44話 今後について
旧水道施設を抜け、地上へ脱出してから数時間。夜の帳が完全に下りた都市ラグナスの北側区画にある古びた宿屋の一室で、部屋を照らすランプの灯りが静かに揺れていた。
部屋の奥に設置された二つのベッドには、それぞれ意識を失ったままのレナとセレスタが横たえられている。
「……よし、これで右腕の固定と、擦過傷の処置は終わりだね」
ヴェルナは手際よく綿布の包帯を巻き終えると、小さく息を吐いた。彼女の足元には、宿屋へ来る途中で購入した手頃な回復ポーションの空き瓶と、使い古された手当ての道具が散らばっている。
「ありがとう、ルナ……ううん、ヴェルナ。…手際いいね」
部屋の隅に置かれた丸椅子に腰掛け、治療の様子をじっと見守っていたミアが静かに声をかけた。彼女自身も水路の壁を叩き割った際の打撃痕や体力の消耗を残していたが、すでに最低限の手当てを済ませていた。
「ボクもセレスタも回復魔法なんて高尚なものは使えないから、こういう物理的な応急処置の技術だけは無駄に身についちゃうんだよ」
ヴェルナはニヒッと八重歯を覗かせて冗談めかしく笑うと、次にベッドの上で静かに呼吸を繰り返す白髪の少女──セレスタへと視線を向けた。
セレスタの細い身体には、かつて拘束器具が取り付けられていた痕が生々しく残り、肌の血色は依然として痛々しいほどに白い。しかし、ヴェルナがポーションを少しずつ口に含ませて喉へ流し込み、清潔な布で全身の汚れを拭き取ったことで、その表情にはかすかな安らぎが戻っていた。
「セレスタの様子は? 外傷は……私たちが助け出した時点で、命に関わるほど酷いものはなかったみたいだけど」
ミアの問いかけに対し、ヴェルナはセレスタの額に手首を当て、魔力の脈動を確かめるように目を細めた。観察から解釈、そして判断へ至る彼女の表情は極めて冷静だった。
「うん。外傷自体は、あの連中に捕まっていた時の拘束痕くらいだね。問題は体内の魔力……ううん、魔素の循環だよ。彼女の生命力を引き出すための魔素が、極限まで枯渇しかけている。だから今は、身体が自衛のために強制的に深い眠りについて、残された力を維持しようとしている状態だ」
「魔素の枯渇……。あの拘束具で力を吸い取られていたから?」
「そうだね。連中が何のためにセレスタの魔素を抽出していたのかは分からないけど、あの施設自体が魔素を異常な密度で滞留させる構造になっていた。あれだけの環境下で魔素の枯渇が起きるってことは、あいつら、どれだけ無茶な吸い取り方をしてたんだ……でも、今の問題はそっちじゃなくて、レナのほうなんだよね」
ヴェルナは首を巡らせ、もう一つのベッドで額に微かな汗を浮かべて眠るレナを指さした。
「レナが……目覚めない……」
ミアは椅子から立ち上がり、レナのベッドの縁へと歩み寄った。レナの胸は穏やかに上下しているものの、その眉根は痛みに耐えるかのようにわずかに寄寄せられている。外傷は脱出時の擦り傷程度で、命に関わるような大きな怪我はないはずだった。
「レナも……どこか悪いの? どこか怪我を見落としてる……?」
「いや、身体的な損傷はどこにもないよ。ボクが診た限り、彼女が倒れた原因は……恐らく魔素の溜め込みすぎだろうね」
「魔素の溜め込みすぎ……?」
ミアが首を傾げると、ヴェルナは腕を組み、納得のいく因果関係を組み立てるように言葉を続けた。
「うん。旧水道施設に入ってすぐの事、覚えてる? レナが『空気が重い』って話してたこと」
「……覚えてる。あの地下水路に入ってすぐ、レナが急に息苦しそうにして、顔色も悪かった」
「そう。あの旧水道施設は、長年閉ざされていたせいで環境中の魔素が極めて高い密度で溜束していたんだ。
ボクたち魔族や、野生の勘を持つミアなら無意識に体内の魔力に変換してたからやり過ごせたけど、レナは魔素の扱い方自体、全く知らないただのヒューマンだからね。特に、レナは魔素との同調率が高いのか、溜め込みすぎてしまったみたい。
無防備な状態のまま、あの濃度の魔素を体内に過剰に吸収し続けてしまったんだよ」
ヴェルナの説明は論理的であり、これまでのレナの不調の経過と完全に合致していた。
「本来なら、吸収された魔素は魔力に変換したり、魔法を行使することで外部へ排出される。でもレナは排出する手段を持たないから、限界まで体内に溜まった魔素が脳や神経を圧迫して、急激な許容量オーバーを起こしたんだ。
……まあ、要するに酷い『魔素酔い』みたいなものだよ」
「……危険な状態なの?」
ミアの問いに、ヴェルナは首を横に振った。
「命に別状はないよ。種族問わず人間は本来、体内に溜まった不要な魔素を時間の経過とともに少しずつ肌や息から自然排出する機能を持ってるからね。身体が急速な環境変化に追いつかずに休眠状態に入っているだけだ。どんなに遅くても明日までには目を覚ますと思うよ」
「……そう。明日までには……」
ヴェルナの明確な根拠に基づいた言葉を聞き、ミアは胸の奥で固まっていた重い焦燥感をようやく吐き出した。レナの小さな手を取り、その温もりを確認すると、ミアの表情に確かな安らぎが戻った。
「分かった。ちゃんとレナが目を覚ますならそれでいい」
「うん。セレスタも心配だから、今夜はここで体力を回復させよう」
二人は静かに頷き合い、それぞれの相方が横たわるベッドの傍らで、静寂な夜の経過を待つことにしたのだった。
◇
「……ん……?」
重い瞼を開くと、視界に飛び込んできたのは木目の粗い天井と、小さなランプの仄暗い光だった。
「……あ……れ……?」
レナは掠れた声を漏らし、力なく頭を動かした。なにか、夢を見ていた気がする。寝ぼけた頭を回転させて思い出そうとするが、何も思い出せない。
「レナ……! 目が覚めたの!?」
すぐ脇からかかった声で意識が覚醒していくのを感じた。声の主に視線を向けると、ベッドの縁に腰掛けたミアが、心配そうな、けれど確かな安堵を宿した瞳で自分を見つめていた。
「ミア……? ここ…宿屋……?」
「うん。ラグナスの北区にある宿屋だよ。急に倒れたからここまで運んできた。……気分はどう? 痛いところは?」
レナはゆっくりと身体を起こし、自らの両手を見つめた。脳を直接針で刺されるようなあの凄惨な頭痛も無く、ただ全身に重い疲労感だけが残っている。
「うん……大丈夫。頭痛も、もうしないよ。私……どれくらい眠ってた……?」
「逃げ切ってから、数時間くらい経ってる。ヴェルナの話だと、旧水道施設の中で魔素を溜め込みすぎちゃって、身体が休眠状態になってたみたい」
「魔素の……溜め込みすぎ……」
レナは己の身体の内部へ意識を向けた。確かに、地下施設に入ってからずっと空気が重く、ヴェルナが『魔素が溜まっているから』と言っていた。今回倒れたのは、その空間の特殊な環境と自分自身の体質が引き起こした因果だったのだと解釈できた。
「目覚めて良かった……本当に。どこか悪いんじゃないかって心配した…」
ミアが心底安堵したように息を吐き出す。レナはその温かい言葉を受け止め、申し訳なさそうに微笑んだ。
「ごめんね、ミア。途中で倒れちゃって……。……あ、そうだ、セレスタさんは……!?」
レナがハッと視線を部屋の奥へ向けると、向かいのベッドの傍らでヴェルナが椅子に座り、ニヒッと笑いながら手を振っていた。そのベッドの上では、白髪の少女──セレスタが規則正しい寝息を立てて眠っている。
「セレスタさんは……まだ起きてないんだね」
「うん。でも、外傷の処置は終わってるよ。彼女も体内の魔素が枯渇して休眠状態になっているだけだから、命に危険はないってヴェルナが教えてくれた」
「そうなんだ……。本当に、みんな無事で良かった……」
レナは胸を撫でおろし、地下水路で繰り広げられた死線と、全員で壁を破って掴み取った生き残りの結末を噛み締めた。あの地獄のような暗闇から、誰一人欠けることなく地上へ戻ってこられたのだ。
一段落ついたところで、ヴェルナが椅子の背もたれに深く寄りかかり、二人に向き直って表情を引き締めた。
「さて。レナも無事に目が覚めたことだし……これからについて、少し真面目に話し合っておこうか」
部屋の中の空気が、これまでの安堵感から現実的な協議の場へと切り替わる。レナとミアもヴェルナの言葉に真剣な視線を返した。
「今後の旅と、ボクたちが抱えている問題についてだね」
ヴェルナはまず、レナとミアの二人に視線を注いだ。
「まず、君たちが知りたいと言っていた『魔法の使い方』……特に体内の魔素を制御して外部へ排出する方法についてだけど。これは、セレスタが完全に回復してから、彼女から改めて教えさせることにするよ」
「セレスタさんから……?」
レナの問いに、ヴェルナは頷いた。
「そう。ボクは感覚的な要素が強すぎて人に教えるのには向いてないんだ。でもセレスタは魔素の精密制御と構造理解に長けているからね。彼女が目を覚ませば、レナが今回みたいに魔素酔いを起こさないための『魔素の排出方法』も、ミアが魔法を安定して行使するための『魔力を形にする技術』も、二人が知りたい事は全部、効率よく教えられる」
「分かった。魔法の訓練については、セレスタさんの回復を待つ……ということで保留にするね」
ミアが論理的な結論を整理して同意する。指導者として最も適した人物の回復を待つのが、最もリスクが少なく不確定要素を排除できる選択だった。
「で、問題はもう一つ……ボクたち『4人でこのまま旅を続けるかどうか』についてだ」
ヴェルナの言葉に、レナとミアの身体がわずかに緊張した。
「今回の地下水道での一件……あの明らかに気配が違う追っ手や、厳重に警戒されていた旧水道施設の状況を見ても分かる通り、明らかにヒューマン領の内部で何かが暗躍している」
ヴェルナの観察と解釈に、異論を挟む余地はなかった。単なる人身売買や犯罪組織の規模を超えた武力と計画性が、あの暗闇の中には存在していたのだ。
「ボクとセレスタの本来の任務は、消えた『境界線』の現場調査と、ヒューマン領の動向調査だった。でも、今回の誘拐事件によって、ヒューマン領の地下で魔族を標的にした巨大な陰謀が動いている可能性が浮上した。……これは、ボクたち二人の独断で勝手に動いていい規模の話じゃない」
「……魔王様に報告する、ということ?」
レナが問うと、ヴェルナは深く頷いた。
「そう。ボクたちは一度、このヒューマン領で何が起きているか、あの強敵の存在も含めて、魔王様や幹部の方々に特殊通信で詳細な報告を入れる。そして、その報告に対して魔王様たちがどういう判断を下すか。
……その『結果』次第で、ボクたちが今後どう動くかを決める」
ヴェルナの提示した手順は極めて合理的だった。組織に属する者として、報告と指示の仰ぎを最優先とし、責任の所在を明確にする姿勢である。
「魔王ハデス様たちの性格から考えて……状況を報告すれば、十中八九『そのままヒューマン領に留まって、その暗躍の正体を調査・追跡してくれないかな』って指示が降りてくると思うんだよね」
「……調査の継続命令が出たら、ヴェルナたちはヒューマン領にとどまることになるんだね」
「うん。そして、もしその指示が降りたなら……ボクたちは改めて、君たちに『正式な協力』を要請する。君たちが探している情報についても、ボクたちの調査と並行して全力で追跡することを約束するよ。というか、今回の件とレナ達の件は繋がって居そうな気がするしね……。
でも、もし魔王様から『即時撤退して魔族領へ戻れ』という指示が出た場合は、ボクたちはここで君たちと別れることになる」
未来の展開を勝手に決めつけることなく、判断の保留と分岐の条件を明確にするヴェルナの言い分に、レナとミアは深く頷いた。
「わかった。ヴェルナたちの上の判断が出るまでは、4人で旅を継続するかどうかは『保留』。
……それでいいよね、レナ?」
「うん。それが一番筋がいいと思う。無理に約束はせずに、ヴェルナたちの報告の結果を待つよ」
互いの立場と責任を尊重した上での明確な合意が形成された。
「にひひっ、話が早くて助かるよ。じゃあ、まずは魔王様たちへの報告だね。……あ、でもその前に────」
ヴェルナが八重歯を見せて笑い、レナとミアに向かって手を出した。
「今回は本当にありがとう。ここまでの死線を一緒に潜り抜けてきた仲間として……これからも、よろしく頼むよ。レナ、ミア」
その手のひらを前にして、ミアがわずかに口元を緩め、その手を力強く握り返した。
「こちらこそ。頼りにしている、ヴェルナ」
「うん! これからもよろしくね、ヴェルナ!」
レナも重ねるように手を差し出し、三人の手が温かく重なり合ったその瞬間だった。
「……ん……ふあぁ……っ……」
部屋の奥のベッドから、小さく可憐な欠伸の音が響いた。
三人が一斉に視線を向けると、ベッドの上で白髪の少女──セレスタがゆっくりと身を起こし、小さな手で眩しそうに目を擦っていた。
頭部に生えた二本の黒い角が、揺れるランプの光を浴びて静かに揺れている。
「あ……」
セレスタのグレーがかった瞳が瞬きを繰り返し、まじまじと自分を見つめる三人の姿を順番に捉えた。
最後に、彼女の視線がヴェルナの顔でピタリと止まる。
「……ヴェル……ナ……? ここ……どこ……?」
深く静かな眠りから覚めた少女の声が、静寂に包まれた宿屋の一室にぽつりと落ちたのだった。




