56話 初めまして!のはずなのに?
地下隠れ家の重い鉄扉を抜け、地上へと延びる急な石段を駆け上がる。 隠れ家の周りの静まり返った裏路地を通り抜け、しばらく歩いて大通りへと突き抜けると、眩いばかりの太陽と湿り気を含んだ潮風がレナの全身を包み込んだ。
「うわぁ……! やっぱり昼間はすごい活気だなぁ……!」
被っていたフードの隙間から覗く港町ヴェゼルの景色に、レナは改めて感嘆の声を漏らした。 昨夜逃げ込んできた時の静まり返った不気味な水路とは打って変わり、市場通りは溢れんばかりの人波と威勢の良い掛け声に満ちあふれている。
色とりどりの屋台には揚げたての魚フライや香ばしい串焼きが並び、網の目のように街を巡る運河には、物資を積み込んだ小舟が水すましのように次々と行き交っていた。
「えーっと、まずはみんなの分のご飯だよね。干し肉以外の温かいものがいいなぁ」
セレスタから託された小銭入れの重みを握りしめながら、レナは雑踏の波へと滑り込んだ。 フードを低く被り、極力目立たないよう意識しながらも、鼻をくすぐる美味そうな匂いにつられて足取りは自然と軽くなる。
「へいお嬢ちゃん、うちの店で一番人気の出来立ての海鮮串焼きはどうだい! 銀貨一枚で三本おまけするよ!」
「あ、それ三本ください! あと、冷めても美味しいパンってありますか?」
「それなら隣のパン屋の黒パンが一番だ! 街一番のギルド御用達だからな!」
威勢の良い店主から紙包みに包まれた温かい串焼きを受け取ると、レナはそのまま教えられた隣のパン屋へと足を伸ばした。香ばしい小麦の匂いが漂う店頭で大きな焼きたて黒パンを購入し、両手で抱える。手に伝わる柔らかな温もりに、思わずお腹がまたキュッと鳴りそうになった。
(よしよし、順調! 買い出しなんて楽勝じゃん。みんな心配しすぎなんだから……)
買い出しのミッションをあっさりとクリアし、レナは満足気な笑みを浮かべた。 だが、隠れ家への帰り道を辿ろうと、メインストリートから一本脇の水路沿いの路地へ足を踏み入れた──その時だった。
(……ん?)
背中の首筋あたりが、ゾクリと氷を押し当てられたように冷たくなった。視界にあの『線』が走ったわけではない。赤や黒の不気味な線が浮かんだわけでもなければ、誰かの殺意や気配を明確に捉えたわけでもない。けれど──理屈では説明できない『直感』が、危険を知らせるように胸の奥をざわつかせていた。
理屈や五感を超えた野性的な閃きが、「誰かに狙われている」と告げている。
(誰かに……見られてる……?)
レナは歩調を緩めず、さりげなく水路の水面に映る自分の後ろ姿を確認した。 人通りのまばらな裏路地。少し離れた建物の影から、フードを深く被った二人組の男が、あからさまにレナの歩調に合わせて距離を詰めてきている。
(まさか昨日の追っ手……!? でも、昨日の奴らならこんな二人だけで来るかな……。服装も違うし、攻撃をしかけてくる様子も魔法を使う様子もない。ただの街のチンピラ……?)
『ヤバそうな気配がしたら、すぐ逃げて戻ってくるって!』
隠れ家でミアたちに誓った約束が頭をよぎる。 変に戦闘になって騒ぎを起こせば、敵の残党や街の警備に目をつけられる危険がある。ここは「逃走」で撒くのが正解だ。
「よしっ……!」
レナは靴底で石畳を蹴り、一気に走りだした。
「…クッ!」
背後で男たちの低い舌打ちと切迫した足音が響く。やはり狙いは自分だった。 レナは入り組んだ水路の路地を、右へ左へと小気味よく曲がっていく。
(水路沿いは抜け道がいっぱいあるって、ヴェルナも言ってたもんね! 街の構造なら、こっちだって——)
しかし、曲がり角を勢いよく抜けた瞬間、レナの足がピタリと止まった。
「うげっ……行き止まり!?」
目の前を塞ぐのは、高々とそびえる石造りの古い水門。そしてその下には、深々と濁った水がたゆたう水路が広がるのみ。 完全に追い詰められた形になったレナが振り返ると、息を切らした二人の男が路地の出口を塞ぐように立ち塞がっていた。
「ハァ……ハァ……すばしっこいガキだ……! だがここまでだ」
「おいおい、よく見たら思ってたよりずっと可愛い顔してんじゃねえか……。なあ嬢ちゃん、大人しくその小銭入れと荷物を置いていきな。……ついでにちょっと俺たちの遊びに付き合ってくれりゃあ、怪我させずに優しく可愛がってやるからよ……」
舌なめずりをしながら、舐め回すようなねっとりとした視線を送ってくる男たち。『俺たちの遊び』と言うのはよく分からないが、あまりに舐め回すような視線と男たちのニヤけ顔に、レナは背筋がゾゾッと泡立つような強烈な嫌悪感を覚えた。そんなレナの気持ちなどお構いなしに、懐から短剣を抜こうとする。
(このおじさんたち気持ち悪いっ!逃げられないなら……やるしかない!)
レナは買い込んだ荷物を急いで抱え直し、手のひらに眩い「光」の魔力を練り上げた。昨夜の恐怖を乗り越え、セレスタに教わった魔法を使って自分だって戦えるのだ。まばゆい光で敵の目を眩ませ、その隙に頭上を跳び越えて逃げようと足に力を込めた──まさに、その瞬間。
頭上の水門の縁から、ふわりと一筋の風が舞い降りた。
「——やれやれ。昼間っから女の子一人を追い回すなんて、相変わらず『ニンゲン』というのは…」
鈴を転がすような、けれどどこか冷徹さを孕んだ透き通る声。
「なっ……!?」
男たちが呆然と見上げる間もなく、水門の上に腰掛けていた人物が、ひらりと軽やかにレナと男たちの間に降り立った。
着地と同時──シュッと空気を切り裂く短い打撃音が二回。
「がはっ……!?」 「ぐあッ……!」
何が起きたのかすら認識できない速度だった。 降り立った人物が軽く腕を振るった次の瞬間、二人の男がほとんど同時に無力化された。男たちは白目を剥き、短剣をぽろりと落としてその場に崩れ落ちた。一瞬にして沈黙する裏路地。
「……はぁ。暇つぶしにもならないわね」
気だるげに息を吐きながら振り向いたのは、息一つ乱れていない少女だった。 風に揺れる艶やかな黒髪と、見た者を引き込むような暗く黒い瞳。そして珍しいその服装と佇まいから発せられるのは、男たちとは比べるべくもない圧倒的な強者の気配だった。
(な、なに……今の!? 一瞬で二人を……!? すごい強者のオーラ……!)
レナの背中に緊張の汗が流れる。だが、その少女から感じられるのは、これまで遭遇してきた敵のような明確な殺意ではなかった。
「大丈夫? お嬢さん」
少女が静かな瞳でレナを見つめてくる。
「あ……うん! た、助かったよ……ありがとう!」
レナは抱えていたパンと串焼きを落としそうになりながらも、心からの感謝を伝えた。そして、目の前の圧倒的な強さを持つ少女へと一歩踏み出す。
「あの……私、レナって言うの! あなたは……?」
「──リオン。……そう呼びたければ呼べばいい」
少女──リオンは気だるげに言い捨てると、レナの姿と手元の紙包みを上から下まで視線で一撫でした。
「怪我がないならいい。……ところで、お嬢さん。その包みから妙に美味そうな匂いがするのだけど」
「えっ? あ、これ? 買い出しで買った海鮮串焼きとパンだけど……」
「……少し分けてくれないかしら。ちょうど小腹が空いていたの」
圧倒的な強者感と、その見た目の美しさからは想像もつかないほど身も蓋もない要求に、レナは拍子抜けして思わず「ふふっ」と吹き出してしまった。
「いいよ! 助けてもらったお礼に、奢っちゃう!」
そんな会話をした後、二人が向かったのは裏路地を抜けた先にある広場だった。中央には大きな石造りの噴水が鎮座し、溢れ出る水が太陽の光を反射して輝いている。ベンチに腰掛けた二人は、買い込んだばかりの海鮮串焼きを並んで頬張り始めた。
レナは隣に座るリオンの姿を、串焼きをかじりながらチラチラと盗み見た。
艶やかな黒髪を風になびかせ、着ているのはこの街では見かけない異国の「和服」という装束らしい。しなやかな帯と美しい布地のラインが、彼女の洗練された雰囲気をより一層引き立てている。
初対面のはずなのに、なぜかどこかで会ったことがあるような、不思議な既視感を覚えていた。
「ん……美味しい。外は香ばしくて、中はプリプリしているわね」
「でしょー! 一番人気だって店主さんが自慢してたんだよ!」
満足そうに目を細めるリオンを見て、レナはパッと表情を華やがせ、一切の警戒もない無垢な満面の笑みを向けた。命を救ってくれた格好良いお姉さん。和服を着た綺麗で強い人──レナの瞳には、目の前の少女がただの頼もしい恩人にしか映っていない。
無防備に頬を緩め、無邪気にパンをかじるレナとは相対し、そのすぐ隣で佇むリオンの佇まいは、静水のように穏やかでありながら、どこか圧倒的な異物感を放っている。
太陽の光を浴びながらも、彼女の周囲だけ時間が凍りついているかのような重圧。レナがどれほど無邪気に笑いかけようとも、リオンの暗く冷たい瞳の奥には、常人には決して覗き込めない底知れぬ深淵が冷たく横たわっていた。そんな“絶対に触れてはいけない存在”のすぐ隣で、レナは何の疑いもなく無邪気な笑みを咲かせている。
「そういえば、リオンさんはどうしてさっきの場所にいたの? ワフク?っていうのもすごく珍しいし、旅の人?」
「ええ、まあね。気まぐれにこの街へ立ち寄っただけよ。……面白そうな『気配』を追ってきたら、貴女がチンピラに絡まれていたというわけ」
「面白そうな気配……?」
首をかしげるレナに、リオンは最後の串を呑み込むと、噴水の水を静かに見つめながら呟いた。
「ええ。この街の底にはね、貴女のようなおめでたい子を一瞬で飲み込んでしまうような……どろどろとした『暗闇』が満ちはじめているの。……ふふ、あんまり無防備に歩き回らないことね……あと、もう少し警戒心というものをつけた方がいいと思うわよ。レナ」
その言葉に、レナの背筋が冷やっと跳ね上がった。
(どろどろとした暗闇……?もしかして、昨日見た黒い『線』が示す化け物のこと……!?)
「リオンさん、もしかしてその『暗闇』の正体を知ってるの……!?」
レナが思わず身を乗り出すと、リオンは深海のような瞳をゆっくりと向け、フッと意味深な笑みを浮かべた。
「さあね。でも……また近いうちに会うことになりそうね、レナ」
そう言い残し、リオンはベンチからすっと流れるような動作で立ち上がると、和服の裾を軽やかに翻した。
「ごちそうさま。助けられたお礼としては、上出来な串焼きだったわ」
「あ、待ってリオンさん──!」
レナの制止の声が噴水の水音に紛れて空中に溶ける。リオンは一度も振り返ることなく、一歩、また一歩と歩みを進めた。その足取りは急いでいる風でもないのに、和服の裾がふわりと揺れた次の瞬間には、まるで空間そのものが歪んだかのように数メートル先へと移動している。
「え……?」
レナが瞬きをした一瞬の隙だった。 噴水から吹き上がる水飛沫の白い霧の向こう側、群衆の波へと足を踏み入れたリオンの姿は、まるで最初からそこに存在していなかったかのように完全に掻き消えていた。残されたのは、ベンチの上にぽつんと置かれた空の紙包みと、潮風に混じって仄かに漂う……どこか甘く、けれど刺すように冷たい、不思議な香調の余香だけ。
(消えた……!? 魔法? それとも、ただ足が速いだけ……?)
レナは呆然と立ち尽くし、リオンが消え去った人混みを見つめ続けた。圧倒的な強さと、あの底知れない見た者を引き込むような暗く黒い瞳。 初対面のはずなのに、なぜか胸の奥がキュッと締め付けられるような、どこか既視感のあるような、けれど知ってはいけないものに触れてしまったかのような、不可思議な余韻が心に冷たく残っている。
(リオンさん……一体何者なんだろう。……でも、すごく強くて、綺麗な人だったな)
ぽかんと空を見上げていたレナだったが、ふと胸元に抱えた紙包みから伝わるぬくもりに意識が引き戻された。
(……あ!!)
一気に現実へ引き戻されたレナは、ハッと目を剥いた。
「やばいやばい! ぼーっとしてる場合じゃないじゃん! みんなのご飯が冷めちゃう!」
買い込んだ温かい海鮮串焼きと焼きたての黒パン。 隠れ家で待っているミアやみんなの顔が脳裏に浮かび、レナはぶんぶんと首を振って自分の頬を両手でバチンと叩いた。
「よしっ、急いで戻らなきゃ!」
思考を切り替え、ぎゅっと抱え直したパンの袋を守るように前傾姿勢をとる。 レナは太陽の光が降り注ぐ石畳を蹴り上げると、不思議な出会いの余韻を胸の奥に押し込め、仲間たちが待つ地下隠れ家を目指して元気よく駆け出そうとして──ふと、足を止めた。
「……あれ?」
紙袋の中へ視線を落とす。
海鮮串焼きは、三本買った。
そしてさっき、リオンと一緒に食べた。
もう一度、残っている串焼きを数える。
「…………」
レナの額から、じわりと冷や汗が流れた。
「これ……みんなの分、足りなくない……?」
数秒の沈黙。
「やばぁぁぁい!! 買い直さなきゃ!!」
来た道を全速力で引き返していくレナの叫び声が、昼下がりのヴェゼルの街へと虚しく響き渡るのだった──
読者の皆様へ、二つお知らせです。
・本日、レナの本編開始以前を描いた短編
『花を届けるまで、私は二度死んだ。』
を投稿しました。短編単体でも読める内容です。
・第1章の内容を書く各話の文字数の問題や、展開の物足りなさ。表現の少なさ等の改善のため、エピソード同士を統合したり、一部表現を修正いたしました。
そのため、本来であれば今読んでいただいてるこのエピソードは68話でしたが、上記修正の影響で56話目となっています。
最新話を追っていただいてる方々は特にですが、混乱させてしまい、申し訳ありません。
今後とも、本作品をよろしくお願いいたします。




