51話 本で読んだ青い世界
『竜の爪岩』の険しい岩山を後にした四人は、新たな決意を胸に、急勾配の山道を慎重に、けれど確かな足取りで下り始めていた。
足元で砕ける小石の音がカラカラと谷間に響く。先ほどまでの重甲魔獣との激闘の熱気は冷め、代わりに吹き抜ける風には、これまで知っていた森林や土の匂いとは明らかに異なる「何か」が混ざり始めていた。
「ねえ……なんだかしょっぱいような、不思議な風の匂いがしない?」
先頭を行くヴェルナのすぐ後ろで、レナが鼻をクンクンと鳴らし、不思議そうに空を見上げながら聞いた。
「ふふ、よく気づいたねぇレナ。それが『潮風』の匂いだよ」
ヴェルナが立ち止まり、八重歯を覗かせて振り返った。
「山を下りきるにつれて、海の風が街道まで届くようになるのさ。あの独特の塩気と湿り気は、海がすぐ近くにある証拠だよ」
「これが……潮風……」
レナの隣で、ベレー帽の端をそっと手で押さえながら、セレスタが灰色の瞳を輝かせた。
「本には『海から吹く風は塩分を含み、皮膚や髪に特有の感触を残す』と書いてありました。本当に……少し湿っていて、不思議な匂いがします……」
「本で読むのと、実際に肌で感じるのとじゃ大違いでしょ?」
ヴェルナが親指を立てて笑うと、セレスタは可憐に頷き、「はい……!」と嬉しそうに胸の前で手を合わせた。
「同感」
二人の後ろで短剣の鞘を確かめていたミアが、淡々と短剣を腰に収めながら口を開いた。
「文字でいくら知識を得ても、本物の風の冷たさや匂いまでは分からない。……実際にこの目で見て、触れることの重みは、戦いも旅も同じ」
「ミアさん……ふふ、相変わらず冷静で格好いいですね」
セレスタがくすりと微笑むと、ミアは少し照れくさそうに「……事実を言っただけ」と短く返し、視線を遠くの景色へと逸らした。
山道を下るにつれて、視界を遮っていた岩肌が左右へひらけ、眼下に広がる光景が少しずつその全貌をあらわにしていく。
陽の光を受け、果てしない地平線の彼方までキラキラと輝く群青色の水面。その広大な水の縁に身を寄せるようにして、白い石造りの建物の群れと、何本もの巨大な船の帆柱がひしめき合っている。
「すごい……! さっき高台から見た時よりも、ずっと大きく見える……!」
レナが思わず足を止め、両目を丸くして感嘆の声を漏らした。
「うん。港町ヴェゼル……いよいよ到着だね」
ヴェルナの言葉に導かれるように、四人は最後の坂道を駆け下りていった。
◇
山道を完全に下りきると、街道は太い石畳のメインストリートへと合流していた。
街道の両脇には頑丈な石造りの見張り台が立ち、重装備のヒューマンの兵士たちが旅人や商人たちの往来を監視している。しかし、ギルドプレート掲げたヴェルナの手際よい手続きのおかげで、四人は何の問題もなく門を潜り抜けることができた。
門を渡った瞬間、それまでの静かな山道とは一変して、圧倒的な「熱気」と「賑わい」が四人の全身を包み込んだ。
「うわあぁぁぁ……っ!!」
レナが思わず立ち尽くし、くるりと一回りしながら街を見渡した。
どこを見ても人、人、人。 色鮮やかな布を纏ったヒューマンの商人、大きな荷物を担いだ大柄なドワーフ、見たこともないエキゾチックな衣装を着た異国の船員たち。石畳の道路の両脇にはぎっしりと露店が立ち並び、色とりどりの果物、干し魚、見たことのない貝殻の細工品、異国の織物が山積みにされている。
「すごい活気……! ラグナスも大きかったけど、ここはなんだか匂いも人の熱気も全然違うよ!」
「港町は世界のあらゆる場所から船と物資が集まる場所だからねぇ」
ヴェルナが満足そうに胸を張り、人混みを器用に避けながら進む。
「ヒューマン領の南端にして、最大の貿易拠点。美味しいものも、珍しいものも、ここに来れば何だって手に入るのさ」
「……人が多い。はぐれないように注意しないと」
ミアが周囲に鋭い視線を走らせながら、淡々とした口調で注意を促した。その耳は立ち並ぶ露店の威勢のいい競り声や、押し寄せる人波の足音をしっかりと拾い上げている。
「そうですね……! レナさん、私の手を握っていてくださると安心です」
セレスタがベレー帽を深めにかぶり直しながら、少し不安そうにレナのハーフコートの袖口をぎゅっと掴んだ。ベレー帽のおかげで二本の黒い角は完全に隠れているが、セレスタにとって、これほどの雑踏は捕らえられる前の調査任務以来だ。
「うん! 任せてセレスタさん、絶対離さないからね!」
レナが力強くセレスタの手を握り返すと、セレスタは「ふふ、頼もしいです」と温かな笑みをこぼした。
「さて!」
先頭を進むヴェルナがポンと手を叩いた。
「街に入ったばかりだけど、まずは約束を果たさなきゃね。みんな、あの高台へ向かうよ!」
ヴェルナが指さしたのは、街の西側、港を一望できるように突き出したら崖の上に建てられた小さな展望広場だった。白造りの手すりが整備され、そこからは街全体と、その向こうに広がる広大な海が一界に見渡せるようになっている。
緩やかな石段を登り、風が吹き抜ける広場へと足を踏み入れた瞬間——。
ザザーッ……、ザザーッ……。
規則正しく重厚な「波の音」が、全身を震わせるように響いてきた。
「「「……っ!!」」」
レナ、ミア、セレスタの三人は、打ち合わされたように言葉を失い、展望手すりへと駆け寄った。
眼下に広がるのは、見渡す限りの青。 空の青さとはまるで違う、深く、透明で、どこまでも重厚な青い水の世界。 水平線の果てまで途切れることなく続き、太陽の光を浴びて無数のダイヤモンドを撒き散らしたかのように眩しく輝いている。 絶え間なく押し寄せては白い泡を立てて砕ける波。風に乗って運ばれてくる力強い塩の香り。
「これが……海……!」
レナが胸の前で拳を握りしめ、目を輝かせた。
「すごい……本当にすごい……! こんなに広くて、生き物みたいに動いてて……どこまで続いてるの……!?」
「あ……ああ……」
セレスタはベレー帽を両手で押さえ、溢れ出そうになる感動を抑えきれない様子で絶句していた。
捕らえられていた旧水道施設の地下。冷たく暗い闇の中、自分の世界はわずか数メートルの石壁だけに狭められていた。 だが今、目の前には世界そのものが無限に広がっている。
「本に書いてあったのは……ほんのひとかけらの知識でしかなかったんですね……。こんなに美しくて……こんなに大きくて……眩しいなんて……っ」
灰色の瞳に小さな涙粒を浮かべながら、セレスタは愛おしそうに水平線を見つめた。
「……確かに。これはすごい」
ミアが手すりに手をかけ、静かに、けれど深く息を吐き出した。淡々とした声の中には、いつもより少しだけ感情の熱が宿っていた。
故郷を焼き尽くされ、狭い世界で生きてきた自分たちが、今、こうして新しい世界の広大さに触れている。その事実は、失われた過去の傷を優しく包み込んでくれるような温かさを持っていた。
「にひひ、みんないい顔してるねぇ!」
三人の表情を見つめていたヴェルナが、嬉しそうに八重歯を覗かせた。
「海は世界中のどこへでも繋がってるんだ。君たちがこれからどこへ行こうと、この海みたいに世界は広い。……さあ、海の広さに感動したところで、今度はお腹の虫を満足させに行こうか!」
ぐぅぅぅ……。
ヴェルナの言葉に応えるように、レナのお腹が可愛らしい音を立てた。
「あはは……! ごめん、海の綺麗さに夢中になってたら、急にお腹が空いてきちゃった!」
「ふふ、正直でいいと思いますよ、レナさん」
セレスタが目元の涙を拭い、クスッと笑った。
「よし! 港のすぐ近くに、獲れたての魚を出してくれる最高の食堂があるんだ。ボクの奢りで、特大の魚料理を食べようじゃないか!」
「「「おーっ!!」」」
四人は弾むような足取りで高台の石段を下り、活気あふれる港の埠頭へと向かっていった。
◇
ヴェルナが案内したのは、港の波止場に面した木造の活気あふれる食堂——『青海波亭』だった。
店内は昼時ということもあり、日焼けした威勢のいい船乗りたちや商人たちで満席に近い賑わいを見せていた。香ばしい焼き魚の匂いと、ハーブとニンニクを効かせた海鮮スープの湯気が充満し、食欲を激しくそそる。
「いらっしゃい! 4人かい? 奥のテーブルが丁度あいてるよ!」
威勢のいい女将さんに案内され、四人は港が一望できる窓際の木製テーブル席についた。
「にひひっ。さあさあ、遠慮しないで食べたいものを頼み込みなよ!」
ヴェルナが頼もしくメニュー表を広げると、レナとセレスタが目を輝かせて覗き込んだ。
「うわぁ……どれも美味しそう! この『銀サバのハーブ塩焼き』って何かな!?」
「こちらは……『海老と貝の濃縮スープ』と書いてありますね。温かそうで美味しそうです……」
「私はこの『マグロの特大香草揚げ』にする」
ミアが即座に指さしたのは、肉厚な魚の切り身をカラリと揚げた豪快なメニューだった。
「よし、じゃあ全部頼んじゃおう! あと、獲れたての刺身の盛り合わせも追加でね!」
注文を済ませてしばらくすると、運ばれてきた料理の数々に四人のテーブルは一気に華やかになった。
こんがりと黄金色に焼き上がった巨大な魚からは香ばしい煙が立ち上り、濃厚なスープからは海鮮の豊かな旨味が漂ってくる。
「それじゃあ……無事に港町ヴェゼルに着いたことと、海の美しさに乾杯!」
「「「乾杯ー!」」」
木製のジョッキを打ち合わせ、冷たい果実水を飲み干すと、四人は一斉に料理へと手を伸ばした。
「んんんっ〜〜〜〜っ! 美味しいっ!!」
銀サバの塩焼きを一口食べたレナが、頬を落とそうにして叫んだ。
「身がすごくふっくらしてて、旨味がギュッと詰まってる! ラグナスで食べたお肉とはまた全然違う美味しさだよ!」
「本当に……! このスープも、お魚と貝のお出汁が効いていて、体が芯から温まります……っ」
セレスタもスプーンでスープを口に運び、うっとりと目を細めた。
「ふん……この香草揚げも、外はサクサクで中はジューシーだ。……美味い」
ミアは淡々と言いながらも、素早い手つきでフォークを動かし、香草揚げを次々と口へ運んでいく。
「……あ、ミア」
レナが意地悪そうな笑みを浮かべて、ミアの顔を覗き込んだ。
「またそうやって口パンッパンに詰め込んで食べる〜! ほら、ほっぺたがリスみたいにポコンって膨らんでるよ?」
「……ぐ……っ!?」
ミアはピクッと動きを止め、口いっぱいに食べ物を詰め込んだまま、気まずそうに腕を組んで目を逸らした。
「ふふっ、前に言ってた通りですね! ミアさん、本当においしいものを食べる時は夢中になっちゃうんですね」
セレスタが口元を押さえてクスクスと笑うと、ミアは必死で料理を飲み込み、少し頬を赤くしながら「……味わっていただけ」と短く弁解した。
「にひひっ! ミアのそういう素直なところ、ボクは好きだけどねぇ!」
ヴェルナが笑いながら、刺身をパクリと口に運ぶ。
賑やかで、温かくて、美味しい時間。 ここが一週間の過酷な旅の果てであり、そして新たな出発点であることを、四人は美味しい料理を噛み締めながら実感していた。
◇
美味しい食事を終え、お腹も心も満たされた四人は、食堂を出て港の爽やかな風を浴びていた。
「ふぅ……食べた食べた! ごちそうさまでした、ヴェルナ!」
レナがお腹をさすりながら満足そうに笑う。
「にひひ、喜んでもらえて何よりだよ。……さて」
ヴェルナの表情が、ふと引き締まった。いつもの軽快な調子を残しつつも、その瞳には鋭い理知の光が宿る。
「美味しいものを食べてお腹もいっぱいになったところで、そろそろ『本題』に入ろうか」
その言葉に、レナ、ミア、セレスタの三人の空気も自然と切り替わった。
『竜の爪岩』で襲撃してきた重甲魔獣。 魔王軍の精鋭部隊で使われるはずの高等魔獣でありながら、そこには魔王軍の刻印が存在しなかった。 ラグナスの地下施設で蠢いていた「何者か」の影が、確実にこの港町ヴェゼルへも伸びているという事実。
「……街の調査だね」
ミアが短剣の柄にそっと手を触れ、淡々とした声で言った。
「あの重甲魔獣が街道に配備されていたということは、このヴェゼルの街の中に、奴らの拠点や物資の集積所が存在する可能性が高い」
「はい……」
セレスタもベレー帽を深めにかぶり直し、真剣な面持ちで頷いた。
「もし地下施設と同種の組織が関わっているとしたら、魔獣の移送や、抽出した魔素の取引がこの港を通じて行われている可能性があります。港町は物資の出入りが激しいため、隠れ蓑としては最適です」
「その通り」
ヴェルナが頷く。
「だからボクたちは、手分けしてこの街の情報収集を行いたいと思う。……レナとミア、二人にはギルドや市場周辺の『表の情報』を探ってほしい。最近街道や港で起きた不審な出来事や、妙な噂話がないかを聞き出すんだ」
「了解!」
レナが拳を握りしめた。
「ボクとセレスタは、港の裏通りや魔術的な痕跡を探る。影伝導通信で得た本国からの情報と照らし合わせて、不審な魔素の揺らぎがないか調べるよ」
「分かった。……レナ、行こう」
「うん! 気をつけてね、ヴェルナ、セレスタさん!」
四人は一度固い握手を交わし、二手に分かれてヴェゼルの街へと散っていった。
◇
午後。陽が少しずつ傾き始め、街の影が伸びていく。
レナとミアは、港の活気ある中央市場と、その近くにある冒険者ギルドの支部周辺を歩き回っていた。
「うーん……ギルドの依頼板を見ても、特に変わった依頼は出てなかったね」
レナが顎に手を当てて呟く。
「うん。ギルドに貼り出されているのは、周辺の野良の魔物討伐や、船の荷揚げの手伝いばかりだった。表向きは至って平和な港町に見える」
ミアは周囲の人々の会話に耳を澄ませながら、石畳を進む。その優れた耳は、雑踏の中から意味のある会話を拾い集めていた。
「……でも、市場の古株の船員や、露店商たちの会話の中に、気になるワードがいくつかあった」
「えっ、本当!? なに……?」
レナが驚いてミアに寄ると、ミアは声をひそめて語り始めた。
「ここ最近、夜になると北側の『旧倉庫街』に、船名を伏せた不審な大型船が横付けされているらしい」
「不審な船……?」
「ああ。正規の税関を通さず、黒いフードを被った男たちが、夜陰に紛れて大小様々の頑丈そうな『鉄の箱』を何個も運び込んでいるのを見た船員がいる。……そして、その箱の中から、地鳴りのような魔物や魔獣の唸り声を聞いたという噂だ」
「魔獣だけじゃなくて魔物の唸り声も……? でもそれって……!」
レナの背筋に冷たいものが走った。
街道で自分たちを襲った、あの重甲魔獣。 そして、故郷を焼き尽くし、両親の命を奪ったあの日の惨劇——。
あの日も、轟音とともに正体不明の魔獣が現れ、すべてを奪っていった。ラグナスの地下施設で感じた不気味な気配と、異様な姿の動物たち、そしてこのヴェゼルの旧倉庫街に夜な夜な運び込まれている謎の『鉄の箱』。
まだ確信はないが、点と点が線となって繋がっていくような気がした。
「きっと奴らだ……」
レナの手が、ギュッと自然に握りしめられた。指先が白くなるほどの強い力。
「やっぱり、私たちの故郷やラグナスだけじゃなかった……。奴らはこの港町を使って、魔物や魔獣、不気味なものを運び込んで、何か恐ろしいことを企んでるんだ……!」
「……ああ」
ミアの目が、氷のように冷たく研ぎ澄まされた。
「両親の仇……そして故郷を奪った奴らの足跡が、確実にあの旧倉庫街へ繋がっている。……逃がすわけにはいかない」
静かだが、激しい復讐の炎が二人の胸の中で燃え上がっていた。




