」

「おい。俺のことを、そんなふうに思っていたのか」


 泣きながら、さらりとひどいことを言われた。


「もう私、女として終わってるわ……」

「話が飛躍しすぎじゃないか?」

「だってぇ……伊阪利ちゃんなら、すぐに相手してくれると思ったんだもん……」

「俺をなんだと思っている」

「女の子なら誰でもいい変態……」

「よくそんな男に抱かれようとしたな」

「だから余計に傷ついてるのぉ!」


 沙奏の瞳から、再び涙が溢れ出す。


「伊阪利ちゃんにすら抱いてもらえないなら、私なんて一生……誰にも抱いてもらえないよぉ」

「なぜ俺が最低ラインなんだ」

「もう私……このままずっと一人で生きていくんだわ……」

「さすがに大げさだろう」


 沙奏は膝へ顔を埋めると、そのまま完全にいじけてしまった。


「…………」


 なんというか……。


 知れば知るほど、最初に抱いていた印象からかけ離れていく。


 大人っぽくて、余裕があって、男の扱いにも慣れている。


 そんな妖艶なお姉さんだと思っていたのに——。


 本当は、見た目とのギャップに悩み、周囲から押しつけられた印象に合わせて自分を偽っていた。


 恋愛経験がないことを必死に隠し、ネットで知識をかき集めて、経験豊富なお姉さんを演じて。


 挙げ句の果てには、俺に拒絶されたくらいで床に座り込み、子どものように泣いている。


 とんでもないポンコツだった。


「……姉唐さん」

「なによぉ……」


 涙でぐしゃぐしゃになった顔が、抱えた膝の間から覗く。


「…………」


 けれど——。


 朝に見た作り物のお姉さんより、今の沙奏の方がずっと人間らしく、魅力的に見えた。


「別に、そこまで無理をする必要はないんじゃないか?」

「…………え?」

「姉唐さんは、誰がどう見たって美少女だ。わざわざ経験豊富なふりをしたり、大人っぽく振る舞ったりしなくても、その魅力は変わらない」


 沙奏は膝の間から顔を出し、しばらく俺を見つめていた。


「それって……抱いてくれるってこと?」

「いや、違うぞ」

「じゃあ意味ないじゃない!」

「なぜそうなるんだ!?」


 とはいえ、このまま泣きじゃくる沙奏を放っておくのも気が引ける。


「…………」


 どうしたものかと考えていると——。


「もう……こうなったら……!」

「姉唐さん?」


 沙奏が勢いよく立ち上がった。


 そのまま、俺の胸元へ飛び込んでくる。


「こうなったら、力ずくでも伊阪利ちゃんとおせっせするもん!」

「お、おい!?」


 突然のことに対応できず、その勢いのまま床へ押し倒された。


 沙奏は俺の上に馬乗りになり、震える指先で自分のスカーフへ手をかけた。


 俺を見下ろす瞳には、まだ涙が浮かんでいた。


「これで私も……大人になれる……」

「…………」


 その表情を見ていると、とてもじゃないが笑う気にはなれなかった。


 色気など、どこにもない。


 ただ不安と焦りに追い詰められ、自分を投げ出そうとしているだけだ。


「姉唐さん。おせっせは、好きな人と、お互いに望んで、一緒に幸せになるためにするものなんだ」

「……え?」


 沙奏が目を丸くする。


「だから、焦ってこんな悲しいことはしないでほしい。周りにどう見られるかなんて、気にしなくていい」


 俺は沙奏の肩へそっと手を置き、ゆっくりと身体を起こした。


 沙奏は抵抗することなく、俺から身体を離してくれた。


「今の姉唐さんをありのまま受け入れて、心から一緒に幸せになりたいと言ってくれる人が、きっと現れる」

「…………」

「だから、そのときまで自分のことを大切にしてくれ」


 沙奏は何も答えなかった。


 俺は立ち上がると、扉の鍵を開ける。


「それじゃあな、姉唐さん」


 そのまま空き教室をあとにする。


 最後に一度だけ振り返ると——。


 沙奏は床に座り込んだまま、まるで初めて見るものを目にしたような顔で、呆然と俺の背中を見つめていた。

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