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境界観測《リミナル・サイト》-その線の先で、私は死んでいる-  作者: Rasky
第2章 都市ラグナス

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43話 Escape alive

 バシャアンッ! と凄まじい水柱が上がり、濁流の冷気がレナの全身を殴りつけた。


 急激な温度変化と水圧に息が詰まりそうになりながらも、レナは必死に水面へと顔を押し上げた。

 喉の奥にへばりつくカビと泥の匂いを吐き出し、乱れた髪を払いながら背後の破砕痕を振り返る。


 直後、バシャァン! ポシャッ、と二つの水音が連続して弾けた。

 風の魔力を纏って着水の衝撃を殺したルナが、背中にセレスタをがっしりと固定した姿勢で水面へ浮上する。そのすぐ隣では、ミアが野性的なしなやかさで水流を掻き分け、足場となる水路脇の細い石縁へ素早く跳び上がっていた。


「ゴホッ……! ふたりとも、大丈夫!?」


 レナが叫びながら、ミアの手を借りて浅瀬の石段へと這い上がる。全員が暗闇の中で激しい息を吐き出し、全身から水を滴らせていた。

 安堵の息が漏れかけたその瞬間──


 レナの網膜に焼き付いた視界の端で、どす黒い線が粘つくように蠢いた。


 先ほど強引に打ち破った牢屋の奥の大穴。その黒い影の向こう側から、追っ手の放つ禍々しい殺気の線が、壁の瓦礫を易々と越えてこちら側へ一直線に伸びてきていた。黒い線は一本ではない。絶対的な殺意を核として、周囲の暗闇を侵食するように太く、不気味に拡散しながら伸びてくる。


(……追ってくる! もし、この狭い空間で追いつかれたら、まずい、まずいまずいまずい……!)


 レナは胸の奥が凍りつくような悪寒に襲われ、膝の震えを力任せに抑え込んだ。


「休んでる暇はないよ! 追っ手がすぐそこまで来てる……! 逃げるしかないっ!」


「……っ! まだ追ってくるっていうの!?」


 ルナが背中のセレスタを落ちないよう抱え直し、鋭い視線を大穴へ向けた。ミアも即座に爪を構え、壁際に低く身を沈める。しかし、レナは二人の腕を掴む勢いで前へ進み出た。


「戦ったらダメ! 絶対に勝てない! 走って!!」


 レナは前方の暗闇へ視線を向けた。だが、その瞬間に彼女の思考は激しく凍りついた。

 眼前に広がる地下用水路は、黒く濁った水がゴーゴーと音を立てて流れる一本の直線状の構造だった。問題は、自分たちが飛び降りた石段から左右双方へ向かって、暗闇の奥へと水路が枝分かれすることなく伸びていることだった。


 右へ行くべきか、左に行くべきか。


 レナは必死に瞳を凝らした。これまでの死に戻りの中で、常に己を導き、死線からの脱出口を示してくれていたあの鮮烈な「白い線」を探した。


 ──ない。


 どこをどう見回しても、壁を見つめても、水面を追っても、どこにも白い線が浮かび上がってこない。視界に存在するのは、背後から迫り来る絶望的などす黒い線と、何も提示してくれないただの冷たい暗闇だけだった。


(なんで……!? なんでこんな時に見えないのっ……!? どっちに行けば助かるの!? 右なの!? 左なの!?)


 視界に映るのは、壁の向こうから這い寄ってくるどす黒い殺気の線と、水面を滑る鈍い色調の輪郭だけだった。過呼吸になりかける胸を必死に手で押さえ、レナは歯を噛み締め、爪が肉に食い込むほど拳を握りしめた。極限状態の思考の混乱を必死に抑え込もうと試みる。

 嘆いても、見えないものは見えない。直感による奇跡的な誘導が得られない以上、今は現実に存在する情報と論理に基づいて判断を下すしかなかった。


「レナ、どっちに進めばっ!?」


 ミアが短い息とともに判断を仰いできた。だが、レナが「分からない」と口を出しかけたその瞬間、背中にセレスタを背負ったルナが、迷いのない素早い口調で割り込んだ。


「位置的に言えば、左に進むべきだ!」


 ルナの長年培われた潜入調査の記憶と、都市ラグナスの地上構造に対する論理的推論が、即座に結論を弾き出していた。


「左だね、行こう!」


 左だと言うルナに、誰一人理由を尋ねることなく三人は走り出した。


「一応だけど説明すると、ボクが外からこの旧水道施設の全体構造を観察した時の配置と、街の西区の地下水路の配置を照らし合わせると、この左側が施設の最深部から外部へと抜ける幹線水路になっているはずだ。予想が正しければ、施設の裏手にある廃水路の出口に出られる」


 ルナの言葉には、事前の観察に基づいた明確な根拠が存在していた。セレスタの様子を確認しながら、三人は迷いなく濁水を力強く蹴立てて暗い一本道を突き進む。


 激しい水音だけが不気味に響く中、ミアが併走しながら冷静に背後の気配を探り、低く呟いた。


「……相手の移動速度が私たちの想像を超えていた場合、この一本道では追いつかれる可能性がある。追撃の速度を物理的に落とさせる手段が必要」


「どうするの……!?」


 レナが前方を注視したまま問い返すと、ミアは走りながら視線を上方の古びた天井へと向けた。密集した石組みと、経年劣化によって亀裂の入ったアーチ状の構造体。


「天井を破壊して土砂で道を完全に塞ぐ。追っ手を足止めするならそれしかない」


 ルナが一瞬だけ眉をひそめ、背中のセレスタを庇うように体勢を傾けながら懸念を提示した。


「待って、ミア。もし今ボクたちが進んでいるこの左ルートが間違っていた場合、後ろを塞いだらもう引き返せなくなるよ? 完全に行き止まりに閉じ込められるリスクがある」


「分かってる。でも、今の私たちの消耗状態と、セレスタを背負ったルナの機動力では、真っ向から追っ手を振り切ることは不可能。引き返す選択肢を残す余裕すら、最初から私たちには無い。塞ぐしか勝機は残らない」


 論理の飛躍はない。リスクとリターンを天秤にかけた結果、生存確率を僅かでも引き上げるためには、退路を断ってでも後方の脅威を遮断する選択以外の解が存在しなかった。


「……分かった! やって、ミア!」


 レナの同意を受け、ミアは即座に行動へ移行した。走る速度を殺すことなく、足元の水を大きく跳ね上げて跳躍。力を両腕の爪の先へ集中させ、天井の最も不完全な亀裂を目掛けて鋭い撃破の閃光を叩き込んだ。


 ズバァンッ!


 激しい衝撃が石組みの隙間に入り込み、天井の強度が限界を迎えた。大量の石材と土砂が轟音とともに崩れ落ち、水路の後方を完全に埋め尽くしていった。激しい粉塵が立ち込め、後方からのどす黒い線の圧迫感が、物理的な障壁によって消失したことが感じ取れた。


「ふぅ……これで少しは時間を稼げた……」


 ミアが着地し、再び前方を向いて走り出す。四人は一刻の猶予もなく、暗がりの中をひたすら前進した。


 沈黙と足音だけが支配する道中、走る速度を維持したまま、レナは前方を観察しつつ気になっていた疑問を口にした。


「ねぇ……ルナ。さっき、セレスタさん…ルナのこと『ヴェルナ』って呼んでたよね……?」


 ルナは視線を前方へ向けたまま、風の推進力を微小に行使して足取りを軽くしつつ、静かな声で答えた。


「…セレスタの角も見られたし、ここまで来たら君たちに嘘をつき続ける意味もないよね。ボクの本名は『ヴェルナ』だ。『ルナ』ってのは、ヒューマンの街に潜入するために使っていた偽名だよ。……ボクと、この背中にいるセレスタは、ヒューマンじゃない。魔王ハデス様の配下──『魔族』だ」


 その言葉が地下水路の空間に落ちた。


 隣を走るミアの表情には、大きな驚きは浮かばなかった。彼女は故郷の里を失った過去において、すでに人間以外の存在や「境界線」を巡る異質な勢力の存在を直感していたため、ルナが魔族であるという事実に対しても、感情的な拒絶ではなく「だからあれほどの戦闘能力と特殊な魔力を持っていたのか」という論理的な納得として解釈した。


 レナもまた、足を止めることはなかった。かつて、ルナが見せた常人離れした風魔法の精度を思い返せば、彼女が魔族であるという明かされた事実は、これまでの不自然な行動のすべてに綺麗な辻褄を合わせるものだった。


「魔族……だから、あの男たちに狙われてたの?」


「確実なことは分からないけど、状況的に見てもその線が濃厚だと思う」


 ヴェルナは苦い声を漏らした。


「ボクたちの任務は、ヒューマン領の動向を探る潜入調査だった。でも、勇者誕生後、ハデス様が魔族領全土に対して放送を行って境界線を提示したんだ。そして勇者から数日後、ヒューマンの王都が動いた。ボクたちは撤退しようとしていたんだけど、その途中でこの街の近くにあった『境界線』が不自然に消滅した。

 ハデス様からの指示でその現場を調査した直後、ボクたちは休むためにこの街に向かった。あとは前に説明した通りだよ」


 説明の因果関係は極めて明快だった。

 レナはヴェルナの背中に揺られるセレスタへ視線を向け、小さく首を傾げた。


「ねぇ、ヴェルナ。二人って、ただ任務で一緒にいただけの仲間……って感じじゃないよね?」


「……そうだね。ボクたちは、そんな簡単な関係じゃないよ。レナにとってのミアみたいな、そんな関係だと思う。だからボクは、何としてもセレスタを助け出さなきゃならなかった」


 その時、初めてヴェルナに会った時のどこか焦ってる様子やセレスタさんが囚われている姿を見たヴェルナの表情が脳裏に浮かぶ。



(私とミアのような関係。ヴェルナとセレスタさんの過去は分からないけど、何はともあれ──)


「本当に、助けられて良かった」


 ミアは私の言葉に頷きながら、


「そうだね。良かった。それにしても、ルナ…ヴェルナは、なにか隠してるとは思ってたけど、まさか魔族だったなんて、流石に分からなかった」


 「あぁ……。レナ、ミア。ずっと君たちを騙すような形になってしまってごめん。でも、ボクが魔族だと知ったら、普通のヒューマンなら協力どころか通報するでしょ? だから言えなかったんだ」


 ヴェルナの言葉からは、自らの立場と危険性を理解した上での明確な申し訳なさと、それでも譲れない相方救出への執念が込められていた。


 レナは前を見つめたまま、強く頷いた。


「いいよ、そんなこと! 名前がルナでもヴェルナでも、魔族でもヒューマンでも関係ない! 今、私たちが一緒にお互いを助け合ってここを逃げ延びようとしてる事実は変わらないんだから!」


「……にひひっ、君は本当に変わったヒューマンだね。でも、ありがとう」


 ヴェルナの口元に、いつもの軽い、けれどどこか温かみのある笑みが戻った。


 会話を交わしながらも、三人の足は止まることなく地下水路を疾走し続けていた。濁流のせせらぎの音が徐々に変化し、閉ざされた洞窟特有の重い空気の中に、わずかながら外界の湿った風が混ざり始めてきた。


「……光が見える!」


 ミアが前方を指さした。


 一本道の地下水路の遠く先、水面が反射して白く輝く出口が見え始めていた。ヴェルナの予測通り、左側のルートは都市の西側外縁部へ抜ける巨大な排水口へと直接繋がっていたのだ。


「一気に抜けるよ! 外へ出たら木々に身を隠して、追撃を撒く!」


「了解っ!」


 三人は残された力を振り絞り、光の差す出口へと躍り出た。


 ドサアッ! と勢いよく水路の排出口から飛び出した三人は、都市ラグナスの西側城壁の外側に広がる、うっそうとした森林地帯の泥地に滑り込んだ。頭上には夜の帳が降り始めており、木々の葉が夜風に揺れてざわめいている。


「はぁっ……はぁっ……! 抜けた……!」


 レナはその場に膝をつき、激しい呼吸とともに地面の草を掴んだ。手足は疲労で痺れ、全身が重かったが、あの地下の死の空間から脱出できたという実感が、ようやく胸を満たしていた。


 ヴェルナはすぐさま背中からセレスタを下ろし、地面に優しく横たえた。セレスタは意識を失ったままであったが、弱々しくも規則正しい呼吸を繰り返しており、命に別状がないことが確認された。


 ミアは即座に木々の影へと身を隠し、背後の排水口に向けて鋭い視線を走らせていた。


「追手は……出てこない」


「……あいつらも、あるいは都市の壁の外で大規模な戦闘を起こすわけにはいかないんだろうね。それにミアが天井を崩して道を塞いでくれたのが効いたみたいだね。」


 ヴェルナは額の汗を拭い、拘束痕の残るセレスタの手首を擦りながら言った。


「あいつらが何者であれ、彼らの目的は地下施設という密室の中でボクたちを処理することだった。外に出てしまえば、都市の警備兵や他の冒険者の目に触れるリスクが発生する。連中にとっても、それは不都合なはずだ」


 観察された状況から導き出されたヴェルナの分析に、レナも深く頷いた。


「じゃあ……ひとまず、外に出た時点で追っ手からは逃げ切れたって思っていいのかな?」


「そうだね。でもまぁ、ここも長居できる場所じゃない。連中がいつ追撃の小隊を差し向けてくるか分からないし、外に出た以上セレスタの治療が最優先だ。安全な場所まで移動しよう」


 ヴェルナはセレスタを再び背負い直し、二人に向かって向き直った。


「レナ、ミア。……本当に、君たちのおかげでセレスタを取り戻すことができた。ボク一人の力じゃ、あの壁の向こうに抜け道があることすら気づけずに、あの狭い牢屋で挟み撃ちになって全滅していたよ」


 ヴェルナの瞳には、感謝と、相手の能力に対する正当な評価が宿っていた。


「ボクは約束を守る。君たちが支払ってくれたリスクと協力に対して、ボクができる最大の報酬を与えるよ。魔素の取り込み方、そして君たちが抱えている『境界線』や故郷に関する問題についても、ボクの知る限りの情報と力を貸す」


「……ありがとう、ヴェルナ」


 ミアが短く、しかし深い信頼を込めて応えた。

 レナも立ち上がり、自らの掌を見つめた。あの地下で「白い線」が消え、暗闇に取り残された時の恐怖はまだ心に残っていた。


 しかし、ルナ──ヴェルナの論理的な判断と、ミアの確かな戦闘力、そして全員が互いの提示した因果を信じて選択を重ねた結果として、今こうして全員が生きてここに立っている。


「線が見えなくなっても……みんなで考えれば、正しい道を選べるんだ」


 レナは自分自身に言い聞かせるように呟いた。


「さあ、行こう。ボクが泊まっている宿屋がラグナスの北側にある。人目も多いから追手も大胆には来られないし、ゆっくり休んで次の行動を考え────」


 言葉の途中で、レナの視線が微かに泳いだ。


 ──グラッ……。


「あれ……? 目の前が……ぼやけ……」


 突如として視界が大きく歪み、足元の地面がぐにゃりと傾く。


 暗闇を走り抜け、死線を越え続けた身体は、すでに限界を遥かに超えていた。張り詰めていた緊張の糸がぷつりと切れた瞬間、全身から急速に力が失われていく。


「……レナ!?」


 焦燥を含んだ声が遠くで響く。

 重力に抗えなくなった身体が地面へと崩れ落ちる直前、温かい温もりが受け止めてくれた感触を最後に、レナの意識は深い闇へと沈んで─────



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