第2章:駅のホームで背中を押された瞬間、僕の人生(仮想)は終了した
朝、満員電車に揺られ、真面目に働く。
あなたが疑いもなく過ごしているその「日常」、本当に本物ですか?
第2章――『駅のホームで背中を押された瞬間、僕の人生(仮想)は終了した』
画面の向こう側の不条理が、ついに主人公・佐藤の視界を侵食し始めます。
謎が深まる「仮想」と「現実」の境界線をお楽しみください。
ドカン――ッ!!!!
鼓膜の奥どころか、脳髄そのものを強烈な鉄の拳で殴りつけられたかのような絶望的な破壊音。
直前まで視界を灼いていたのは、闇を裂いて滑り込んできた通勤電車の二重の白銀ヘッドライトだった。眩酷な光の束線が夜のホームを舐め回すように照らし、時速数十キロで進入してきた数トンの鉄塊が、回避の猶予すら与えずに俺の身体を正面から押し潰す。骨が肉を突き破り、内臓が炸裂し、存在そのものが擂り潰される感覚――があったはずだった。
(あぁ……俺の人生、マジでこんなバグ動画のオチみたいな終わり方なのかよ……)
意識が寸断され、体温が急速に失われていく暗黒の底で、俺は己の「死」を疑いようもなく痛感していた。
11文字でしか意思疎通ができない後輩の不破。声をかけた瞬間に1秒間のローディングタイムを挟んでから大声を張り上げる黒曜部長。工業用の高精度レーザーで精密カットされたとしか思えない均一すぎるキャベツの千切り。
思い返せば、あの日常は狂っていた。違和感と不条理の塊だった。だが、そんな不気味な世界から脱出する方法が、見知らぬスーツ姿の男に駅のホームで背中を押され、電車に轢かれて死ぬことだったなんて、あまりにも惨めで救いがないじゃないか。
暗黒。完全なる無。思考のノイズすら消え失せ、俺というデータが世界のメモリから削去されていく感覚。
――しかし。
その漆黒の静寂の最奥から、不快な高音を放つ無機質な電子音が、俺の脳の芯に直接突き刺さった。
『ピ――――――』
音覚だけではない。何かが、俺の意識の底で激しくノイズを打ち上げている。
『エラー:対象の物理消去処理に失敗しました』
『エラーコード:0x80070005 - System_Access_Denied』
『例外処理プロトコルを起動中――』
カチリ、と頭の奥で、重厚な鉄の歯車が不気味に噛み合う音が響いた。
「――ぶっはぁっ!?」
俺は突如として肺の奥底へ跳ね込んできた猛烈な酸素の冷たさに激しくむせ返り、跳ね起きるように両目を見開いた。
「ハァ……! ハァ……! ガハッ……! 息が……胸が……っ!?」
荒い息を吐き出しながら、俺は狂ったように自分の全身をむさぼるように触りまくった。
頭、首筋、両肩、胸元、腰、太もも、足首。
痛くない。血が出ていない。骨が肉を突き破ってもいない。着ていた安物のスーツのジャケットには、破れどころか油汚れひとつついていなかった。
「嘘だろ……? 膝が……腕が……ちゃんとある……!?」
俺は茫然としながら、両手の手のひらを何度も開いては握り締めた。皮膚の感触、体温、指先を流れる血液の脈動。どれも間違いなく俺の身体だった。
周囲を見回す。そこは、見覚えのあるターミナル駅の二番線ホームだった。
だが、夕方の激しい混雑と熱気は嘘のように消え去っていた。
押し合いへし合いしていたサラリーマンや学生たちの姿は一人もなく、無機質なLED蛍光灯の青白い光が、しんと静まり返ったコンクリートの床と線路を虚ろに照らしている。冷え切った地下特有の静寂が、肌にねっとりとまとわりついてきた。
柱に設置されたデジタル時計の表示に目をやる。
『25 : 14』
「25時……? 1日の中に存在しない時間じゃないか、これ……」
俺は床にへたり込んだまま、額の冷や汗を拭った。
「生き……てる……? 俺、あのバカでかい電車に正面から跳ね飛ばされて、線路のチリになったはずなのに……なんで無傷でホームの上に倒れてるんだ……?」
夢だったのか? 突き落とされたのも、迫り来る電車の圧迫感も、全部俺が過労で見せた壮大な幻覚だったとでもいうのか?
「ハハ……なんだよ……ビびらせやがって……。早く家に帰って寝よう……」
自嘲気味に笑い、床に手をついて立ち上がろうとした――まさに、その瞬間だった。
『ピッ』
耳奥で短いビープ音が鳴り、俺の視界の右隅に、透過する鮮烈な「青いウィンドウ」がニュッとポップアップしたのだ。
『Target_Object: Sato_Shinji』
『Status: Alive』
「――うわあぁあぁっ!?」
俺は尻餅をついて後ろへ飛び退いた。
何だこれ!? 視界の中に、何か透明な画面が浮いている!?
半透明の青いスクリーンには、白いシステムフォントで文字列がズラリと並んでいた。視線を右へ動かせば青い画面も右へついてくる。目を瞑っても瞼の裏側にハッキリと映し出されていた。
「な、なんだこれ!? 目の中に液晶ディスプレイが埋め込まれた!? 超最新の眼科医療か何かか!?」
俺が頭を抱えてホームの真ん中でパニックになっていると、無人のホームの静寂を切り裂いて、硬い革靴がコンクリートを叩く規則正しい音が響いてきた。
『カツン……カツン……カツン……』
照明の影からゆっくりと歩み寄ってくる、安物のグレーのスーツを着た男。一切の喜怒哀楽を削ぎ落とした、能面のように無機質な顔立ち。
数十分前、このホームで俺の背中を躊躇なく押し出した――あの男だった。
男の眼光には、死んだはずの俺がなぜ無傷でここにいるのかという当然の疑問すら浮かんでいなかった。冷酷で虚無的な瞳で俺を見下ろしている。
男がすうっと右腕を持ち上げると、その指先からテレビの砂嵐のような黒いノイズが放たれ始めた。
「対象の消去プロセスを再実行します」
ラジオの自動音声のような声。
「ひぃっ……! またお前かよ!? っていうか指先からノイズ出てるよ!! 人間じゃねえだろお前!」
俺は叫びながら後ろへ下がったが、背中がコンクリート柱にドスンとぶつかる。退路はない。
男の手から黒いノイズの塊が解き放たれ、俺の胸元を目がけて一直線に迫る――!
(アカン……二度目だ……今度こそ死ぬ――!!)
俺は強く両目を瞑った。
――だが。
『ピピピピッ――!』
パチン、と目の前で何かが弾け飛ぶ音がして、男の動きがポーズを決めたままピタッと止まった。全身が古い動画ファイルみたいにカクカクとフリーズしている。
「……え? 弾けた? っていうかお前、なんでポーズ決めたまま止まってんの!? 処理落ちか!?」
男からの返答はない。
理由は何もわからないが――ただ一つ確かな事実があった。
「わ、理由は知らんが……逃げるなら今だ――!!」
俺はガクガク揺れる脚に無理やり喝を入れると、フリーズしている男の真横を猛スピードで通り抜け、駅の階段へ向かって人生一番の猛ダッシュを開始したのだった。
「ハァ……! ハァ……! カハッ……っ!」
俺は心臓が口から跳び出しそうなほどの猛ダッシュで、改札へ向かう地下階段の段差を二段飛ばしで駆け上がっていた。
太ももの筋肉が悲鳴を上げ、喉の奥が焼き切れたように痛む。だが、後ろを振り返る余裕なんて微塵もなかった。あのポーズを決めたまま画面ごとフリーズしていたグレーのスーツの男が、いつカクカクとした不気味な動作を再開して追いかけてくるか分かったもんじゃないからだ。
「なんなんだよアイツ……! 指先からテレビの砂嵐出すとか、どこのバトル漫画の怪人だよ……! 俺はただの設備配線担当の平社員だぞ!? 命狙われる覚えなんてこれっぽっちもねえよ!」
息を激しく切らしながら階段を登り切り、普段なら朝夕の通勤ラッシュでごった返している地下コンコースへと飛び出す。
――だが、そこもまた、薄気味悪い青白いLEDの光に包まれた完全な「死の世界」だった。
シャッターの降りたキヨスク、消灯した自動券売機、誰も並んでいない改札口。目に入るすべての景色から人間という要素だけが綺麗に削ぎ落とされ、静寂が不気味に蠢いている。
そして、その異様な光景全体に重なるように、俺の視界の右隅に張り付いた「青い透過ウィンドウ」が、淡々と不吉なシステム情報を更新し続けていた。
『Target_Object: Sato_Shinji』
『Status: Escaping』
『Conflict_Probability: 0.00%』
「また出たよ『衝突確率0%』……! 謎の殺し屋に追いかけ回されて命の危機に直面してる人間のコンフリクト率がゼロってどういう計算なんだよ! システムの壊れた電卓か!?」
己の視界に居座る不条理な文字列に全力でツッコミを入れつつ、俺は改札口のプラスチック製フラッパーゲートを乗り越えようと脚を伸ばした。
――その時だった。
『ピ――――――』
耳奥で不快な電子音が響き、改札機の横の壁に貼られていた駅の案内ポスターの表面が、まるで故障した液晶ディスプレイのように一瞬だけ激しくチラつき、ノイズを走らせた。
印刷されているはずの「危険! 駆け込み乗車はおやめください」という文字が、ドロリと歪み、無機質な英単語の羅列へとリアルタイムで書き換わっていく。
[Ad: Poster_04 / Message: "Do_Not_Think"]
「思考するな……? 考えるな……って書いてあるのか……?」
走る足を一瞬ゆるめ、俺はその異常なメッセージに目を奪われた。
ただの駅の広告ポスターにまで、俺たちの思考を停止させるためのプログラムが張り巡らされていたというのか?
(いや、立ち止まって考えてる場合じゃない! 逃げなきゃ……!)
俺はハッと正気に戻り、ジャケットの胸ポケットを上からぎゅっと押さえた。
激しい全速力で上下に揺れる胸元で、亡くなった親父から預かったあの不格好な「真鍮の鍵」が、俺の体温に温まることもなく、氷のように冷たい金属の感触を静かに主張していた。電車に正面衝突された時も、今こうして死に物狂いで逃走している時も、その鍵だけは傷一つつくことなく、不気味なほど変わらない硬質な存在感を保っている。
その時、背後の階段の下から、再びあの規則正しい不快な足音が響いてきた。
『カツン……カツン……カツン……』
「ひっ……!? もう追いついてきたのかよ! 処理落ちからの復旧が早すぎるだろ!」
振り返ると、階段の暗がりから例のグレーのスーツの男が、呼吸ひとつ乱す様子もなくヌッと姿を現した。男の周りの空気が、再び黒い砂嵐のような歪んだノイズを纏い始めている。
「逃走は無意味です。対象オブジェクト【佐藤】の削除処理を完遂します」
ラジオの自動音声のように平板な声。
「冗談じゃない! 誰が大人しく消去されてやるか!」
俺は改札のゲートを強引に跨ぎ越すと、地上へ続く長い階段を目指して再び走り出そうとした。
だが、パニックで破裂しそうな頭の中で、視界の隅に浮かぶ「青いウィンドウ」の下端に、小さな入力フォームのような点滅カーソルが存在することに気づいた。
『Input_Debug_Command: [ _ ]』
「コマンド……入力……? これ、俺が何か入力できるのか……!?」
直感だった。
画面に出てくる怪しいシステムだ、何か敵の攻撃を無効化する魔法の呪文か、この異常事態を強制終了させるデバッグコマンドがあるに違いない!
「ええい、知らん!『消去』の逆なら『停止』か『キャンセル』だろ!!」
俺は必死に走りながら、頭の中でその単語を強く強く思い浮かべた。
(ストップ! 『STOP』! あるいは『CANCEL』!! 頼むからあのノイズ野郎の動きを止めてくれ――!!)
『ピピッ!』
俺の脳内の必死な思考に反応するように、青いウィンドウへ文字列がスラスラと打ち込まれた。
『Command_Accepted: [ CANCEL_ALL_PROCESSES ]』
『Executing_Global_Cancel...』
「よし! 入った!!」
俺は勝利を確信してピタリと足を止め、胸を張って振り返った。
これで敵のノイズ攻撃がキャンセルされ、あのスーツ男は完全に機能停止して床に崩れ落ちるはず――!
『ドォン――――――ッ!!!!』
「――ぶべらっ!?」
次の瞬間、俺が立っていた足元のコンクリート床が、内側から猛烈なエネルギーで炸裂した。
視界が真っ赤に染まり、突風のような衝撃波と熱風が俺の全身を容赦なく吹き飛ばす。
俺はダサく空中で二回転ほどきりもみ回転し、そのまま改札前の冷たいコンクリートへ激しく顔面から叩きつけられた。
「ガハッ……!? 痛ぁっ!? な、なんで足元が爆発してんだよ……っ!?」
顔面を打ち付けた痛みに涙を流しながら、煤けた床に這いつくばって視界を凝視すると、青いウィンドウに真っ赤な警告ログが文字化け混じりで流れていた。
『Error: Command_Not_Found』
『Self_Destruction_Sequence_Initiated (Local)』
『エラー:アクセス権限不足によりコマンドが暴走しました。局所的自爆処理が実行されました』
「自爆コマンドじゃねえかバカ野郎――――っ!!」
俺の拙いデバッグコマンドの入力は、敵を止めるどころか、自分自身の足元を精密爆破するという最悪のセルフ自爆を引き起こしたのだった。
「痛たた……膝が……膝が笑ってるんじゃなくて物理的に笑えないくらい痛い……! 服もビリビリだし……!」
白煙が充満するコンコースで、俺は半泣きになりながら、ズタボロの身体を引きずって再び泥臭く立ち上がるのだった。
「痛てて……スーツはボロボロだし、膝はすりむくし、散々すぎるだろ……」
自爆コマンドの爆風で煤けたジャケットの裾を払いながら、俺は地上への階段を転がるように駆け上がり、真夜中の地上へと命からがら飛び出した。
そこは、俺が毎日のように通勤で使い古している、見慣れた駅前ロータリーのはずだった。
だが、そこに広がっていたのは、俺の知っている「現実」などでは断じてなかった。
「……なんなんだよ、これ……嘘だろ……?」
頭上の街灯の光、立ち並ぶ高層ビルの窓から漏れる生活感のない明かり、整然と並ぶ自動販売機や街路樹。
そのすべてが、まるで処理能力を超えて歪んだ低クオリティなCG画像のように、時折チラチラと不快なノイズを走らせ、不気味に明滅していたのだ。
見上げるほど巨大な雑居ビルのガラス壁面に目を向けると、そこには現実の光景に重なるように、青く発光する透明なシステムテキストが浮かび上がっていた。
[Building_A / Render_Distance: 50m / Memory_Usage: 88%]
「レンダーディスタンス……? メモリ使用量……? 描画距離が50メートルってどういうことだよ……! 街全体が、出来損ないのシミュレーションゲームみたいになってる……!」
俺たちが生まれてから疑いもなく『現実』と呼んできたこの世界の正体。それは、緻密に描画された巨大なデータプログラムそのものだったのだ。
世界そのものが崩壊していくような恐ましさに鳥肌を立てながら、俺は人目のない夜の繁華街の狭い路地裏へと逃げ込んだ。
冷たいコンクリートの壁に煤けた背中を預け、激しく上下する胸を押さえて呼吸を整えようとした、その時だ。
視界の右隅で、青い透過ウィンドウが『ピッ』と甲高い音を立てて更新された。
『User_Role: Debugger_Level_1』
『Available_Permissions: Read_Only (Partial_Write)』
「デバッガー……レベル1……? 閲覧権限……一部書き込み権限……?」
俺の意志とは完全に無関係にシステムから付与された、謎めいた役職とアクセス権限。
だからさっき、改札の前で不器用にコマンドを思い浮かべただけで、あんなセルフ自爆を引き起こしたのか? 俺は一体いつの間に、この狂った世界の「バグ取り担当者」に勝手に任命されたってんだよ!
『カツン……カツン……カツン……』
「――ひっ!?」
湿ったアスファルトを打ち鳴らす、あの規則正しく硬い靴音が、暗い路地裏の前後から同時に響いてきた。
慌てて前後に目をやると、路地の入り口と奥の暗がりから、ゆっくりと足音を揃えて歩み寄ってくる人影があった。
追ってきたのは、あのグレーのスーツの男――だけではなかった。
路地裏を挟み込むように現れたのは、全く同じ顔、全く同じ体型、全く同じグレーのスーツを纏った三人の男たちだった。
全員が能面のように感情の抜け落ちた顔で、寸分違わぬ機械的な動作で同時に右腕を持ち上げる。
「対象オブジェクト【佐藤】を検知。システムからの削除プロセスを同時実行します」
「三人に増えてんじゃねえか!! 複製すんな! 敵をコピペして増殖させるなバカ野郎!!」
俺は絶望的な悲鳴を上げ、壁に背中を擦り付けながらジタバタと後ずさった。
三人の男たちの指先から、一斉に猛烈な密度の黒い砂嵐――空間を食い荒らす破壊ノイズが解き放たれる。逃げ場のない狭い路地裏を、真っ黒な死の奔流が完全に埋め尽くしていく。
「しまっ――!!」
完全に死を覚悟し、俺は頭を強く抱え込んで丸くなった。
直後、全身を肉腫に変えるような猛烈な破壊エネルギーが、俺の至近距離で炸裂する――はずだった。
『ピピピピピピピッ――――ッ!!』
『Critical_Error: Target_Is_Protected』
『Access_Violation: Override_Denied』
ドガガガアンッ!と耳を突き破るような強烈な衝撃音が路地裏に轟いたが、俺の身体には痛みどころか、かすかな熱気すら届かなかった。
「……え?」
恐る恐る抱えた腕の隙間から目を開けると、三人の男たちが放った黒いノイズの束が、俺の鼻先数センチの空間で、目に見えない強固な「透明なガラス壁」に叩きつけられたように「バチン!」と激しい火花を散らして弾け飛び、綺麗に消滅していたのだ。
「……弾けた……? 攻撃が届いてない……? なんで……?」
男たちの頭上に、血のような真っ赤なエラーログが猛烈な速度で滝のように流れていく。
直後、三人の刺客は突如としてすべての動作を停止し、バッテリーの切れた人形のように、右腕を掲げた体勢のままカクカクと不気味なフリーズを起こした。
「な、なんか知らんが……俺を守る謎の強力なエラーが出てる……!?」
訳が分からない。なぜ敵の攻撃が俺の直前で弾け飛ぶのか、なぜシステムが俺を保護しようとするのか。
だが、この処理落ちによる停止が長くは続かないことだけは、これまでの命がけの逃走劇で痛いほど学習していた。
「助かった理由は後回しだ! フリーズしてる間に逃げ切ってやる!!」
俺は不気味に固まった三人の刺客のわずかな隙間をすり抜け、データが崩壊しつつある街の闇の中へ向かって、泥臭く再び全力で駆け出すのだった。
「ハァ……ハァ……! もう……足が、動かねえ……っ!」
激しい動悸と極度の酸欠で、視界の輪郭がチカチカと黄色く明滅する。
フリーズを起こした三人の刺客からなんとか逃げ延びたものの、パニックで迷い込んだのは、高さ数十メートルの雑居ビル群に囲まれた最悪の行き止まりだった。
左右と正面をそびえ立つ湿ったコンクリート壁に阻まれ、俺の逃げ道は完全に潰れている。
そして、最悪なことに――。
『カツン……カツン……カツン……』
背後の暗がりから、あの吐き気のする規則正しい靴音が重なり合って響いてきた。
「復旧が早すぎるだろ……! エラー吐いて処理落ちしたなら、少しは再起動に時間かけろよ……!」
振り返ると、路地の出口を塞ぐように、あのグレーのスーツを着た男たちが整然と並んでいた。
一人や二人ではない。ビルの影、非常階段の裏、果ては雨樋の隙間から滑り出るように次々と姿を現し、その数は瞬く間に十数人にまで膨れ上がっていた。全員が寸分狂わぬ同じ顔、同じ無表情。不気味なコピペ集団だ。
「対象オブジェクト【佐藤】の隔離を確認。例外処理(保護エラー)のバイパスを実行。直ちに削除プロセスへ移行します」
十数人の刺客が一斉に右腕を持ち上げる。
その指先から解き放たれた黒い砂嵐――空間を食い破る巨大なノイズの渦が重なり合い、路地裏全体を呑み込む津波となって押し寄せてきた。
「バイパスって……保護エラーまで破られたら、今度こそ俺の命は……っ!」
強烈な電子臭と死の圧迫感に押し潰され、俺はぐっと両目を閉じ、不格好な真鍮の鍵が入った胸ポケットを固く握りしめた。
――その時だった。
『凛―――……』
耳奥で、風鈴が鳴るような清涼で澄んだ高音が響いた。
刺客たちが放った巨大な黒いノイズの津波が、俺の数歩手前で突如としてピタリと停止し、まるで極寒の氷の結晶のようにパリパリと音を立てて凍りつき、砕け散ったのだ。
「……え?」
恐る恐る目を開けた俺の視界の隅で、青い透過ウィンドウに、これまで見たこともない純白のシステム文字が割り込むように刻まれていく。
『Admin_Override: Authorization_Granted』
『Executing_Process_Kill...』
直後、頭上のビルのダクトの上から、人影がフワリと一切の着地音を立てずに舞い降りてきた。
夜の闇の中に現れたのは、小さな一人の少女だった。
黒いパーカーのフードを深めにかぶり、その隙間から覗く瞳は、感情の欠片もなく冷たく透き通っている。彼女が手に持った無機質な小型端末の画面を細い指先で淡々とタップすると、十数人のスーツの男たちの全身が瞬時に黒いノイズへと還元され、シュウシュウと不気味な煙を上げて消滅していった。
「消えた……!? 一瞬で全員消去された……!?」
圧倒的な惨状を一瞬で片付けた少女の規格外の力に、俺は開いた口が塞ガラなかった。
少女はゆっくりと立ち上がり、フードの奥から俺の顔を無表情に見つめてきた。
その瞳には、人間らしい感情の色が何一つ存在しなかった。
命を救ったヒーローのような得意気な色も、見知らぬ不審者を警戒する人間的な色もない。まるで精巧に作られた最高性能のセンサーレンズのように、無機質に、淡々と俺の全身をスキャンしているだけだ。
「対象【佐藤】の生存を確認。追撃プロセスの無力化、完了」
起伏のない、まるで合成音声のように平坦で冷たい声。
「え……? 君、誰だよ? 助けてくれたのか……?」
「質問は不要。……ついてきて、佐藤サン」
「えっ、なんで初対面なのに俺の名前知ってんの!? っていうか君、何者なんだよ!?」
少女は俺の問いかけを完全に無視すると、機械のように無駄のない動作で俺の手首を掴んだ。
その皮膚の感触は、生きている人間のそれとはかけ離れた、氷のように冷たく硬質だった。
「待ってくれ! 説明してくれよ! 俺の日常はどこに行ったんだ!? 街がバグって、刺客に追われて、なんで君がそんな魔法みたいなことができるんだよ!」
パニックで叫ぶ俺を引きずりながら、少女は振り返りもせず、淡々と、しかし決定的な事実だけを告げた。
「あなたの『日常』なんて、最初からどこにも存在しない。……移動を開始する」
氷のような冷たさの手首に引きずられるまま、俺はデータが崩壊しつつある狂った街の闇の中へと、泥臭く足を踏み出していくのだった。
お読みいただきありがとうございました!
自爆コマンドを入力して自分で吹き飛ぶ主人公、書かせていて非常に楽しかったです(笑)。
JIS規格通りのキャベツといい、この世界のデバッガー(Level 1)は前途多難ですね。
ラストに登場した無表情フード少女。彼女が佐藤をどこへ連れて行くのか、そして佐藤が胸ポケットに握りしめる「親父の鍵」にはどんな秘密があるのか……。
それでは、第3章でお会いしましょう!




