53話 約束の海はあまりに遠く
「これ、どういう状況?」
暗闇の奥から、今度は風情のある木駄の音が響いた。しとやかな和服に身を包んだ黒髪の少女が、袖で可憐に口元を隠しながら姿を現した。
「あらあら、ファースト。あなた、また人間相手におもちゃ遊び? セカンドに怒られても知らないわよ?」
「酷いなぁフィフス。僕はただ、前に遊んであげたノラ猫が向こうから飛び込んできたから、思い出話をしてあげてただけじゃないか」
ベルフェルが肩をすくめて呟く。
ヴェルナの額から冷や汗が吹き出していた。魔族であるヴェルナの鋭い五感をもってしても、その和服の少女の接近を一切感知できなかったからだ。
「……あの、二人……」
後方でセレスタが顔を蒼白にさせ、震える声で呟く。
「魔素の質が……桁外れです………!ほんとに人間なんですか…?」
「あら、あの魔族の娘……私達をそんな下劣な存在達だと思ってるの?…あら…?もしかして貴方、逃げ出した実験体じゃない?」
リリエルが黒い瞳を少しだけ細め、セレスタへと視線を向けた。それだけで、セレスタの全身が痺れたように動かなくなる。
「…まあいいわ。ファースト、早く終わらせましょう」
「はぁ?この僕がせっかく楽しんでるのにさぁ?……あぁもう、じゃあ、二手に分かれよう。僕はその家畜と、威勢のいい劣等種の相手をするからさ」
「じゃあ、わたしはそっちの光使いの女の子と、逃げた実験体ちゃんね」
戦況は強制的に二分された。
ヴェルナ、ミア vs ベルフェル。
そしてセレスタ、レナ vs リリエル。
「ハァッ……ハァッ……死ね……死ねぇッ!」
限界を超えて振り回されるミアの短剣。ヴェルナも双剣を閃かせ、男の死角である首の後ろへと刃を突き刺す。
「『魔族流・影縫い』!」
だが——カキィンッ! 刃は男の首筋の手前で虚しく跳ね返された。
「にひひ、君も届かないねぇ」
ベルフェルが振り向きざまに、軽々と手を払った。ただの手払いから生み出された衝撃波の暴風が、ヴェルナを襲う。
ドゴォォォンッ!
「ガハッ……!?」
ヴェルナの身体が吹き飛ばされ、倉庫の分厚い石壁へと激突する。壁に深い亀裂が走り、血を吐きながら崩れ落ちた。
「くはは! 弱い弱い! 魔族のくせに、僕のただの手払い程度で吹っ飛ぶなんてさぁ!さっすが劣等種!」
ベルフェルは大爆笑しながら、絶望に震えるミアへと歩み寄っていく。
一方、反対側の戦場でも惨劇は始まっていた。
「『聖光連弾』!!」
「『漆黒の奔流』!」
レナの光弾と、セレスタが放った渾身の闇魔法が混ざり合い、リリエルを呑み込む。だが、リリエルの周囲に漂う極小の『空間の歪み』によって、すべての魔術は吸い込まれるように消滅した。
「あら…綺麗な魔術ね」
リリエルが口元に笑みを浮かべ、ゆったりと手を叩く。
パチン。
その瞬間、レナとセレスタの頭上の空間が「折れ曲がり」、目に見えない圧倒的な重力が二人に叩きつけられた。
ドォォォォンッ!!
「あがッ……!?」
「かは……ッ!?」
石畳が円形に沈み込み、レナとセレスタは地面へと叩きつけられた。全身の骨が悲鳴を上げ、内臓が押し潰されるような激痛。
「ぐ……あ……っ!」
レナは吐血しながら、必死で立ち上がろうと腕に力を込める。だが、背中にのしかかる見えない重圧が、彼女を地面へ縫い付けたように動かさない。
「ふふ、可愛いお顔が台無しね」
リリエルが優雅に歩み寄り、伏せるセレスタの頭を、木駄の爪先でトン、と軽く突いた。
「逃げた実験体ちゃん。可哀想に……せっかく逃げたのに、結末を変えることはできなかったのね」
「う……あ……っ……」
セレスタの灰色の瞳から、涙が溢れ出る。
恐怖。絶望。かつて暗い地下施設で味わった、あの無力感が再び彼女の心を支配していく。
「やめ……ろ……っ!」
レナが血塗れの顔を上げ、手を突き出す。
「セレスタさんに……触るな……ッ! 『炎華』!」
レナの副属性である炎が、光と混ざり合って爆発的な火柱となってリリエルを襲う。
「あら?」
リリエルは驚いたように目を丸くし、軽やかに後方へ跳び退いた。
火柱が空を焦がし、夜空を赤く染める。
「ハァ……ハァ……っ!」
レナは立ち上がり、セレスタの前に立ちふさがった。全身から血を流しながらも、その瞳には強い光が宿っていた。
「大丈夫……セレスタさん……! 私が……守るから……っ!」
「レナ……さん……」
その姿を見たヴェルナも、瓦礫を押し退けて立ち上がった。
「にひひ……格好良いじゃないか、レナ……! ボクだって、格好悪いところは見せられないからねぇ……!」
ヴェルナの全身から、濃密な紫色の魔族の気が噴き出す。限界を超えた魔力の解放。
「みんなっ! 悔しいが各個撃破はムリだ!全員ボクの攻撃に合わせて!一気に叩き込む!仮に届かなくても、押し潰す!」
ミアもまた、血を吐き捨てるようにして短剣を低く構えた。
四人はボロボロになりながらも、互いの存在を感じ取り、再び構えを取った。
「「「「はああぁぁぁぁぁぁッ!!!!」」」」
四人の持つ全ての力、全ての絆が一つとなり、ベルフェルとリリエルの二人へ向けて解き放たれた。夜の港街全体を揺るがすほどの、圧倒的なエネルギーの奔流。
「「「いけぇぇぇぇぇぇッ!!!」」」
「「っ!?」」
それは、彼女たちがこれまでの旅で得た、最高の輝きだった。レナの炎と光、ミアの極氷、ヴェルナの双剣から放たれる魔族の斬撃、セレスタの支援魔術。四人の絆が一つとなった最大の攻撃が放たれた。
しかし────
「あ〜…ガッカリだね」
ベルフェルがあくびをした。
「うーん…飽きちゃった」
ふたりの言葉が重なった瞬間、ベルフェルの差し出した「指先一つ」に触れただけで、すべての攻撃がパチンと消滅した。
「じゃあね、下等生物共」
ベルフェルの右手が、まるで目の前を舞う塵でも払うかのようにひらりと揺れた。そのあまりにも自然な仕草にレナの意識が一瞬だけ吸い寄せられた次の瞬間、
ビュン──と耳元を掠める鋭い風切り音が細く響き、生暖かい何かが頬へぱっと飛び散って肌を濡らした。
レナは思わず「……え?」と漏らした声よりも早く、濃い鉄臭が鼻を刺し、目の前に立っていたヴェルナの身体がぐらりと揺れた。
一歩踏み出そうとした足だけが前へ出る一方で、上半身はその動きについていけず、まるで時間がゆっくりと流れ始めたかのように身体の中心からずるりと上下へずれ落ち、ドッ、と鮮血が噴き上がって上半身が石畳へ激しく叩きつけられる音だけがやけに大きく響き渡る。
「……ぇ」
それでもレナの頭は目の前で起きた出来事を現実として結び付けられず、ただ目を見開いたまま動けない。
ほんの一瞬まで目の前にいたヴェルナが。
今、目の前で上下に分かれていた。
「…ぁ………ぁ……た…す……け…」
「いやあぁぁぁぁぁぁああああ!!!」
セレスタの悲鳴が夜の倉庫に響き渡る。
「あははッ! いやだなぁ、まるでこの僕がいじめてるみたいじゃないか!」
ベルフェルが爛々とした狂気の目で笑いながら、セレスタに向けて再び手をひらりと振った。その瞬間、両足の膝から下を瞬時に切断され、地面へ倒れ込むセレスタ。
「あっ……が……っ!」
「あぁ、素敵な角。これ、欲しかったのよね」
間髪入れず、リリエルが狂喜に瞳を輝かせてセレスタの頭上へ躍り出た。倒れるセレスタの頭部に生える黒い角を両手で角の根元を強く握り締め、一気に上へと引き抜くように力を込める。
メキッ……バキッ!!
「あがぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!!!」
頭骨が引き裂かれる激しい破壊音とともに、セレスタの口からこの世のものとは思えない悲絶な叫びが上がった。
根元から力ずくで圧し折られた頭部から、噴水のように膨大な血液と壊れた魔力が噴き出す。あまりの激痛と精神的ショックに、セレスタは灰色の瞳を血走らせ、白目を剥いて泡を吹きながら崩れ落ちた。
「よっ……と」
そのままリリエルは、泡を吹いて悶絶するセレスタの頭部を、木駄の踵で「ぐしゃり」と踏み潰した。
「ヴェルナぁぁ! セレスタぁぁぁッ!!」
僅か数秒での絶望。正気を失ったミアが、血の涙を流しながら氷の爪を剥き出しにして飛びかかる。
「死ね! 死ねえぇぇぇッ!!」
「あははははッ! 覚えてる、覚えてるよその顔ぉッ! お父さんの頭を踏み潰した時とまったく同じ顔だぁぁぁッ!!」
ベルフェルは恍惚とした表情で、迫るミアの顔面を素手で鷲掴みにした。
メリメリメリッ!
「あ……が……っ」
「いい音ぉ! 潰れる音ってサイコーだよねぇ!!」
バチィンッ!!
力任せに握り潰す音とともに、ミアの身体が石畳へ叩きつけられる。頭骨を破壊されたミアは、一度だけ痙攣し、二度と動かなくなった。
ほんの十秒足らずの出来事だった。
頼もしかった仲間たちが、会話を交わす暇すら与えられず、目の前でただ惨殺されていく。
「……あ……う……あ……」
レナは膝から崩れ落ち、血の海の中でガタガタと震えることしかできない。
「ふふ、最後はあなたね」
リリエルの冷たい声が、夜風に乗って耳元に届く。
彼女が細い指先を優しく躍らせた瞬間、目に見えない透明な糸がレナの両腕と両足へ強固に巻き付いた。
「あっ……あぁ……っ」
「いい子ね。最後はお揃いにしてあげる」
指先が、クイと引かれる。
プチッ……プチプチプチッ!
「ぎゃああぁぁぁぁぁぁぁっ!??!」
不可逆の激痛がレナを襲う。両腕と両足の関節が、あり得ない方向へと強制的に折り曲げられた。皮膚が裂け、肉が爆ぜ、白い骨が露出する。生きたまま四肢を破壊されたレナは、叫び声すら擦り切れ、地面の血だまりへと崩れ落ちた。
(…ごめん……みんな…)
レナは骨がむき出しとなった腕を、血の海の先へと必死に伸ばした。
数センチ先には、動かなくなったミアの冷たい手。
その奥には、命を落としたヴェルナとセレスタ。
痛みなのか、恐怖なのかも分からない涙が、頬の血と混ざり合ってぼろぼろと零れ落ちる。
脳裏に溢れ出してきたのは、恐ろしい怪物の顔でも、激しい戦闘の記憶でもなかった。
昨日の夜、焚き火を囲んでみんなで笑い合った、なんでもない日常だった。
あきれ顔で笑うヴェルナの八重歯。
照れくさそうに肉を分けてくれたミアの横顔。
温かいお茶を淹れて「レナさん、気をつけてくださいね」と微笑んでくれたセレスタの優しい声。
(みんなで……ヴェゼルに……来たのに)
(海を……見て……美味しいお魚を……食べて……)
(笑い合って……旅を……続けるって……)
(仇を……討つって……約束したのに……)
なぜ。
どうして。
私たちは……こんなにも……無力なんだろう。
どうして守れなかったのか。
どうしてみんなで幸せになれなかったのか。
届かぬ思いだけが、冷えていく体の中で惨めにはじけて消えていく。
あんなに温かかった旅の思い出が。
みんなで笑い合いながら話した未来の約束が。
目の前の理不尽な怪物たちの笑顔によって、あまりにも簡単に、無残に踏みつぶされていく。
(ごめんね……ごめんね……っ)
みんなが傷つく前に、わたしがもっと強ければ。
わたしが、みんなを守れていれば。
こんなところで、みんなの未来を終わらせずに済んだのに。
伸ばした指先が、ほんの少しだけ、あと数ミリだけ、ミアの指に届かない。
その数ミリが、永遠のように遠い。
(でも……寂しくないよ……)
もう動かない体の中で、レナは最後の残された光をかき集めるように、血だらけの唇をかすかに歪めて微笑んだ。
(みんな……待ってて……いま……行くから……)
「じゃあねぇ! 下等生物ちゃんッ!」
ドスッ。
不可視の刃が、レナの胸の中央を深く貫いた。
胸の奥で温かく灯っていた最後の光が、パチンと虚しく弾け飛ぶ。
「……あ……」
途切れゆく意識の最後の一瞬。
ガクリと力なく落ちたレナの指先が、ほんのわずかに、ミアの冷たくなった手へと重なった。
触れた触感すらもう分からない。
けれど、レナの瞳からは最後にひとしずくの透明な涙がこぼれ、そのまま二度と開くことはなかった。
……。
港町ヴェゼルの旧倉庫街に、冷たい夜風と、静かな波の音と、むせ返るほどの血の匂いだけが虚しく響いていた。
血の海の中に重なり合って倒れる、冷たくなった身体。
つい先刻まで未来を信じ、笑い合い、懸命に生きていた少女たちは、今や理由のない圧倒的な暴力によって、ただの「肉塊」へと変わり果てていた。
「ふぅ、すっきりしたぁ。さ、セカンドのところへ戻ろうか」
「そうね。服に血がついてしまったわ。早く洗い落としたいわね」
ふたりの怪物は、残された死体など一瞥もせず、楽しそうに雑談を交わしながら暗い夜の闇へと消えていった。
夜空には、何も知らぬ綺麗な月が浮かんでいる。
残されたのは、救いようのない圧倒的な無慈悲と、すべてを失った永遠の静寂だけであった。




