第1章:毎日マジメに働いているのに、この世界は何かがおかしい
前3部作のラブコメ編・スタートです
登場人物を一新しています
【お知らせ】
※本作品のテキストには一部「11文字の制約」や「1秒間のフリーズ」が含まれておりますが、仕様です。
※読者の皆様の【現実感パラメーター】に異常をきたす恐れがありますので、適宜深呼吸をしてお楽しみください。
人生という名のクソゲーにおいて、最も理不尽かつ回避不可能なランダムイベントは何かと問われれば、俺は迷わず「朝の目覚まし時計の鳴動」と答える。
「……ふあぁぁぁ……くそ、目覚ましのアラーム音を『爽やかな小鳥のさえずり』に設定した奴、絶対に鳥類に親を殺された過去があるだろ。人間の神経の最も繊細な部分を精密ピンセットで突くような、絶妙に苛立たせる周波数だな……」
俺――佐藤進、三十歳。しがない中堅商社『東和物産』の営業第一課に勤める、どこにでもいる典型的な平社員だ。
ツーブロックの横髪を雑に手ぐしで整えながら、狭い四畳半のワンルームに鎮座する安物のパイプベッドからゆっくりと体を起こす。体重をかけるたびに軋むスプリングの音が「ギー……」と虚しく部屋の四隅に響き渡った。
薄手のカーテンをシャッと開けると、目の前には今日も絵に描いたような、いや、絵に描きすぎたような完璧な快晴が広がっている。
太陽の位置、ベランダのアルミ手すりに反射する光の角度、青空のグラデーションの滑らかさ。どれをとっても幾何学的に計算され尽くしたかのように寸分の狂いもない。ビル群の合間に見える雲ひとつない空は、まるで職人が塗り固めた青いペンキのようだ。
「……なぁ、気象庁。いくらなんでも四日連続で雲一つない完全な快晴って、仕事をサボりすぎじゃないか? 降水確率0%の打率が100%って、どんな超能力者が天気予報書いてんだ。たまには『降水確率30%で傘を持っていくか迷う絶妙な曇り』とか出してみろよ。人間味がなさすぎるんだよ、この空は」
ブツブツと独り言を吐き捨てながら、足の裏で冷たいフローリングの踏み心地を確かめつつ台所へと向かう。
ステンレス製の狭い流し台の横には、大学時代から愛用している骨董品レベルの電子レンジが鎮座していた。角が丸まった白いプラスチックボディは黄ばみ、角の塗装が少し剥げている。昨夜の残りの味噌汁と冷や飯を温めるため、ドアを開けてラップをかけた器を放り込んだ。
そして、使い古されて印字がすっかり消えかかった「あたため/スタート」のボタンを、右手の親指でグッと押し込んだ。
その瞬間だった。
ジジジジジッ――!
電子レンジの小さな液晶パネルが、激しく緑色に点滅し始めた。本来なら「01:00」とカウントダウンが表示されるはずの四角い画面に、見たこともない密度の緑色のデジタル文字列が高速で下から上へと流れていく。
『ERR: 0x80070005 - Access Denied / System.NullReferenceException: Object reference not set to an instance of an object. / Requesting root privilege for thermal operation...』
「……おいおいおい、待て待て待て。お前は電子レンジだろ。なんで味噌汁温めるのに『アクセス拒否』されてんだよ。特権権限(ルート権限)を請求すな。権限のない一般ユーザーには冷えたメシしか食わせない主義か? それとも何だ、この豆腐とワカメの味噌汁は国家機密レベルの高度なデータでも含んでんのか?」
さらに恐ろしいことに、電子レンジの背面に設置された小さな通気口から「フォーン……」という、古いデータセンターの大型サーバーラックが限界まで高負荷を起こした時のような、甲高いファンノイズが噴き出してきた。レンジの上面の金属板がじんわりと異常な熱を帯びていく。
「おい、しっかりしろ! お前の仕事はマイクロ波で水分子を振動させることだ! 謎のプログラムをコンパイルすることじゃない! 落ち着け!」
呆れ果てながら電子レンジの天板をポンと手のひらで強く叩くと、フッと液晶の点滅が収まり、何事もなかったかのように「チン」と軽やかな電子音が鳴り響いた。
ドアを開けると、中からは完璧に摂氏80度まで加熱されたホカホカの味噌汁とご飯が出てくる。内部で物理法則以外の何かが確実に働いている気がしてならないが、空腹には勝てないため、この疑問は脳のメモリから一時削除することにした。
朝食を速やかに胃袋へ流し込み、安物のグレーのスーツに袖を通す。鏡の前でネクタイを結び、靴べらを使って革靴のかかとをトントンと整えると、アパートの重い鉄製ドアを開けた。
外の空気は澄み渡っている。……いや、澄み渡りすぎている。都会特有の排気ガスの匂いも、朝の埃っぽさも一切存在しない、まるで巨大な高性能空気清浄機を通し尽くしたろ過水のような、完全に無臭の空気だ。
階段を下りて路地に出ると、いつもの角にある低いブロック塀の上で、一匹のサビ猫が日向ぼっこをしていた。毛並みの柄からして、近所の住人たちから「タマ」と呼ばれている野良猫だ。
俺が横を通り過ぎようとした、まさにその瞬間。
タマは「ニャー」と短く鳴き、右前脚で左耳の後ろをぴったり二回かき、そのまま「ふぁぁ」と大きな欠伸をした。
俺はピタリと足を止めた。
左腕の腕時計を見る。デジタル表示に刻まれた時間は『午前7時28分34秒』。
「……待て待て待て」
俺はかがみ込み、猫の顔をまじまじと覗き込んだ。
気のせいではない。昨日も、一昨々日も、その前の火曜日も。この猫は、俺がアパートの角を曲がってこの位置に到達する『午前7時28分34秒』に、全く同じ角度で右前脚を動かし、全く同じ軌道で耳を二回かき、寸分違わぬ45度の角度で口を開けて欠伸をしているのだ。
「お前……実は中に小さなおじさんが入ってて、あらかじめ決められたシフトと動作プログラミングに従って動いてるだろ。キャットフードじゃなくて時給で動いてるタイプの猫か?」
タマは俺の激しいツコミを完全に無視し、まるで静止画のように微動だにせず日差しを浴び続けている。風が吹いているというのに、毛並みの揺れすら風景と同期していない気がして、俺は軽く頭を振りながら駅へと足を進めた。
駅へと続くアスファルトの道のりは、通勤ラッシュのピークを迎えていた。
黒やネイビーのスーツを着たサラリーマンや、制服を着た学生たちの群れが、ゾロゾロと駅の改札口へと吸い込まれていく。彼らが踏みしめる革靴やローファーの「コツ、コツ、コツ」という足音が、恐ろしいほど一定のテンポとリズムを刻んでいた。
ふと、歩道脇に設置された自動販売機が目に入った。朝の喉の渇きを覚えて足を止め、ポケットから百円玉を投入して「緑茶」のボタンを押す。
ガチャン、と重苦しい音を立てて取り出し口に落ちてきたペットボトルを拾い上げた。キャップを捻り開けようとしたその時、何気なくラベルの裏面に小さく記載された成分表が目に入った。
【名称:緑茶(清涼飲料水)】
【原材料名:緑茶(国産)、ビタミンC、元素記号:Ununcanium】
俺の思考が完全にフリーズした。
「……アンアンカニウム?? 待て、アンアンカニウムって原子番号111あたりの未発見の人工超重元素だろ!? なんで150円のペットボトルのお茶に超重元素が添加されてんだよ! 飲むだけで俺の消化器官が核融合反応を起こして体内崩壊するタイプのお茶かこれ!?」
ラベルの印字バグに激しいツコミを入れつつ、意を決して一口飲む。味は至って普通の、どこにでもある少し薄い緑茶だった。幸いにも体内での放射性崩壊は起きていないようだ。
気を取り直して改札口へと向かう。
タッチパネルにICカードをかざした、その瞬間。
『ピピッ』という軽やかな電子音とともに、改札機の小さな青い液晶画面に一瞬だけ『User_Status: Virtual_Citizen_ID_30922 (Active)』という謎の文字列が表示され、次の瞬間に『残高:1,420円』という通常の表示に切り替わった。
「……バーチャル・シチズン……? 仮想市民ID……?」
俺は改札を通り抜けた後、思わず振り返って改札機の液晶画面を二度見した。
「おいおい、いつから俺は『仮想世界の市民』になったんだよ。毎日毎月、安月給からガッツリ住民税と所得税を引き落とされているこの俺が、バーチャルな存在なわけないだろ。税務署だけはリアルに俺の口座を監視してんのに!」
自分の疲れが相当溜まっているのだと自分に強力な暗示をかけ、俺は階段を下りて地下ホームへと向かった。
満員電車のホームには、隙間もないほどびっしりと人が並んでいる。
滑り込んできた電車のドアが開くと、乗客たちが押し合いへし合いしながら車内へと雪崩れ込んでいった。俺もその人波に揉まれながら車内に入り、吊り革に掴まる。
だが、どれだけ人が押し込まれても、車内には不気味な「静寂」が漂っていた。誰一人として咳払いをせず、誰一人としてスマホを持つ手を狂わせない。
ふと、隣に立っているサラリーマンの様子に違和感を覚えた。
彼は右手の親指でスマートフォンの画面を上から下へスワイプしている。
……1回、2回、3回。
彼の指の動きは、まったく同じスピード、まったく同じ画面上の軌道を正確になぞっていた。そして、画面に表示されているニュース記事のスクロール位置が、スワイプするたびに『初期位置へとリセット』されているのだ。
「……なぁ、お兄さん」
俺は思わず小声で話しかけた。
「それ、永遠に同じニュースの1行目を読み直してないか? 画面がループしてんだよ。もしかして指の運動か何かの健康法か?」
サラリーマンはゆっくりと首だけをこちらに向けた。
その瞳には一切の光がなく、まるでガラス玉のように落ちくぼんでいる。
「……ええ、今日も良いお天気ですね」
完璧に噛み合わない返答。
声のトーンはアナウンサーのように滑らかだが、感情の波が一切存在しない。
「いや、天気の話はしてねえよ!! 画面が無限ループしてる話をしてんだよ! なんだその『会話噛み合わせ拒否機能』は!!」
背筋にゾクリとした冷や汗が伝うのを感じながら、俺は吊り革を強く握りしめた。
毎朝の通勤ラッシュ。理不尽なまでの快晴。不具合を起こす電子レンジ。寸分違わぬ動きをする野良猫。異常な成分表のお茶。改札機の変な画面。そして、機械のように会話の噛み合わない乗客。
この世界のあちこちに、目に見える形で「不自然な亀裂」が走り始めている。
毎日マジメに働いて、普通に生きているこの俺の日常のすぐ真下に、何か恐ろしい「不条理」が潜んでいるのではないか――?
がたごとと揺れる電車の中で、俺は胸のポケットに忍ばせた、幼馴染の形見である「古い真鍮の鍵」を、上着の上からそっと握りしめた。
超重元素『Ununcanium』という怪しすぎる名称が記載された緑茶のペットボトルを握りしめ、不気味なほどの同調圧力に満ちた満員電車を這うように抜け出した俺は、オフィス街の冷たいアスファルトの上へと足を踏み出した。
午前8時45分。ビル群の合間から差し込む朝の光は、どこか青白く、熱量を感じさせない。まるで巨大なスタジオで高精度のLED照明を頭上から照射されているかのような、無機質な明るさだ。
俺が勤務する『東和物産株式会社』が入居しているのは、都心の一角に聳え立つガラス張りの35階建て高層オフィスビルである。空を突き刺すようなそのビルを見上げると、巨大なガラスパネルに反射した雲が流れていた。……いや、違う。雲の動きが、妙にカクついている。まるでコマ数を間引いた動画ファイルを見せられているかのように、滑らかさを欠いた軌道で空を滑っていた。
「……眩しすぎて目がバグってんのか、俺は」
目を擦り、軽く首を振ってから、俺はビル前に広がる公開空地の噴水広場へと向かった。
噴水は勢いよく水を噴き上げ、微細な水煙が朝の光を浴びて淡い虹を作っている。その噴水の縁、濡れた石畳の上に、一羽の灰色の鳩が羽を休めていた。
どこにでもいる、ごく普通のドバトだ。だが、俺はその場に両足を縫い付けられたように立ち止まった。
その鳩の動きが、決定的に狂っていた。
首を前にカクカクと突き出しながら歩く、鳩特有の歩行動作。それが、完璧に一定のテンポで刻まれていた。ピッ、ピッ、ピッ、と、まるで1秒間に正確に5コマ分しかフレームが存在しないかのような、カクついたコマ送り運動。
さらに異常なのは、その鳩が噴水から跳ね飛んだ水滴を浴びた瞬間だった。
水滴が鳩の羽に触れた瞬間、パシャリと弾ける物理計算のプロセスが跳び、水滴は突如として消失した。水滴が弾けて飛散する「途中の経過」が存在しない。水滴が羽に接触した次の1フレームで、すでに「消滅」しているのだ。
「……なぁ、ハト。お前、現実世界の回線速度が重くてラグってんのか? それともグラフィックボードの処理能力が追いついてなくて、描画フレームレートを落とされてんのか?」
俺の呟きに答えるはずもなく、鳩はピッ、ピッ、とコマ送りの軌道を描きながら、あらかじめ引かれた透明なレールの上を滑るように歩き去っていった。
「ダメだ、完全に寝不足の症状が出てる。今日の夜は絶対に残業しないで帰るぞ……」
自分に言い聞かせるように呟き、俺は自動ドアをくぐってビル内へと入った。
エントランスホールは、出社ラッシュを迎えたサラリーマンやOLたちでごった返していた。
大理石の床に響く靴音。カツ、カツ、カツ、カツ。
だが、その音を聞いているうちに、背筋に不気味な悪寒が走った。
歩いている人間の数が百人以上いるというのに、靴音が完全に重なっているのだ。
左足を出すタイミング、右足を出すタイミング。全員が整列した軍隊のように、完璧に同一のピッチで歩歩を進めている。改札のようなセキュリティゲートに社員証をタッチする動作すら、全員が右手を全く同じ角度に掲げ、全く同じ0.2秒の停止時間を経てゲートを通過していた。
俺はその異様な行進の波に呑まれないよう注意しながら、エレベーターホールへと滑り込んだ。
表示パネルの数字が昇降する。8、9、10……。
到着したエレベーターに乗り込み、8階のボタンを押す。ドアが閉まる間際、鏡面仕上げのステンレス壁に映った自分の顔を見た。疲れ切った30歳サラリーマンの顔。目の下にはくっきりとクマが浮かんでいる。
「チーン」という無機質な電子音とともにドアが開き、俺は営業部フロアへと足を踏み入れた。
――そこは、完璧に調律されたディストピアだった。
「カタカタカタカタカタカタ……!」
フロア全体に響き渡る、猛烈なキーボードの打鍵音。
営業第一課から第三課まで、総勢50名以上の社員がデスクに向かい、猛烈な勢いでタイピングを続けている。
だが、その音には「揺らぎ」が一切なかった。
キーを叩く強さも、リズムも、全社員が寸分違わず同期している。誰ひとりとして打鍵を止めて腕を組む者もいなければ、「あ、間違えた」とバックスペースキーを連打する音を響かせる者もいない。全員が、前方に固定された液晶ディスプレイを濁った目で見つめ、機械的に指を動かし続けていた。
「……おはようございます」
俺は気圧されながら小さく声をかけ、フロアの中央付近にある自分のデスクへと向かった。
鞄を床に置き、オフィスチェアに腰を下ろす。
すると、即座に隣の席から声が飛んできた。
「おはようございます、佐藤先輩」
声をかけてきたのは、不破だった。入社2年目の後輩で、整った顔立ちをした24歳の青年だ。だが、PC画面に向かう彼の表情には生気がなく、まるで精巧に作られたマネキンのようだった。
「おう、不破。朝から死にそうな顔してんな。また昨日のクライアントからのシステム不具合の対応か?」
俺が声をかけると、不破はゆっくりと首をこちらへ向けた。首の回転運動があまりにもスムーズすぎて、首の骨や筋肉が動いているような人間的な引っかかりを感じさせない。
「はい。エラーが多くて大変です」
不破は淡々と言った。
「……お前、相変わらず言葉数が少ないな。もうちょっと具体的に状況を説明してくれないか? どのデータラインで止まってるとかさ。俺で手伝えることがあればやるぞ」
不破は困り顔を作り、口を開いた。
「そうですね。ですが……」
そこで、不破の動きがピタリと止まった。
口をわずかに開けたまま、彼の黒目が虚空の一点を凝視する。1秒、2秒、3秒……。まるで動画の再生を一時停止されたかのように、不破の息遣いすら感じられなくなった。
そして4秒目。不破の瞳に突然光が戻り、作り物のように爽やかな笑顔を浮かべた。
「大変ですが、頑張りますね」
「……なぁ、不破」
俺はキーボードの上に置いた手を止め、じっと不破の顔を見つめた。
「はい何でしょう、佐藤先輩」
「お前……さっきからセリフの文字数、意図的に『11文字』で区切って喋ってないか?」
「……?」
不破は首をかしげた。俺は指を折り曲げながら、彼の発言をカウントしていく。
「はい。エラーが多くて大変です」(11文字)
「そうですね。ですが……」(11文字)
「大変ですが、頑張りますね」(11文字)
「はい何でしょう、佐藤先輩」(11文字)
「全部11文字じゃねえか!! なんだその『11文字以上の日本語を一度に喋ると頭が爆発する制約』でも受けてんのか!? どんな呪いだよそれ! 業務連絡すらまともにできないだろ!『どのシステムが落ちたか』すら11文字以内に収めなきゃいけないのか!?」
「問題ありません、大丈夫です」(11文字)
「説得力が皆無なんだよ! 文字数を合わせるために会話の解像度を犠牲にするな! 11文字の制約と戦う前に、目の前の仕事と戦えよ!」
俺が激しいツッコミを叩き込んでいるというのに、不破の表情は一切崩れない。彼は「はい何でしょう、佐藤先輩」という笑顔のテンプラーを張り付けたまま、再びPC画面へと向き直し、完璧なテンポでカタカタとキーボードを叩き始めた。
「はぁ……はぁ……朝から無駄にエネルギーを消費した……」
俺が頭を抱えて自席で深く溜息をついていた、その時だった。
フロアの奥、仕切られた個室のドアが「バァン!」と荒々しい音を立てて開いた。
ドカドカと地響きのような重苦しい足音を立てて近づいてくるのは、我が営業第一課の絶対権力者、黒曜部長だ。
今年で50歳になる黒曜部長は、常に眉間に深い溝を刻み、怒号を撒き散らすことで知られている。今日も手には分厚い紙の書類の山を抱え、顔を真っ赤に猛毒の爬虫類のような眼光でこちらを睨みつけていた。
「佐藤ぉぉおお!! 先月提出させたクライアントへの提案書だがな!!」
フロア全体に部長のダミ声が響き渡り、他の社員が一斉に打鍵の手を……止めなかった。全員、部長の怒号など耳に入っていないかのように、同じテンポでカタカタとキーボードを叩き続けている。その光景自体がすでに異常だった。
「は、はい! 何か不備でもありましたでしょうか!?」
俺は跳ね起きるように椅子から立ち上がり、直立不動の姿勢をとった。
黒曜部長は俺の目の前まで歩み寄ると、抱えていた書類を俺のデスクへ叩きつけようと、腕を高く振り上げた。
「お前は一体何を考えて――」
怒号の途中で、唐突に世界から「音」と「動き」が消失した。
黒曜部長が、振り上げた腕を空気中で静止させたまま、口を「ア」の形に開けた状態で完全にフリーズしたのだ。
目を見開き、顔を真っ赤にし、額に血管を浮き浮かばせた怒りの表情のまま、ピタリと動きを止めている。瞬き一つしない。浮き出た血管の脈動すら停止している。
「チク、タク、チク、タク……」
壁掛け時計の秒針の音だけが、虚しくフロアに響く。
1秒。まるまる「1秒間」。空間のデータ処理が追いつかず、世界そのものが一時停止したかのような隙のない静止状態。
そして、1秒が経過した瞬間。
「――ッ! 文字のフォントが明朝体じゃなくてゴシック体になってるんだよ!! 何を考えているんだ貴様は!!」
パチンとパズルがハマったかのように、何事もなかったかのように怒号と腕の振りが再開され、書類の山がデスクの上に崩れ落ちた。
「いや、タメが長いよ部長!! 怒る前に必ず1秒間『ローディング中』みたいな顔挟むのやめてもらえます!? データ読込中の砂時計マークが頭の上に見えましたよ今! こっちの心臓が持たないんで!」
「うるさい! くだらん言い訳をするな! 報告書のフォントは明朝体と決まっているんだ! 理由はどうあれ、ルールに従わない者はこの組織には不要だ! 修正して15分以内に再提出しろ!」
部長は吐き捨てるように怒鳴ると、ターンして自室へと戻っていった。その歩行動作の際、彼の右足がデスクの脚を一瞬だけ「透過」して擦り抜けたのを、俺の目は見逃さなかった。
「……足、机を貫通してただろ今。当たり判定どうなってんだよ……」
俺は深々と溜息をつき、自分のデスクのオフィスチェアに崩れ落ちた。
「はぁ……フォントの違いだけでここまで怒られるとか、この会社のコンプライアンスどうなってんだよ。そもそもゴシック体の方が画面上で読みやすいだろ……」
愚痴をこぼしながら、マウスを握り締め、画面上のファイルを立ち上げる。
全ページの文字を選択し、フォント設定を「ゴシック」から「明朝体」へと変更していく。
カチ、カチ、とマウスをクリックしながら、俺の頭の中にはどうしても拭いきれない違和感と、底知れぬ恐怖が渦巻いていた。
11文字しか喋れず、思考の合間に4秒フリーズする後輩。
怒る直前に必ず1秒間完全に静止し、障害物の当たり判定を無視して歩く部長。
一定のコマ数でしか動かず、水滴が触れた瞬間に消失する鳩。
改札機が一瞬だけ表示した『Virtual_Citizen_ID』という不気味なログ。
これらは単なる疲れや見間違いなどで片付けられるレベルを超えている。
「もし……もし仮にだ……」
俺はキーボードの上に置いた自分の手を見つめた。
皮膚の質感、指紋の凹凸、爪の形。確かにここにある、俺の肉体。
「この世界が、誰かによってあらかじめプログラムされた『シナリオ』や『ゲーム』のようなものだとしたら? 俺たちが『現実』だと信じて疑わないこの日常は、最初から決められたコードに従って動かされているだけの偽物なんじゃないか?」
口に出した瞬間、全身に鳥肌が立った。
「……はは、バカバカしい。何を朝からSF映画の見すぎみたいなこと考えてんだ。これじゃまるで、俺が誰かの書いた物語の中の主人公で、周りの奴らは全員AIのNPCか何かみたいじゃないか」
俺は自嘲気味に鼻で笑うと、頭を振って思考を振り払った。
画面上の「明朝体」に変更された美しい文字を見つめ、上書き保存のアイコンをクリックする。
オフィスには相変わらず、全自動の時計仕掛けのように正確なキーボードの打鍵音が響き続けていた。
午前中の怒涛の書類修正ワーク――というか、11文字の制約に縛られた不破との噛み合わないレスポンスバトルと、1秒間フリーズしてから爆発する黒曜部長の理不尽なフォント指導――を何とか切り抜け、壁掛け時計の針がぴったり十二時ジャストを指し示した。
「……昼休みだ……! 束の間の、つかの間の平和がやってきた……!」
俺はキーボードから指を離し、画面を素早くロック状態に切り替えると、背もたれに深く寄りかかって重い溜息を吐き出した。隣の席の不破は相変わらず「11文字」の呪いと戦いながら、黙々とキーボードを叩いてプログラミング作業を続けているが、下手に声をかけて再び11文字の不条理なレスポンスに巻き込まれるのも余計な脳のメモリを消費するので、俺はそっと視線を逸らした。
社内食堂へと向かうため、席を立ってエレベーターホールへと向かう。
オフィスビルのエレベーターホールは、各部署から吐き出されたサラリーマンやOLたちでごった返していた。だが、その混雑ぶりには妙な不気味さが漂っている。誰も喋らないのだ。「今日の昼飯何にする?」とか「午後の打ち合わせだるいな」といった会話のやり取りが一切存在しない。全員がスマホの画面を無表情に見つめるか、前方のステンレスのドアをただじっと見つめている。
「……お先にどうぞ」
俺は後ろにいたスーツ姿の男に声をかけた。男はゆっくりとこちらに顔を向けた。その表情には一切の感情が浮かんでおらず、目が笑っていない。
「……ええ、失礼いたします」
男の声のトーンは、まるでラジオのニュースキャスターの音声を切り貼りしたかのように一定だった。俺は背筋に冷たいものを感じながら、到着したエレベーターの箱の中へと足を踏み入れた。
エレベーターが地下一階へと下降を始める。
だが、下降する際の「加速度」が全く感じられない。胃が浮き上がるような感覚もなければ、膝に重力がかかる感覚もない。まるで背景の階数表示の数字だけが「8、7、6、5……」と書き換えられているかのような、無重力空間に浮いているかのような違和感。
「……チーン」
無機質な電子音が鳴り、ドアが左右に滑らかに開いた。
地下一階に広がる東和物産の社員食堂は、一度に五百人以上を収容できる巨大なフードコート風のスペースだ。整然と並べられた白いプラスチック製のテーブルと椅子、天井に整然と配置されたLED蛍光灯。
俺は券売機の列の最後尾に並んだ。
前に並んでいる二十人ほどの社員たちが、一歩一歩前進していく。その足並み、前のアタッチメントとの間隔、ポケットから財布を取り出す動作のタイミングが、恐ろしいほど完璧に同調していた。まるで一台の大型ベルトコンベアの上に全員が乗せられて運ばれているかのようだ。
「……よし、今日は午前中のストレスを解消するために、奮発して『日替わりA定食:特製とんかつ定食』にするか」
自分の番が回ってきた。千円札を券売機の投入口に滑り込ませる。
ボタンを押すと「カチャン」と軽い音を立てて食券と釣銭が落ちてきた。食券を拾い上げ、給食カウンターへと向かう。
給食カウンターの向こう側には、白い割烹着と衛生帽を身につけた給食係のおばちゃん……いや、給食係の女性スタッフが立っていた。
彼女の動きもまた、尋常ではない精度を誇っていた。
食券を受け取った瞬間、彼女の右腕が一直線に伸び、トレイを手に取る。左手でお椀を掴み、寸胴鍋からお玉で味噌汁をすくって注ぐ。その一連の動作に一切の迷いがなく、お湯が跳ねることも、味噌汁の量がミリリットル単位でぶれることもない。
「はい、A定食のお客様ねー」
おばちゃんは寸分狂わぬ笑顔を浮かべ、完成されたトレイを俺の目の前へと押し出した。
「あ、どうも……」
トレイを受け取り、空いている壁際のカウンター席へと向かう。
トレイの上には、山盛りご飯、豆腐とワカメの味噌汁、小鉢のポテトサラダ、そしてメインである厚切りのとんかつが乗った皿が鎮座していた。
サクサクの衣に包まれた厚切りの豚肉。その上には、濃密な褐色のソースがたっぷりとかけられ、脇には細切りのキャベツが添えられている。香ばしい揚げ物の匂いが鼻腔をくすぐり、俺の生唾がゴクリと鳴った。
割り箸を割って手に持ち、まずはとんかつの一端を箸で持ち上げる。
「いただきまーす」
とんかつを口へと運び、一気に噛み切った。
サクッ……!
素晴らしい歯応えだった。衣の香ばしさと、溢れ出る豚肉の旨味、そして甘酸っぱいソースの風味が口内いっぱいに広がる。
「う、美味い……!」
あまりの美味さに笑みがこぼれそうになった。……だが、二口目、三口目と噛み進めていくうちに、俺の表情は次第に硬直していった。
「……ん? 何だこれ……?」
美味いのだ。間違いなく文句なしに美味い。肉質は柔らかく、脂身の甘みも完璧だ。
しかし……「味が平坦」なのだ。
一口目を噛んだ瞬間と、二口目を噛んだ瞬間、そして三口目を噛んだ瞬間。口の中に広がる「味覚の波」の波形が、一切の狂いもなく完全に一致しているのだ。
普通の肉であれば、噛む部位によって脂身の割合が違ったり、筋があったり、衣の揚がり具合のムラによって香ばしさが変化したりするはずだ。しかし、このとんかつにはそれが一切ない。一口ごとに、あらかじめ用意された「美味しいとんかつの味覚プログラム」を直接脳に流し込まれているかのような、不自然なほど均一な味覚体験。
違和感はそれだけにとどまらなかった。
俺は箸を伸ばし、添えられたポテトサラダとキャベツの千切りを何気なく凝視した。
「……おいおいおい、待て待て待て」
俺は目を丸くし、トレイの上に顔を限界まで近づけた。
ポテトサラダの中に混ざっている緑色のキュウリの輪切り。
キャベツの千切り。
その一つ一つを観察して、俺は凍りついた。
キュウリの輪切りの厚みが、全パーツ寸分違わず「0.8ミリ」で完璧に統一されている。さらに、脇に盛られた何十本ものキャベツの千切りの「幅」「長さ」「曲がり具合」が、顕微鏡で計測したかのように全て完全に同一なのだ。
「どんな包丁さばきの達人が仕込んでんだよ!? 厨房にレーザーカット機能付きの工業用精密加工ロボットでも導入されてんのか!? キャベツの千切りに工業規格(JIS規格)適用すな! 食材の形に多様性を持たせろよ!」
あまりの精密さと異様さに引きつつも、腹が減っているので黙々と食べ進める。
食堂内を見渡してみる。数百人の社員たちが同じように黙々と飯を口へと運んでいた。
しかし、誰も会話をしていない。「今日の仕事だるいな」とか「週末どこ行く?」といった他愛のない雑談が一切聞こえてこない。ただ、食器が触れ合う「カチャカチャ」という音と、咀嚼音だけが広い食堂に虚しく響いている。
ふと、前の席でラーメンをすすっている社員の動きが目に入った。
彼は箸で麺をすくい、口へ運び、噛み、スープを飲む。その一連の動作のインターバルが、正確に「4.5秒」でループしていた。一度も器を持ち直すこともなければ、ナプキンで口元を拭くこともない。
俺は胸のポケットに手を入れた。
そこには、朝と同じく、幼馴染の形見である「不格好な真鍮の鍵」が入っている。
指先で鍵の表面の傷をなぞる。不均一で、ザラザラとした、手作りの不完全な感触。冷たい金属の痛みが、俺の脳に「ここにある現実」を繋ぎ止めてくれる。
「……やっぱり、この世界はどこかおかしい」
均一な味のとんかつ、精密カットされたキャベツ、時計仕掛けのように動き続ける社員たち。
不完全で、無駄が多くて、思い通りにいかないのが「現実」のはずなのに、この場所はあまりにも「不自然に整いすぎている」。
その時だった。
『ピンポンパンポーン――』
食堂の天井に埋め込まれたスピーカから、チープなチャイムの音が響き渡った。
その瞬間、食堂にいた数百人の社員たちが一斉に食べる手を止めた。
手に持った箸やレンゲをぴたりと空中静止させ、無表情に天井のスピーカーを見上げる。その動きのシンクロ具合に、俺は背筋が凍りついた。
『社員の皆様、業務連絡ならびにメンタルヘルス維持のお知らせです』
スピーカーから流れてきたのは、合成音のように平坦で滑らかな女性のアナウンス声だった。
『現在、本フロアにおける【現実感パラメーター】にわずかな乖離が検知されております。業務中に「違和感」や「非現実感」を覚えた社員は、直ちに業務を中断し、指定の深呼吸を行ってください』
「……は? 現実感パラメーター……?」
俺は思わず大声を出しそうになった。だが、周りの社員たちは誰も疑問を抱く様子もなく、アナウンスに従うように「すー……はー……」と一斉に深呼吸を始めた。数百人が同時に息を吸い、同時に吐き出す音が、食堂内に気味悪く響く。
『繰り返します。この世界は健全であり、あなたの日常は保障されています。過度な疑問やメタ的な思考は、脳のメモリ消費を増大させ、システムエラーの原因となります。「余計なこと」を考えず、目の前のタスクに集中してください』
『以上、人事部メンタルヘルス管理課からの連絡でした。それでは、良い午後をお過ごしください。ピンポンパンポーン――』
アナウンスが切れると同時に、社員たちは何事もなかったかのように一斉に食事を再開した。
「……ちょっと待てよ。今の案内、完全に俺に向けて言ってたろ!? 『メタ的な思考はシステムエラーの原因』って何だよ! 人事部がプレイヤーのメンタル管理してんのか!? 隠す気が皆無になってきてんじゃねえか!」
冷や汗が額を伝い、背中を滑り落ちる。
「余計なことを考えるな」と言われれば言われるほど、頭の中の疑問は巨大な渦となって膨れ上がっていく。
この会社は、この街は、そしてこの世界は――一体何のために存在していて、誰が俺たちを監視しているのか?
俺は冷めきった味噌汁を一口飲み干すと、逃げるように社員食堂を後にした。
食堂での不気味すぎる社内アナウンスにすっかり精神を削られた俺は、午後の業務をほぼ半透明の意識で過ごした。
隣の不破に「このデータ、確認しておいて」と書類を渡せば、「かしこまりました。確認します」(11文字)とロボットのように正確なレスポンスが返ってくる。黒曜部長のデスクへ修正済みの報告書を提出しに行けば、声をかけた瞬間に部長の動きがピッタリ1秒間停止し、まるで処理を読み込んでから「よし、ご苦労!」と大声で叫ぶ。
「……ダメだ。考えれば考えるほど頭がおかしくなりそうだ」
俺はデスクのキーボードに置いた自分の両手を見つめた。
11文字の制約、1秒のローディングタイム、工業規格で精密カットされたキャベツ、そして「メタ的な思考はシステムエラーの原因」と警告してくる人事部のアナウンス。
一度「この世界そのものがバグっている」と疑い始めてしまうと、目の前で繰り広げられる全ての光景が、下手に作られた低予算のシミュレーションゲームか、あるいは質の悪い演劇を見せられているような強烈な不快感へと変わっていく。
『ピンポンパンポーン――』
定時を告げるチャイムが社内に響き渡った。時刻は十七時三十分ジャスト。
その瞬間、フロアにいた数十人の社員たちが、まるで一基の電源スイッチで一斉に起動されたかのように、寸分違わず同じ角度で背筋を伸ばし、同じ動作でパソコンをシャットダウンし始めた。椅子を引く音、カバンを押し入れから取り出す音、着用のジャケットのボタンを留める音。それらの環境音が完璧なハーモニーとなってオフィスの空間に重なり合う。
「……お先、失礼します」
俺はカバンを掴むと、その不気味なシンクロ行進から逃れるように、半ば逃走するような足取りでオフィスを抜け出し、エレベーターへと駆け込んだ。
◇
オフィスビルの自動ドアを潜り抜け、外の空気を吸い込む。
夕暮れの街は、帰路に就くサラリーマンや買い物客で賑わっていた。だが、見上げた空の光景に、俺は再び足を止めざるを得なかった。
西の空を染める黄昏時の景色。紺色から鮮やかな橙色へと移り変わる夕焼けのグラデーション――のはずだった。
「……なんだ、あの空……」
空の境界線が、滑らかな階調を描いていないのだ。
橙色と紺色の境目が、まるで256色に制限された古い画像ファイルのように、粗い帯状のブロックノイズとなって段々畑のように空を区切っている。さらに、ビル群の隙間から差し込む夕日の光線と、歩道を歩く人々が落とす影の角度が微妙にズレていた。北に向かって歩いているサラリーマンの影が、なぜか真横の東側へと鋭く伸びている。
光と影の物理演算すら、この世界は手を抜き始めているというのか。
「……早く家に帰ろう。温かい風呂に入って、冷えたビールでも飲んで、明日の朝になれば……全部俺の疲労が見せた幻覚だったって笑えるはずだ」
そう自分に言い聞かせ、自分を騙し込むようにして、俺は朝と同じ路線が乗り入れるターミナル駅の改札へと足を進めた。
◇
夜の駅構内は、帰宅ラッシュのピークを迎えて凄まじい混雑と熱気に包まれていた。
自動改札機にICカードをかざす「ピピッ」という電子音が絶え間なく鳴り響き、階段を上り下りする足音がドーム状の天井に反響している。
だが、階段を下りて二番線ホームへと降り立った瞬間、俺の肌を刺した空気は「混雑の熱気」ではなく、異様なほどの「静寂と違和感」だった。
二番線ホームの足元には、乗車位置を示す黄色いラインに沿って整然と列を作るサラリーマンや学生たちの姿があった。
数十人、いや百人を超える人間がそこに並んでいる。だが、誰も会話をしていない。誰ひとりとして退屈そうに貧乏ゆすりをすることも、カバンからハンカチを出して汗を拭くこともない。全員が完全に同じ角度でうつむき、スマホの画面を無表情に見つめているか、あるいは真っ直ぐ前方の線路を凝視している。
その、死体のように動かない群衆の真っ只中に――彼女はいた。
「……え……?」
俺の視線は、ホームの中央付近に佇む一人の人物に吸い寄せられ、そのまま金縛りに遭ったかのように動かなくなった。
圧倒的な「異物感」。
その女性は、周りのグレーや黒のスーツを着た乗客たちの中で、唯一異彩を放っていた。
膝下まで伸びた上質な黒のトレンチコートを羽織り、目元を隠すように深く被った黒のハット。その隙間からこぼれ落ちる艶やかな黒髪が、駅ホームの人工的な風に揺れていた。
背格好から推測するに、年齢は二十代半ば――二十五歳くらいだろうか。
彼女以外の人間は全員、まるで背景のグラフィックのように静止し、一定のルーティン動作を繰り返しているだけだ。しかし、その女性だけは違っていた。
彼女は手に持った小型のタブレット端末のような透明な液晶デバイスを、素早い指つきでフリック操作していた。そして、デバイスの画面と周囲の人間たちの顔を交互に見比べながら、まるで市場で野菜の出来栄えを「検品」でもするかのような、冷徹で厳しい目つきで一人ひとりを観察していたのだ。
彼女の動作には、迷いがない。
身体の軸のブレ、呼吸による肩の上昇、視線の俊敏な移動。それら全てに、周りの人間には絶対に存在しない「明確な生の意思」と「生きている人間の生動感」が宿っていた。
「……あの人……『生きている』……?」
俺が不審と驚愕の入り混じった思いで足を止め、彼女を凝視したその瞬間だった。
女性が、弾かれたようにこちらへ顔を向けた。
ハットの陰から覗く、吸い込まれそうなほど美しく、そしてナイフのように鋭い黒の瞳。
彼女の視線が、俺の顔に突き刺さる。そして、視線はゆっくりと下がり、俺の胸ポケット――朝から肌身離さず持ち歩いている、幼馴染の形見である「不格好な真鍮の鍵」が収まっている位置へと定まった。
女性の瞳が、驚愕に大きく見開かれた。
「――見つけた」
ホームの喧騒とアナウンスの音に掻き消され、声は聞こえなかった。
だが、彼女の美しい薄い唇が、確かにそう動いたのを俺の目ははっきりと捉えた。
彼女は手の中のタブレット端末を瞬時にコートのポケットへと滑り込ませると、迷いのない素早い足取りで、整然と並ぶ乗客たちの間を押し分けるようにして俺の方へと歩み寄ってきた。周りの無機質な乗客たちが、彼女の体の接触によって一瞬カクついたノイズのような挙動を見せる。
「ちょっと、あなた――! そこから動かないで!」
彼女が俺に向かって細い手を伸ばし、切迫した声を張り上げた、まさにその時だった。
『まもなく、二番線に電車が参ります。危険ですから、黄色い線の内側まで下がってお待ちください――』
頭上から流れる無感情な構内アナウンス。
それと同時に、俺の周囲の「世界」の空気が一変した。
ズシン、と背後から強烈な圧迫感が俺の背中を襲った。
誰かが俺の両肩と背中の中央に手を回し、躊躇の欠片もなく、全腕力を込めて前方の線路へと押し出してきたのだ。
「うわっ……!?」
足元が崩れ、重心が斜め前方に傾く。
視界が急激に下がり、駅ホームのコンクリートの端が目元をかすめ、俺の身体は浮遊感とともに二番線の線路の真上へと投げ出された。
「おい……冗談だろ……!?」
落下していくスローモーションのような時間の中で、俺は必死に顔だけを振り返った。
俺の背中を押した男の顔が見えた。
それは、昼休みにエレベーターの前で「ええ、失礼いたします」とラジオのアナウンサーのような一定のトーンで会話を交わした、あの同じスーツ姿の男だった。
男の顔には、狂気も、怒りも、焦りすら浮かんでいなかった。
ただの無だ。まるで「デスクトップ上の不要なアイコンをドラッグ&ドロップでゴミ箱に捨てた」とでも言いたげな、冷酷で無機質な眼光で、線路へ落ちていく俺を見下ろしていた。
ゴーッという胃の奥を揺さぶるような地響きと、耳腔を破らんばかりの金属摩擦音が響き渡る。
線路の闇の奥から、2本の強烈な白銀のヘッドライトが迫っていた。
時速数十キロで進入してくる通勤電車の巨体。光の束が俺の全身を舐め回し、視界の全てを純白の光線で塗りつぶしていく。
「逃げて!! 早く!!」
トレンチコートの女性が叫びながら、ホームの端から身を乗り出し、必死に手を伸ばしてくるのが見えた。彼女の顔には、明確な焦燥と恐怖が張り付いている。
だが、物理的に届かない。もう、遅すぎる。
(あ……俺、死ぬんだ……)
目の前へ瞬時に迫る数トンの鉄の塊。
死の恐怖が脳髄を駆け抜けると同時に、俺の心の中に湧き上がってきたのは、あまりにも理不尽なこの世界に対する強烈で猛烈な「怒り」と「不満」だった。
バグだらけの世界で、11文字しか喋れない不破に振り回され、1秒フリーズする黒曜部長に理不尽に怒鳴られ、キャベツの千切りがレーザーカットされた定食を食べさせられた挙句――最後は理由もわからないままNPCみたいな奴に線路へ突かれて電車に轢かれて終わりかよ!?
ふざけんな! 俺の人生、こんなバグ動画のオチみたいな終わり方で納得できるかよ――!!
ドカン――ッ!!!!
絶望的な破壊音と衝撃が全身を襲い、俺の意識は一瞬で漆黒の闇へと叩き落された。
◇
――しかし。
あらゆる感覚が途絶え、完全な無となった闇の底で。
俺の脳の芯に、あり得ない「無機質なシステム音声」が直接響き渡った。
『警告:重要観測NPC【佐藤】のバイタル完全停止を確認』
『エラーコード:0x80070005 - System_Access_Denied』
『例外処理を実行します。対象オブジェクトのローカルキャッシュを破棄し、システムを再起動中――』
(……は……? 何だ……これ……?)
闇の中で、俺の「思考」だけが独立して跳ね起きた。
『処理変更:ログインユーザー【佐藤】のアクセス権限を書き換えます』
『【Guest_NPC】から【System_Debugger(第一種覚醒者)】へ昇格』
『世界のデバッグコマンドへのアクセスを許可します』
――カチリ。
頭の中で、世界の全ての歯車が噛み合う不気味な音が鳴り響いた。
お付き合いいただきありがとうございました!
朝の目覚ましから始まって、最終的に電車に跳ね飛ばされるという「人生という名のクソゲー」を地で行く佐藤進でした。
電子レンジのアクセス拒否とか、キャベツの千切りの精度とか、地味な理不尽って一番イラッときますよね。
そしてラストの謎の女性とシステム音声。
『Guest_NPC』から『System_Debugger』へ昇格してしまった佐藤の逆襲(?)はここから始まります!




