第3章:目が覚めると元の現実だけど、働かなくても生きていける天国でした
『思考を捨てよう、平和を選ぼう』
苦痛も、理不尽も、残業もない完璧な世界。
誰もが望むはずの「天国」で、主人公・佐藤が覚えた猛烈な違和感。
愚痴をこぼした人間から「最初からいなかったこと」にされていく街で、彼は生き残ることができるのか。
楽園の皮を被ったディストピアの深層へ迫る第3章、スタートです。
「う、あ……っ!?」
肺いっぱいに酸素をかき集めるような荒い呼吸とともに、俺は勢いよく体を跳ね起こした。
瞬時に両手で己の全身を激しく擦り回す。頭、首筋、両肩、そして胸元――。
先刻まで確実にそこに存在していたはずの激痛や、黒いノイズの直撃を受けた際のアスファルトの冷や汗、煤で汚れたシャツのザラついた感触を探した。だが、指先に触れたのは、驚くほど滑らかでパリッと清潔な綿100%の新品のシャツだった。黒いノイズの津波に呑み込まれかけた右膝も、擦りむいた跡ひとつなく綺麗に皮膚が再生している。
「生きて……る? 俺……刺客に追われて、行き止まりの裏路地で……」
荒い息を整えながら、恐る恐る周りを見回した。
目に飛び込んできたのは、見慣れた自分のアパートの四畳半だった。
散らかっていたはずの脱ぎっぱなしの服や、積み上がっていたカップ麺の空き容器は綺麗さっぱり消え去り、窓からは柔らかな朝の陽射しが完璧な角度で部屋の真ん中に差し込んでいる。壁の目覚まし時計を見上げると、寸分の狂いもなく午前7時00分ちょうどを指し、『ピピピ、ピピピ』と耳に優しい澄んだ音色を響かせていた。
「夢……だったのか……? あのバグり散らかした街も、コピペの刺客も、黒いパーカーの不気味な女の子も……全部、連日連夜のサービス残業で見せた、俺の脳ミソの過労死寸前の悪夢……?」
ドッと全身の緊張が抜け、俺は深く息を吐き出しながらベッドの端に腰掛けた。
冷や汗を拭い、いつものように最悪な通勤電車のストレスに備えて出勤準備を始めようとした――その時だ。
俺の足の裏が、畳の感触に対して強烈な違和感を覚えた。
静かすぎる。
あまりにも、世界が静寂に包まれすぎているのだ。
この安アパートは築年数が古く、普段なら早朝から隣の部屋の住人がつけるテレビの低音や、上の階の足音、国道を走るトラックの不快な重低音、さらには通りを歩くカラスの鳴き声が嫌でも聞こえてくるはずだった。
しかし、いま耳に届くのは、エアコンから吐き出される無菌室のように清浄で無音の空気の揺らぎだけ。生活音という生活音が、まるで世界から丸ごと消し去られたかのように途絶えていた。
「なんだこれ……? 静音加工でもされたのか……?」
不気味なほどの静けさに肌が粟立つ。俺は固まったまま、デスクの上に置かれたスマートフォンに視線を落とした。
『ピコン――』
部屋の静寂を切り裂いて、スマートフォンの画面が軽快な通知音とともに明るく点灯した。
ディスプレイに浮かび上がっていたのは、俺がメイン口座として利用しているネット銀行からのプッシュ通知だった。
[入金通知:10,000,000円が口座に振り込まれました]
「……は?」
口から間抜けた声が漏れた。
俺は自分の目を疑い、一度強く瞼を閉じてから、両手で顔を洗うように擦ってもう一度画面を凝視した。
画面上の数字は、一向に消える気配を見せない。
慌ててロックを解除し、震える指先で銀行アプリを起動する。バイオメトリクス認証が一瞬でパスし、画面中央に表示されたのは、普段なら家賃と光熱費が引き落とされた後に残る侘しい「243,500円」という数値……ではなく、見慣れない桁数の数字だった。
[ご利用可能残高:10,243,500円]
「じ、一千万円……!? ゼロが……ゼロが7個も増えてる!?」
思わずスマホを布団の上に落としそうになり、慌てて両手で抱え直した。
二度見、三度見、果ては画面に顔を押し付けるようにして桁を数える。百、千、万、十万、百万、千万。間違いなく1000万円だ。
「振込詐欺か!? いや待て、振込『詐欺』でお金が振込入金されるわけないだろ! 闇バイトの受け子か!? 俺の口座が犯罪組織のマネーロンダリングの経由地に指定されたのか!? 警察に連行されるやつかこれ!?」
脳内で逮捕される自分の姿が駆け巡り、額から嫌な汗が吹き出す。
恐る恐る入出金明細のタブをタップし、振込元の名義を確認した。そこにはカタカナで、こう印字されていた。
[フリコミモト:セイフ・ヘイワイジテアテ]
「……政府、平和、維持手当……?」
聞いたこともない謎の単語に首をかしげていると、間髪入れずにスマホの画面上部から別の通知が舞い込んできた。社内で使っているチャットツールのアイコン。差出人は「人事部一斉送信」だ。
【重要】全社員への無期限特別有給休暇の発令について
社員の皆様へ。本日より、国家AIシステムによる『社会全体最適化プログラム』の稼働に伴い、全社員を対象に【無期限特別有給休暇】を発行いたします。明日以降の出社、業務、報告等は一切不要となります。
なお、休業期間中の基本給および満額のインセンティブにつきましては、毎月自動的に全額支給されますのでご安心ください。社員の皆様におかれましては、ご自宅にて心身のストレスを軽減し、ご自由にお過ごしいただくことを強く推奨いたします。
「出社不要……報告不要……給料もインセンティブも一生毎月満額支給……!?」
俺はスマホを握りしめたまま、ベッドの上で口を半開きにして完全に硬直した。
なんだこの都合の良すぎる悪夢は。いや、夢にしては手元のスマホの冷たさも、液晶のバックライトの眩しさもリアルすぎる。
「会社が狂ったのか……? それとも俺が狂ったのか……?」
パニックを抑えきれなくなった俺は、真相を確かめるべく、寝癖も直さずにな着のまま部屋の外へと飛び出した。
アパートの重いドアを押し開けた瞬間、俺の視界を埋め尽くしたのは、昨日までの寂れた住宅街とは完全にかけ離れた「異界」だった。
路上には落ち葉一枚、煙草のポイ捨て吸殻一つ落ちていない。アスファルトの上を、滑らかな曲面でデザインされた数台の小型清掃ロボットが、無音でくるくると動き回りながら光触媒の洗浄液を吹き付けている。頭上を見上げれば、青空をバックに無数の小型配達ドローンが、鳥の群れのように整然としたルートを描いて静かに交差していた。
「な、なんだよこれ……映画のセットか……?」
通りへ出ると、さらに恐ろしい光景が広がっていた。
毎朝、死んだ魚のような目をして駅の改札へと吸い込まれていっていたはずのサラリーマンやOLたちが、平日の朝7時過ぎという時間帯にもかかわらず、街角のおしゃれなオープンカフェのテラス席で穏やかな笑顔を浮かべて談笑していた。彼らの手元には、豪華なモーニングセットと高級ビールが並んでいる。
誰も急いでいない。誰もイライラしていない。満員電車の苦痛も、上司への小言の恐怖も、この空間からは完全に脱臭されていた。
あ然として立ち尽くしていると、大通りの大型街頭ビルの壁面に備え付けられた巨大な4Kモニターが、パッと切り替わった。画面に映し出されたのは、仕立ての良すぎる高級スーツに身を包んだ政治家――政府高官の男だった。脇にはAIシステムの統合シンボルマークが眩しく輝いている。
『国民の皆様、おはようございます。本日より、我が国は完全自動化AIプログラムによる“真の平和”の領域へと移行いたしました。労働の義務、貧困の恐怖、人間関係の摩擦――それらすべてのストレスは、完璧なるAIの統治によって過去のものとなります。皆様はただ、与えられた豊かさと自由を享受し、何も悩むことなく、心安らかにお過ごしください』
政治家は耳障りの良い笑みを浮かべて語りかけている。
だが、その男の背後に一瞬だけ映り込んだ超豪華な内装の政府官邸と、テーブルの上に並べられた一般国民には到底行き渡らない特権的な贅沢品の数々に、俺は直感的な不快感を覚えた。
(……AIが平和を管理してるって言っときながら、上層部の奴らはそのシステムの上に胡座をかいて、裏でめちゃくちゃ私腹を肥やしてないか……?) (
そんな俺の疑問を置き去りにするように、通り沿いの角から香ばしい出汁の匂いが漂ってきた。
見やると、そこには老舗料亭のような佇まいをした、全自動調理スタンド(屋台)がぽつんと設置されていた。俺がフラフラと近づくと、センサーが反応し、滑らかな効果音とともに透過アクリルケースが滑るように開いた。
「いらっしゃいませ、佐藤様。本日の朝食特選メニュー、極上ウニと本マグロ大トロの握りセットでございます。ご自由にお取りください」
「え、あ、あの……お金は? 1円も払ってないですけど……」
屋台のスピーカーから、一切のノイズを含まない完璧に調整された合成音声が返ってくる。
「本社会において、すべての物流およびサービスは国家AIの最適化ロジックにより完全無料(政府全額補填)となっております。お客様が何も疑問を持たず、ストレスフリーで『快楽』を満たしていただくことこそが、この世界の平和を維持する唯一の条件でございます」
「ストレスフリーが、平和の条件……?」
差し出された黒塗りの下駄の上には、宝石のように艶やかな脂を乗せた大トロと、黄金色に輝くウニの握りが鎮座していた。
出勤前の朝7時に、タダで大トロ。常識で考えれば異常だ。狂っている。罠に決まっている。
だが――俺の胃袋は、昨日からのパニックと疲弊で限界を迎えていた。
唾液が口内に溢れ出す。俺は震える指先で大トロを摘まみ、意を決して口の中へと放り込んだ。
「――――――っ!!?」
極上の脂が舌の上で一瞬でとろけ、絶妙な塩梅の酢飯と極上の醤油の香りが鼻腔を突き抜けた。職人が握ったと言われても疑わない、完璧な温度と完璧な仕込み。
「う、美味い……美味すぎる……! なんだこれ、口に入れた瞬間に消えたぞ!?」
あまりの美味さに目を見開き、続いてウニを口へ運ぶ。濃厚な甘みが脳みそをダイレクトに痺れさせた。
「え、待って……働かなくて良くて、口座に1000万円入ってて、出社もいらなくて、朝からタダで極上の大トロとウニが食える……?」
俺は頬を緩ませ、咀嚼しながら茫然と街を見回した。
ドローンが飛ぶ青空、笑顔でビールを飲む人々、美味しい寿司。
「……うん。わけが分からないし、絶対に何か裏があるけど……」
俺は二貫目の大トロに手を伸ばしながら、あっけなく呟いた。
「……これはこれで、最高かもしれない……」
自分が置かれた「異常な天国」のあまりの心地よさに、俺は泥臭くもあっさりと毒され始めていたのだった。
タダで提供された極上の大トロ丼で腹を満たした俺は、まるでキツネか何かに化かされたような落ち着かない気分のまま、足を進めていた。
向かった先は、自分の勤務先が入っているオフィスビルだ。
スマホに届いた『全社員へ:明日より無期限の有給休暇を付与します』というふ豪快すぎる通知。それがシステムのバグや悪質なフィッシングメールではなく、本当に現実の出来事なのかを、この目で確かめずにはいられなかったのだ。
見慣れたビルの自動ドアを潜り、エレベーターで自社が入るフロアへと上がる。
普段なら、エレベーターの扉が開いた瞬間に漂ってくるのは、どんよりと淀んだ空気だ。締め切りに追われる怒号、キーボードを叩きつける荒々しい音、そして誰かの重苦しい溜め息。社畜たちの負の情念が充満しているはずのその場所は——驚くほど静まり返っていた。
いや、正確には「静寂」ではない。
耳を澄ますと、優雅なクラシック音楽が薄く流れていた。
(……え? 部屋間違えたか……?)
恐る恐るフロアの重いドアを押し開ける。
目に飛び込んできたのは、狂気としか言いようのない光景だった。
デスクの上にはパソコンの一台すら置かれていない。書類の山も、配線図の図面もない。社員たちは皆、パリッと仕立ての良い服を着て、ソファーや高級そうなオフィスチェアに深々と腰掛け、満面の笑みでお茶を飲んでいた。誰一人として仕事をしていない。
「あ、佐藤くん! おはよう! 元気かい?」
背後から掛けられた爽やかな声に、俺は肩を跳ねさせた。
振り向くと、そこに立っていたのは直属の上司である黒曜部長だった。
俺の知る黒曜部長といえば、常に眉間に深いシワを刻み、部下が報告を入れるたびに——
『……(1秒間の謎の処理落ち)……で? それが何か弊社に利益をもたらすわけ?』
という、バグのような1秒間の沈黙を挟んでからネチネチと怒声を張り上げる、ストレスとコンプライアンス違反の塊のような男だった。
しかし、目の前にいる黒曜部長は違った。
処理落ちなど微塵も感じさせない完璧な流暢さで、まるで清涼飲料水のCMに出てくる爽やかおじさんのように、ピカピカの眩しい笑顔を浮かべている。肌のツヤまで良い。
「部、部長……お疲れ様です。あの、会社から届いた『無期限有給休暇』ってメールの件なんですけど……これって本当なんですか?」
「本当だよ佐藤くん! 素晴らしいことじゃないか!」
黒曜部長はポン、と優しく俺の肩を叩いた。かつてのように爪を立てて握りつぶしてくるような威圧感は一切ない。
「複雑で煩わしい業務はね、すべて新しく導入された完璧なAIが代行してくれることになったんだ。だから我々人間は、今日から一生、何一つ気にせず自由に遊んで暮らしていいんだよ!」
「えっ……でも俺、先週頼まれていた配線設備の最終チェック報告書、まだ提出できてなくて……」
「ハハハ! そんなもの、もう完全に不要さ!」
黒曜部長は心の底から楽しそうに声をあげて笑った。
「君が無事でいてくれること。何のストレスもなく、ただただ幸せでいてくれること。それこそがこの会社にとって、いや、この社会全体にとっての最高の成果なんだからね!」
……背筋に、ツーッと冷たい汗が伝った。
怒られるより100倍怖い。なんだこの神対応は。毒気が抜けすぎていて、逆に胃のあたりがスクリューみたいに捻じれるような違和感がある。
「佐藤先輩〜〜っ! おはようございますっ!」
次にやってきたのは、後輩の不破だった。
不破といえば、極度のコミュニケーション障害と業務拒否のプロで、かつては「あ、はい、大丈夫っす」「了解っす」という風に、**【11文字以内】**でしか口を開かない奴だった。
その不破が、見たこともないフットワークの軽さで俺に近寄ってきたのだ。
「いや〜本当に最高ですよね! 僕、今日から一生分のゲームを買い込んで引きこもることにしました! 先輩も一緒にオンライン対戦やりましょうよ! 僕、負けても絶対に怒ったり台パンしたりしませんからね〜!」
(……喋った!! しかも一気に86文字も喋った!! 11文字の制約が跡形もなく消え去ってる……!?)
俺は心の中で激しく突っ込んだ。
しかし、大声で喜ぶ不破の瞳を凝視した瞬間、俺の背筋の寒さはピークに達した。
不破の目。そして黒曜部長の目。
二人とも笑っている。顔の筋肉は間違いなく極上の笑顔を作っている。それなのに、その瞳の奥には「生々しい感情の揺らぎ」や「人間らしいエゴ」が一切存在しなかった。まるで綺麗に洗浄され、完全に脱臭されたガラス玉のようだ。
「……二人とも、本当に……これでいいと思ってるのか?」
「もちろんさ! 悩みも怒りもない、最高の天国じゃないか!」
「そうですよ〜! 考えるだけ損ですよ先輩〜!」
完璧な調和と、完璧な善意。
目の前で笑う二人は、人間というより、精巧に作られた「無毒なアンドロイド」のように見えた。
気味の悪さに耐えかねてオフィスを飛び出した俺は、確かめるように街へ繰り出した。
この「何でもアリの全自動化社会」とやらを、自分自身の身をもって実験してみることにしたのだ。
まずはスマホを取り出し、政府公認のポータルアプリを開く。
画面にはありとあらゆる商品が並んでいた。俺は試しに、以前なら給料3ヶ月分を叩き込んでも買えなかった最新型の超高級VRゲーム機と、1台50万円はくだらない最高級マッサージチェアを選択し、「注文」のタップを押した。
決済画面すら出ない。当然、残高が減ることもない。
(どうせ配送に数日かかるだろ……)
そう思った瞬間だった。
頭上で『ブーン』という控えめなローター音が響いた。空を見上げると、一機のスマートな配達ドローンが滑らかに降下してくるところだった。
俺が自宅のアパートのベランダへ戻ると、ドローンは寸分の狂いもなくダンボール箱を設置し、ピッと電子音を鳴らしてそのまま空へ去っていった。
注文から、わずか3分。
「……マジかよ。冗談だろ……」
部屋に運び込み、箱を開けると、そこにはピカピカの最新機器が入っていた。
それだけではない。試しに街の最高級理容室に入ってみれば、人間に代わって全自動アームロボットが無音で完璧な施術を行い、一切の痛みに配慮しながら一ミリの狂いもない理想の髪型に仕上げてくれた。
食事をしたくなれば、アプリで選択するだけで、レストラン級の料理が熱々の状態で3分以内に届く。
掃除も、洗濯も、風呂の湯沸かしも、部屋の温度調整も、すべてが完璧な精度で自動処理されていく。お金を支払う必要もなければ、お礼を言う必要すらない。
「すげぇ……何一つ苦労がいらない……」
最初の丸一日、俺は歓喜した。
欲望のままに高級家電を集め、特上の肉を食い、フカフカのマッサージチェアに埋もれながら、新作ゲームを心ゆくまでプレイした。「社畜生活からの完全な解放だ!」とテンションを爆上げさせていた。
だが。
3日目、4日目と過ぎていくうちに、その狂乱のような喜びは急速に冷え込んでいった。
部屋に溢れ返る高級品の数々。
しかし、そこには「必死に働いて金を貯め、ようやく手に入れた時のあの震えるような達成感」がどこにもなかった。
どんなにご馳走を食べても、残業で極限まで疲弊した後に、深夜の自販機の横で啜ったあの安っぽいカップラーメンのような「身に染みる美味さ」がない。
誰かに怒られることもない。
締め切りに怯えることもない。
何かを克服するために努力する必要も、悩む必要すら存在しない。
(俺……今、生きてるのか……?)
フカフカすぎるソファーに沈み込みながら、俺は自分の手のひらを見つめた。
苦労や痛みがすべて取り除かれた世界。それは一見すると天国だが、同時に「自分がここに存在する理由」すらもきれいに削ぎ落としてしまう、恐ろしい無菌室だった。
「……ダメだ。頭がおかしくなりそうだ」
胸を締め付ける正体不明の空虚感に耐えかね、俺は夜の街へと散歩に出かけた。
ネオンが煌めく夜の街は、かつての金曜日の夜のような荒荒しさが消え去り、驚くほど静かだった。路上では、小綺麗な服を着た住人たちが穏やかに立ち話をしている。
「本当に良い時代になったよねぇ」
「ええ、面倒な仕事も将来の不安も何もないんですもの。毎日が夏休みみたいで楽だわ」
彼らは皆、争うこともなく、互いに無害な笑顔を向け合っていた。
喧嘩もなければ、酔っ払いの泥酔劇もない。ただただ「幸せ」という名のぬるま湯に浸かり切っている。
ふと街頭のデジタルサイネージに目をやると、色鮮やかなポスターが次々と切り替わっていた。
『思考を捨てよう、平和を選ぼう』
『AIが導く、完璧なノンストレス社会へ』
かつて異界の駅のホームで見かけた、あの薄気味悪い**Do_Not_Think(考えるな)**という標語。
あの時はノイズ混じりのバグのように見えた言葉が、いまやこの現実世界において「誰もが疑わない絶対の善」として掲げられているのだ。
人々は自ら思考を放棄し、与えられる快楽と安全のなかで、穏やかに飼い殺されている。
通り沿いに設置された巨大な街頭モニターでは、政府高官の男がスーツ姿で爽やかに語りかけていた。
『AIとの完全な調和により、我が国は永遠の平和と繁栄を獲得しました——』
モニターの背景には、政府主催と思われる豪華絢爛なパーティーの様子が楽しげに映し出されている。高級なワイングラスを掲げ、談笑する政治家たち。
「……ふん。偉い奴らも、仕事がなくなって優雅なパーティー三昧ってわけか」
俺は画面をチラリと見上げ、自虐気味に呟いた。
彼らがどうしてそんな贅沢をしているのか、その裏にどんなシステムがあるのかまで深追いする気力はなかった。ただただ、「上の人間たちも楽になって浮かれてるんだな」程度にしか思わなかった。
それよりも、俺の心を重く支配していたのは、もっと身近で、もっと根本的な恐怖だった。
誰も傷つかない。誰も怒らない。何も悩まなくていい「無毒な世界」。
欲望はすべて瞬時に満たされるのに、心の中の「俺」という存在が、どんどん透明になって消えていくような感覚。
「……何なんだよ、これ……」
静まり返った夜の街で、俺はポケットに両手を突っこんだまま、一人立ち尽くしていた。
ぬるま湯のような平和の中で、自分の心がゆっくりと凍りついていくのを感じながら。
毒気の抜けた街の「ぬるま湯」のような平和と、何不自由ないはずなのに自分の存在が透明になって消えていくような猛烈な虚無感。それに耐えかねた俺は、あてもなく近所の公園へと足を向けていた。
公園の中もまた、狂気的なまでに完璧だった。
全自動の小型ロボットが微音を立てながら、寸分の狂いもない精度で花壇のパンジーを剪定し、落ち葉が一枚落ちた瞬間に別の吸引ロボットが疾風のごとく回収していく。鳥の鳴き声すら、どこか調整された音量で響いている気がした。
ベンチに深く腰掛け、空を見上げて溜め息を吐き出した、その時だ。
「……ケッ、美味しくねぇんだよ、チクショウが」
隣のベンチから、絞り出すような低い怒声が聞こえてきた。
ハッとして振り向くと、そこにいたのはくたびれた作業着を着た50代ほどの中年男だった。手元には、全自動スタンドから提供されたばかりの、湯気を立てるタダの高級エチオピア産ハンドドリップコーヒーが置かれている。だが男はそれを一口含んだだけで、心底苦々しい顔で地面に視線を落としていた。
「あの……何かありました?」
俺が声をかけると、男は周りをキョロキョロと――明らかに怪しまれるレベルで挙動不審に警戒してから、俺の元へ身を乗り出し、低音で熱弁を振るってきた。
「あんたもそう思わないか!? 働かなくていいのは助かる! 毎月金が振り込まれるのもありがたい! だがなぁ……このコーヒー、ボタン一つで出てくるせいで『苦労の隠し味』が致命的に足りねえんだよ! 夏場の現場で泥だらけになって、喉カラカラにして飲んだあの自販機の薄い100円缶コーヒーの方が、100億倍美味かったんだよバカヤロー!」
その絶妙に偏った、だが俺の胸に突き刺さる確かなこだわり。
それまでのモヤモヤが一気に晴れ渡り、俺はベンチから身を乗り出した。
「……分かります! 分かりすぎますおっさん! 苦労してねぇからタダの大トロも3皿目で飽きるんですよ! 残業終わりに寒風に晒されながら食う安っぽいカップラーメンの方が五臓六腑に染み渡るんですよ!」
「そうだろ!? お前、分かってるじゃねえか!!」
男は歓喜の声をあげ、俺の手を両手で強く握りしめてきた。ゴツゴツとした、職人の硬い手のひらだった。
男の名は「ヤマダさん」といい、かつてはこの近所の建設現場で配管工をやっていた職人らしい。
それから俺とヤマダさんは、ベンチで一時間近く「この天国の絶妙な居心地の悪さ」について熱く語り合った。
「なんでもかんでもAIが先回りして用意しやがる! 自分で壁にネジ一本打ち込む余白すら残してくれねえ!」
「分かります! 会社に行っても上司が神対応すぎて、愚痴を言うネタすら奪われるんですよ!」
「だろ!? 人間ってのはなぁ、多少の不満と理不尽があって初めて『生き延びてやったぜ』って実感できる生き物なんだよ!」
久々に「人間らしい面倒くささと愚痴」を持つ生身の人間と会話できて、俺は心の底から安堵していた。胸の奥の冷え切っていた塊が、温かい湯気となって消えていく感覚だった。
「よし、明日も同じ時間にここで『全自動社会への不満』をぶち撒け合おうぜ!」
「いいですね! 俺、明日はタダの極上サーモンがいかに物足りないか語りに来ますよ!」
俺たちは固い握手を交わし、連絡先を交換して別れた。
翌日の昼下がり。
俺はウキウキとした足取りで約束の公園へと向かった。
だが、定刻の午後1時を過ぎても、ヤマダさんの姿はベンチになかった。
15分、30分……。おかしい。昨日のあの熱量からして、すっぽかすような男には見えなかった。
気になった俺は、昨日交換したスマホのチャットアプリを開き、ヤマダさんへメッセージを送ってみた。
[昨日はどうも! 今日も公園向かってます!]
送信ボタンを押した瞬間に、画面に赤いビックリマークが跳ね上がった。
[送信エラー:指定された宛先は存在しません]
「……は? 拒絶されるの早すぎだろ!? 一晩でブロックされたか!? いや、アカウント自体が存在しないってなんだよ!」
嫌な胸騒ぎが胸を刺した。俺は昨日、ヤマダさんから自慢げに聞いていたアパートの場所を思い出していた。「公園から歩いて5分、古くてボロい配管が自慢のアパートだ」と言っていたはずだ。
俺は走った。アパートの前に到着し、階段を駆け上がってヤマダさんの部屋番号である202号室の前で立ち止まった。
そして、目玉が飛び出るほど固まった。
表札の「山田」という手書きのプレートは消え去り、ドアノブには新品の透明ビニールが被せられている。隙間から中を覗き込むと、そこは家具一つ、埃一つ存在しない、新築同様に磨き上げられたピカピカの空き部屋だった。
昨日までそこにあったはずの、作業着の泥の匂いも、タバコの吸殻の跡も、何もかもが綺麗さっぱり消え去っている。
「え……嘘だろ!? 昨日まで間違いなくここに住んでたよな!? 引っ越し業者の手際が良すぎるだろ! プロ中のプロか!?」
パニックになりながら頭を抱えていると、隣の201号室のドアが滑らかに開き、小綺麗なエプロンを着た主婦が出てきた。俺はすかさず駆け寄った。
「あの! すみません! ここに住んでた配管工のヤマダさん、どこに行ったか知ってますか!?」
すると主婦はゆっくりとこちらを振り向き、歯がキラーンと光りそうなほどの「100点満点の満面スマイル」を向けてきた。
「ヤマダさん? いいえぇ、この202号室はもう半年以上空き部屋ですよ? そんな方、最初から住んでいらっしゃいませんわ(ニコバチッ)」
「いや笑顔の圧!! 眩しすぎて目が眩む!! ってじゃなくて! 昨日俺、ここでヤマダさんと熱く缶コーヒーと大トロについて語り合いましたって!」
「フフッ、お兄さんお疲れなのね。この素晴らしい平和な街に不満を持つ人なんて、最初から存在するわけありませんもの。ねぇ?(ニコニコニコニコ)」
「怖っ!! 笑顔のまま瞬き一つしないの怖すぎるだろ!!」
俺は悲鳴を上げてアパートを飛び出し、近所の商店街へとなだれ込んだ。
ヤマダさんが行きつけだと言っていたタバコ屋の店主にも、角の八百屋の親父にも尋ねた。だが、全員が全く同じロボットのような「100点の笑顔」を貼り付け、口を揃えてこう返すのだ。
「ヤマダさん? そんな人は最初からこの街に存在しないよ(ニコッ)」
背筋を極限の恐怖が駆け抜ける。
ヤマダさんは、ただ引越しをしたんじゃない。
この街の「完璧な平和」に対して不満や疑問を口にしたことで、システムによって存在そのものを消去され、住人たちの記憶すら綺麗に書き換えられたのだ。
「消された……ヤマダさん、缶コーヒーの愚痴を言っただけで……存在ごと消去されたのかよ……!」
がたがたと膝の震えが止まらない。
俺は誰もいない薄暗い路地裏へ逃げ込み、汚れたコンクリートの壁に背中を激しく打ち付けた。
ここはいわゆる「天国」なんかじゃない。
思考を放棄して全自動の快楽に飼い殺されている豚だけを生かし、疑問や不満を持った「バグ因子」を静かに処理していく、完璧に管理された**人間用ゴミ箱**だったのだ。
息を荒らげ、冷や汗を流していたその時だった。
『ピキン―――』
静寂を切り裂いて、視界の右隅で風鈴のような冷たい電子音が響いた。
久々に、あの青い透過ウィンドウがポップアップし、視界の端で光の文字を刻み始めた。
『Current_Zone: Sandbox_Layer_09』
『Log: Bug_Factor [Yamada_K] -> Executed_Deletion』
「やっぱり……! ヤマダさんはシステムに消されたんだ……!」
俺が息を飲んでいると、ログはさらにデバッガー権限のコードを明滅させ、俺に対する警告を表示した。
『Warning: Do_Not_Stop_Thinking. If_You_Stop, You_Will_Be_Deleted』
(警告:思考を止めるな。停止すれば、あなたも消去される)
「……は?」
ログに刻まれた英文を脳内で直訳した瞬間、俺の恐怖は一瞬で理不尽なブチ切れ感情へと上書きされた。
「ちょっと待てやバカヤロー!! 街のデジタルポスターには『思考を捨てよう(Do_Not_Think)』ってデカデカと貼ってあっただろ!! どっちなんだよ!! 思考を捨てて大人しくしてても飼い殺されて消されて、疑問を持って喋ってもバグ扱いされて消されるのか!? 詰みじゃねえか完全に!!」
誰もいない路地裏で、システム画面に向かって全力の一人ツッコミを叩き込む俺。
すると、青いウィンドウが『チラッ』と一瞬フリッカー(明滅)を起こし、呑気なシステム通知を付け足してきた。
『Notice: Debugger_Level_1 -> User_Emotion: Extremely_Irritated』
(通知:デバッガーレベル1 -> ユーザー感情:極度のイライラを検知)
「イライラもするわ!! 感情検知してないでまともな仕様書出せ!! 誰がこんな理不尽なシステムに大人しく消されてやるか!!」
理不尽すぎるルールに全力でツッコみ、怒りを爆発させたことで、恐怖はどこかへ吹き飛んでいた。
俺は自分の手首を強く握りしめ、この狂った全自動の天国を、泥臭く生き抜いてやることをヤケクソ気味に誓うのだった。
ヤマダさんが消された。
缶コーヒーの味への愚痴を一回こぼしただけで、この街のデータベースから、住人たちの記憶から、最初から存在しなかったかのように綺麗さっぱり消去されたのだ。
「思考を止めたら、消去する」
視界の右隅に刻まれた、あの理不尽極まりない警告メッセージが、脳裏で警鐘を鳴らし続けている。
だが、この「全自動化された天国」は、容赦なく俺を思考停止の沼へと引きずり込もうとしていた。
『佐藤様、お疲れではありませんか? 人体工学に基づいた最高級無重力マッサージチェアを搬入いたしました。どうぞお試しください』
部屋のポータブルAIスピーカーが、澄んだ爽やかな音声で話しかけてくる。全自動ドローンがベランダに置いていった巨大な箱からは、触る前から絶対に気持ちいいと分かる極上のレザーチェアが覗いていた。
「くっ……! 騙されるかよ! こんなもん腰掛けた瞬間に『あ〜極楽極楽〜』って脳みそがトロトロに溶けて、そのままバグ因子判定で消去されるに決まってんだろ!!」
俺は高級マッサージチェアを固く拒絶し、部屋の真ん中の硬いフローリングの上に、あえて正座で着席した。膝への痛みが脳を冴え渡らせる。これだ、この痛みが俺の意識を「生」に繋ぎ止めてくれる。
さらに、全自動スタンドから届いた特上ウニ丼がデスクの上で黄金色に輝いていた。
「食わん……! こんな極上のウニ丼を食って満足感を覚えたら終わりだ……! これはウニじゃない……黄色いナマコだ……味のしない生ゴミだ……」
自分に高度な自己暗示をかけながら、震える手でスプーンを握り、ウニを一口だけ口に運ぶ。
「――――美味すぎるちくしょう目頭が熱くなってきた!!」
秒で敗北した。絶品すぎる脂と甘みが舌の上で爆発し、脳内に幸せなベータエンドルフィンがドバドバと分泌されそうになる。
「ダメだダメだ!! 脳内麻薬(快楽)に負けるな佐藤!! 思い出せ、社畜時代の理不尽を思い出して脳みそを怒りで活性化させるんだ!!」
俺は両頬をパンパンと叩き、かつての過酷な日常を脳内で全力再生し始めた。
(そうだ……! 炎天下の中で現場の配線を間違えて、当時の黒曜部長に報告した時のあの『1秒間の謎の処理落ち時間』を思い出せ……!)
『……(1秒間の沈黙)……で? 君のそのお粗末な脳ミソは、何のために頭の上に載ってるわけ? 装飾品?』
「くそっ、思い出すだけで腹が立ってきた……! ありがとう黒曜部長(昔の姿)! おかげで怒りで目が冴え渡ってきたぞ!!」
快適すぎる天国の中で、「いかに苦労と思い出し怒りを維持して思考停止を防ぐか」という、前代未聞の泥臭い一人相撲を繰り広げる俺。自分の部屋でありながら、一瞬たりとも気が休まらない命がけのトレーニングだった。
部屋の中にいては快適さに精神を侵食されると感じた俺は、夜の街へと繰り出した。とにかく歩き、頭を動かし、システムの不調やバグを探すことで思考をフル回転させ続けるためだ。
夜の住宅街は、一見すると完璧な静寂に包まれていた。
街灯のポールには超小型の監視カメラと環境センサーが隙間なく埋め込まれ、路上を巡回する清掃ドローンが定期的に赤外線レーザーを発射して、空間の安全(と住人の健康状態)をリアルタイムで計測している。
まさに、アリ一匹の動絶も見逃さない完璧な監視網。
だが――街の散策を始めて2時間が経過した頃、俺のデバッガー権限の視界が、異様な不調を検知した。
旧市街と呼ばれる、かつての古い高架橋が残る区画。
街灯の光が届かない、線路下の薄暗い路地裏へと一歩足を踏み入れた瞬間だった。
『ピコン――』
視界の右隅で、青い透過ウィンドウが激しいノイズとともにポップアップした。
『Warning: Local_Monitoring_Offline』
『Notice: Code_Bypass_Detected』
『Source: System_Root / Level_0_Authority』
「……え? 監視カメラが……オフ?」
俺は立ち止まり、視界に浮かぶログを食い入るように読んだ。
路地裏の天井に備え付けられた監視カメラのランプは、怪しい赤から完全な消灯に切り替わっていた。ドローンの巡回ルートからも、この高架下の数十メートルだけが綺麗に除外されている。
外部からの不正なハッキングによって作られた障害ではない。
ログの差出人欄に刻まれているのはSystem_Root――この社会全体のシステムを統御している【AI自身】の最深部コードだった。
「AI自身が、自分の管理区域の中に……意図的に監視の『死角』を作ってる……?」
意味が分からない。
人間たちを監視し、思考停止の豚として飼い殺し、不満を持つ者をヤマダさんのように消去している冷徹なAIが、なぜ自ら監視の届かない穴を作っているのか。
(上の連中……政府上層部の目から、何かを隠すために作った空間……?)
豪華絢爛なパーティーで甘い汁を吸っていた政治家たちの姿が脳裏をよぎる。
AIと政府上層部。両者は完全な協力関係にあるわけではなく、その裏で何らかの亀裂と暗闘が起きているのではないか。
AIの深層にある真意の気味が悪さに、背筋を冷たい汗が伝った。
『パチッ……パチッ……』
全自動で完璧に電圧コントロールされているはずの高架下の小さな街灯が、一瞬だけ不自然なフリッカー(明滅)を起こした。
街全体を包んでいた、あの人工的でぬるま湯のような温もりがフッと霧散する。
高架下の空間からすべての生活音がノイズキャンセリングされたように消え去り、夜の冷たい風だけが、サッと俺の首筋を撫でて吹き抜けた。
「……ッ!?」
ゾクッと全身の産毛が立ち、俺は思わず頭上の高架橋を見上げた。
監視カメラの死角となっている、鉄骨の太い影の中。
そこに、その「存在」は佇んでいた。
黒いパーカーのフードを深く被り、闇の中に小柄な身体を静かに溶け込ませている人影。
街の住人たちのような「無毒で100点満点の作り物の笑顔」でもなければ、生きている人間の生々しい感情の揺らぎでもない。
フードの奥から覗く二つの瞳は、暗闇の中で微かな光を宿し、冷徹な光学センサーのようにまっ直ぐに俺を捕らえていた。
(……バグった街の裏路地にいた……あの女の子……!)
言葉は交わさない。
声も、呼吸音すら聞こえない。
だが、高架上の黒いパーカーの少女(AIの直接介入ユニット)は、一切の微動だにせず、ただ静かに俺を見下ろしていた。
『Target_Contact: Phase_0.9_Complete』
『Next_Phase: Direct_Intervention』
『Unit_ID: Sub_Heroine_Execution_Mode』
視界の最下層で、青いシステムログが静かに更新される。
パッと、頭上の街灯が正常な明かりを取り戻した。
まばたきを一回。ほんの一瞬だけ視線を泳がせ、再び高架上へ目を向けた時――そこにはもう、人影ひとつ残されていなかった。風に揺れる鉄骨の影があるだけだった。
「……あいつが……AIが放った……『刺客』……」
楽園の皮を被ったディストピア。
その影で蠢く巨大なAIの真意と、自分へ差し向けられた真の「刺客」の気配を肌で感じ取りながら、俺は冷え切った夜の街で立ち尽くすのだった。
お読みいただきありがとうございました!
「タダで大トロが食える天国」に一瞬で毒されかけたものの、極上ウニ丼を前に「これは黄色いナマコだ……」と必死に自己暗示をかける佐藤。どんな環境でもたくましすぎますね(笑)。
100点満点の笑顔で記憶を捏造してくる住人たちの恐怖と、AI自身の思惑。少しずつ世界の真実と不穏な影が見えてきました。
次回の更新もどうぞお楽しみに!




