55話 朝の光と、水路の街の影
「ありがと……疑ってごめん…レナ」
夜風が縦横無尽に走る水路の黒い水面をゆるやかに揺らし、潮の匂いを乗せた冷たい風を静かに運んでくる。レナを包み込むセレスタの穏やかな体温と、小さく消え入りそうなミアの言葉を真っ直ぐに胸で受け止めながら、レナは袖口で何度も目元を拭った。
「……うん。ううん、いいの。みんなが無事なら……本当に、それだけでいいから」
レナの涙がようやく収まりかけたのを見届け、ヴェルナが周囲の暗がりに鋭い視線を走らせながら、ポンと静かに手を叩いた。
「さて……お互いの無事を噛み締めるのはこのくらいにしておこうか。いくら人通りが少ないと言っても、ここはまだ旧倉庫街からそう遠くない水路の影だ。いつ敵の追手や警戒網が広がるか分からないからね」
「……そうだね。ここに長居するのは危険」
ミアが立ち上がり、短剣の鞘を確かめながら頷く。
「ボクの記憶が正しければ、この水路を南へもう少し進んだところに、手頃な隠れ家があるんだ」
ヴェルナが八重歯をチラリと覗かせてニヒヒッと笑う。
「昔ね、ボクが単独でヒューマン領に偵察任務しに来た時に使った秘密拠点さ。元は古びた貿易商の地下倉庫なんだけど、人目を避けるにはうってつけだよ。そこで泥のように眠るとしようじゃないか」
ヴェルナの誘導のもと、四人は足音を殺し、網の目のように交差する夜の水路沿いを滑るように移動を開始した。
到着したのは、港の南端にひっそりと佇む、半ば崩れかけた石造りの旧商館だった。
重い鉄の扉を開け、地下へと続く急な階段を下りると、埃っぽいながらも広々とした部屋が広がっていた。
「よしよし、誰かに使われた形跡もなさそうだ」
ヴェルナは部屋の奥へ進むと、床板のすき間に指をかけ、一枚の板を器用に引っ剥がした。その床裏に隠されていた小さな革袋を取り出し、中から持ち運び用の古びた魔導具を取り出す。昔、この街を撤退する際に、万が一再利用するときのために秘密裏に隠しておいた代物らしい。
ヴェルナはその魔導具を壁の凹みにセットし、自らの魔力を通した。
「よし……結界を起動、と」
ブウンと低い振動音が響き、部屋全体が外部から完全に遮断された。防音も魔素遮蔽も施された、完璧な潜伏拠点だ。
「ふぁぁ……もう、限界……」
緊張の糸が切れたレナは、二段ベッドに辿り着くや否や、倒れ込むように横になった。
二度の凄惨な死を越え、極限の緊張と全力疾走を経験したレナの精神はすでに限界を迎えていた。
「レナさん、せめて靴くらいは……あ、もう寝ちゃいましたね」
セレスタが苦笑しながらレナの靴を脱がせ、毛布を優しくかける。
泥のような深い眠りが、少女の意識を瞬時に飲み込んでいった。
「ボクたちも寝ようか。詳しい話は、明日起きてからだ」
ヴェルナの言葉を最後に、隠れ家は静かな息遣いだけに包まれた。
◇
翌朝───
地下室のすき間から差し込むかすかな光で、レナは目を覚ました。
「ん……うぅ……」
重い目をこすりながら体を起こすと、香ばしくあぶられた肉の匂いが鼻腔をくすぐった。部屋の中央に置かれたテーブルの周りでは、すでに身支度を終えたヴェルナ、ミア、セレスタが干し肉と硬いパンをかじりながら、羊皮紙の地図を広げて真剣な面持ちで話し合っていた。
「あ、レナさん! おはようございます。気分はどうですか?」
セレスタが温かいお茶を差し出してくれる。
「うん……熟睡したら、すっかり元気になったよ! ありがとう、セレスタさん」
お茶を飲み、干し肉をかじりながら、レナもテーブルの輪に加わった。広げられているのは、港町ヴェゼルの詳細な羊皮紙の地図だ。
「よし、全員揃ったところで……昨夜の『おさらい』と、今後の動きについて話し合おうか」
ヴェルナがペンを手に持ち、地図の北側にある「旧倉庫街」に大きなバツ印を書き込んだ。
「まず、ボクたちの昨夜の戦果だけど……旧倉庫街の第三倉庫にあった『魔素抽出の実験拠点』は完膚なきまでに制圧した。連中の下っ端どもは倒したし、囚われていた魔物や魔獣の供給ラインも絶ったはずだ。これは間違いなく大成功と言っていい」
「……ふん」
ミアが満足そうに胸を張る。
「あの気味の悪いガラス管も打ち砕いたし、街に放たれていた重甲魔獣の元凶も潰せた。ひとまずは大手柄」
3人の認識は「旧倉庫街の調査・撃破任務は完遂した」というもので一致していた。しかし、レナはカップを握る手にぐっと力を込めた。昨夜、察知した「絶望的な危険」──その警告だけは、みんなにしっかりと伝えておかなければならない。
「ねえ……みんな。昨夜の私の直感のことなんだけど……」
レナの真剣な声に、全員の視線が集まる。
「倉庫を制圧したあと……あの時私の視界に走った『線』は、今までと比べものにならないくらい真っ黒で、恐ろしいものだったの。上手く言えないんだけど……もしあそこにあと数秒でも留まっていたら、私たちは『絶対勝てない化け物』に追いつかれて、一瞬で全滅させられてた」
レナの迫真の眼差しに、ヴェルナの八重歯が引っ込んだ。
「真っ向勝負じゃ絶対勝てない、か。……レナの直感がそこまで言うなら、本当に異次元の強者が、あの直後に旧倉庫街へ降り立ったんだろうね」
「……正体不明の強者」
ミアが低く呟き、身を乗り出した。その猫耳がピクッと緊張に跳ねる。
「レナ。その化け物の気配……何か特徴はなかった? 例えば……冷酷で、人間を虫ケラみたいに見下すような……圧倒的な悪意とか」
「えっ……? ううん……気配がする『前』に逃げ出したから、どんな奴だったかは全然分からないの。ただ、あの『線』の色の黒さと禍々しさだけが……ここにいちゃだめって教えてくれてて……」
「……そう、なんだ」
ミアは短く呟き、肩の力を抜いて腰掛け直した。探ろうとしていた手がかりが得られず、どこか期待外れのような、落胆の表情を見せる。だが……ミアの水色の瞳の奥には、言葉にはできない微かなざわめきが残っていた。
(気配すら掴ませないほどの速さ……あるいは、気配を感じ取らせる前に決着をつけるような存在……。どうしてだろう。レナの言葉を聞いているだけで、胸の奥が冷たく締め付けられる……)
明確な根拠はない。けれど、理由のない胸騒ぎが、ミアの心の底に重く引っかかっていた。
「……どっちにしろ」
ミアは静かに拳を握りしめ、テーブルを軽く叩いた。
「ラグナスの地下施設だけでなく、このヴェゼルの裏でも、糸を引いている元凶がいるのは、間違いない。…逃げるわけにはいかない。拠点を一つ潰したくらいで満足して街を出たら……敵の足跡を見失ってしまう。危険なのは分かってる。でも……私はこの街に留まって、影から奴らの正体と目的を探りたい」
ヴェルナが口元を緩め、八重歯を覗かせた。
「大切な友達の仇討ちだ。それに、そんな危険な化け物が街で何を企んでいるのか分からないまま去るなんて、さすがに後味が悪すぎる。
……幸い、連中はボクたちの顔も正体も掴んでいない。影に潜んでコソコソ探るなら、ボクたちの得意分野さ!ね、セレスタ?」
「はい!偵察と情報収集は私たちに任せてください!」
惨劇の記憶を持つレナは一瞬身震いしたが、3人の決意に満ちた強い瞳を見たとき、胸の奥に不屈の光が灯り直した。
「うん! 私もやる! 正面から戦えないなら、バレないように隠れて、あいつらの目的を暴いてやろう!」
「よし、決まりだね!」
ヴェルナがパンッと手を叩き、羊皮紙の地図を指さした。
「じゃあ、これからの潜伏調査と、この港町ヴェゼルの構造について簡単に説明しておくよ」
ヴェルナがペンで地図の上にいくつもの青い線をなぞっていく。
「この港町ヴェゼルは、他の都市と違って**『網の目のように縦横無尽に走る運河と水路』**で街が区切られているんだ。物資の船運のためなんだけどね」
「水路……昨夜、私たちが逃げてきた道ですね」
セレスタは昨夜の暗闇と冷たい潮の匂いを思い出すように、そっと胸元に手を当てて呟いた。
「そう。メインストリートは人が多くて目立つけど、一本裏に入れば水路沿いの暗がりや地下水門が張り巡らされている。人目を避けて移動するには格好の抜け道だし、もし敵に潜伏先を勘づかれても、逃げ道の選択肢が山ほどある」
トントン、とペン軸で地図の隙間を叩くヴェルナのニヒッとした笑みには、裏社会を泳ぎ慣れた者特有の頼もしさが宿っていた。
「水路、か……」
水路の線をじっと見つめるミアの瞳に、ふっと青い静かな光が宿る。まるで獲物を狙う猫のように、彼女の耳がピクと小さく動いた。
「水がそれだけ豊富にあるなら……私の魔法も扱いやすい」
「え? ミアの魔法って『氷』だよね?」
レナが尋ねると、ミアは小さく頷いた。
「ああ。私の氷魔法は、水と土の魔力を掛け合わせて固める複合魔法だから……体内で水を生み出して凍らせるより、最初から目の前に『大量の本物の水』が存在する場所の方が都合がいいんだ」
「あ、そっか! セレスタさんに教わった術式!」
レナが手をポンと叩くと、ミアも少し得意げに口元を緩めた。
「そう。すでに存在する水路の水に『土』の魔力を流し込んで、分子をガチリと噛み合わせる『固める(フリーズ)』術式を上書きするだけで済む。自分で水を錬成する手間がない分、魔力消費も最小限で済むし、規模も速度も段違いになる。もし追っ手に追われても、水路の水を一気に丸ごと凍らせて巨大な壁を作れるよ」
ヴェルナが感心したように口笛を吹く。
「へぇ~! さっすがぁ!セレスタの指導とミアの才能だねぇ! 頼もしいじゃないか!街の地理と、ボクたちの特質を活かす。これが潜伏調査の基本さ。表立った行動は避けて、酒場や裏市場の情報屋から、静かに『旧倉庫街の事件の後の敵の動き』を探っていくとしよう!」
「……ふぅ。話し合ったら、なんだかホッとしちゃったな」
レナが両手を上に伸ばして大きく背伸びをする。緊迫していた作戦会議が一段落し、地下室を包んでいた張りつめた空気がふっと和らいだ。
ふと壁に掛けられた古びた振り子時計に目をやると、長針と短針がちょうど真上 ──正午を指していた。
「あ、もうお昼過ぎてんだね。通りでお腹が空くわけだ……」
ヴェルナが苦笑いしながら腹をさする。
すると、その言葉に呼応するかのように──
ぐぅぅぅぅぅぅ〜〜〜〜……ッ。
部屋の中に、なんとも可愛らしく、けれど静寂を切り裂くような盛大な音が響き渡った。
「「「……」」」
全員の視線が、示し合わせたかのように一斉にレナのお腹へと注がれる。
「あ、あははぁ……失礼しました……」
レナは顔を真っ赤にして、両手でお腹を押さえた。昨夜から全力疾走して、頭をフル回転させたのだ。お腹が悲鳴を上げるのも無理はない。
しかし、伝染するように──
ぐぅ~……。
くぅぅ……。
ミアとセレスタのお腹からも、控えめな音が鳴り響いた。
「ふふっ……みんな、腹ペコですね」
「にひひっ! 朝食は干し肉だけだったからねぇ。美味しい昼食と洒落込もうじゃないか!」
ヴェルナが立ち上がると、ミアが少し表情を引き締めて制した。
「……待って。昨日の今日だ。全員で外を出歩くのは危険。敵の目がどこにあるか分からない」
「うぐ……ミアの言う通りだね。潜伏調査を決めた直後に、ゾロゾロ全員で食堂に行くのは迂闊すぎるよね……あ、じゃあさ!」
レナが元気に手を挙げた。
「私ひとりで、買い出しに行ってくるよ!」
「えっ? レナひとりで!?」
「うんうん!……え、なんでみんなそんな顔で見るの!?いやぁ、大丈夫だってばー!」
レナは胸をポンと叩き、天真爛漫な顔で笑ってみせた。
「一人の方が街の雑踏に紛れやすいし、怪しまれないでしょ? それにね……私、危機察知とか『直感』だけはすごくいいから! ヤバそうな気配がしたら、すぐ逃げて戻ってくるって! 絶対大丈夫!」
「直感……まぁ、確かにレナの直感には助けられてるけどさぁ……」
「……分かった。絶対に無理はしないこと。食べ物を買ったら、どこにも寄らずにすぐ戻ってくること。いい?」
ミアの念押しに、レナは「うん! 約束する!」と元気よく頷いた。
セレスタから銀貨の入った小銭入れを受け取り、レナはフードをすっぽりと被る。
「それじゃあ、ちょっと行ってきまーす!」
仲間たちの見送りを受け、レナは隠れ家の重い鉄の扉を開け、太陽の光が降り注ぐ昼の港町ヴェゼルへと躍り出て行った。
66話のあとがきの後日談ですが、結局課金しました。
…爆死しました。
「「「「はぁ……だから言ったのに…」」」」




