41話 魔族領 最高幹部の妹
ノクシアが紫髪をふわりとなびかせ、手にしていた大剣の柄にそっと手を置きながら、円卓を囲む一同へ向けて視線を巡らせた。
「ねぇ? 話は一段落着いたわけだし、私の妹の
───ヴェルナちゃんとそのお友達のセレスタちゃんの件を話したいのだけれど……」
そのゆったりとした問いかけが室内を満たした直後、参議室の重厚な扉が開かれた気配すらなく、部屋の中央にすっと影が落ちた。
空間の密度が揺らぎ、そこには赤黒い髪を軽く遊ばせた青年──魔王ハデスが、まるで最初からそこにいたかのような自然さで佇んでいた。
「へぇ、それは僕も興味があるね」
ハデスの不意の出現に対し、幹部たちの身体は条件反射で反応した。カインは即座に右手を胸に当てて深く頭を下げ、バルトレスは巨躯を折り曲げるように膝をつき、ネフィラも素早く姿勢を正して臣下の礼をとった。シェルは音もなく姿を縮めて身を低くし、エルドリスは白い髭を撫でながら静かに腰を落とした。
ハデスは苦笑いを浮かべ、左右の手を軽やかに振って彼らを見下ろした。
「もう〜、そういう堅苦しいのはほんとにいいからって、いっつも言ってるでしょ? 僕たちは仲間なんだから、そうやってすぐにかしこまられると話が弾まなくなっちゃうよ。ほら、みんな顔を上げて椅子に座り直して。僕も交えてそのふたりの潜入任務について、現在の状況を整理しようか」
ハデスの促しを受け、幹部たちは一斉に立ち上がり、それぞれの席へとつき直した。ハデス自身も空いていた円卓の席に腰を下ろし、肘をついて期待のこもった視線をノクシアへと向けた。
ノクシアは「あらあら……」と微笑みつつ、口元に手を当てて説明を開始した。
「ハデス様がそう仰ってくださるなら、お言葉に甘えさせていただきますねぇ。……私の妹のヴェルナと、セレスタちゃんのふたりはヒューマン領の深部へ潜入してるでしょ?
元々あの子たちの任務は、ヒューマン領における軍事動向の調査と、万が一勇者が誕生した際の情報収集だったのだけれど、先日のハデス様の全土放送と、ヒューマンの王による勇者選定が重なったことで、状況の前提が変わってしまったのよぅ」
ネフィラがツインテールを指先で弄りながら、ノクシアの説明を補足するように言葉を重ねた。
「ヴェルナたちが送ってきた最新の暗号書簡この前をシェルに見せてもらったけれど、彼女たちは現在、ヒューマンの王都近郊および主要な軍事拠点周辺に滞在しているわ。
ただ、問題は彼女たちの潜入行動の『目的』と『リスク』のバランスよ。ヒューマン側が勇者エルピスを選出し、かつハデス様の放送によって大軍での侵攻という選択肢を奪われた以上、向こうの防衛・情報警戒ネットワークは極限まで高まっているわ。そんな厳戒態勢の渦中に、魔族であるヴェルナとセレスタが留まり続けることは、発見された際のリスクが跳ね上がることを意味するのよ」
カインがマッシュ髪を指で整えながら、論理的な分析を提示した。
「そうだな。ヴェルナとセレスタの潜入能力自体は極めて高く、各人間族への擬態や魔力遮断の術式も万全だ。だが、シェルから貰った彼女たちの報告書にもあった通り、ヒューマンの王都では現在、勇者エルピスを中心とした即応パーティーの編成と苛烈な訓練が行われている。
もし彼女たちが勇者パーティーの周辺を探りすぎれば、聖剣が放つ特殊な神聖魔力や、同行している宮廷魔術師リシアあたりの広域探知網に引っかかる可能性がある。一度擬態が破れれば、彼女たちふたり対王都の全戦力という構図になり、脱出は困難になる」
ハデスは静かに頷き、幹部たちの論理的な分析に耳を傾けていたが、ふと疑問を口にした。
「なるほどね。ふたりの安全を心配する理由はよく分かったよ。でも、ヴェルナとセレスタは自発的にその任務を継続しているんだろう? 報告が途絶えていないなら、彼女たち自身は現時点で撤退すべきではないと判断しているわけだ。彼女たちが現地で『何を選択し、何を見極めようとしているのか』、その理由について報告書にはどう書かれているの?」
その問いに対し、水色ショートの少女シェルがボソボソとした低減で答えた。袖口から新しい焼き菓子を取り出しつつ、卓上に小さな羊皮紙の控えを提示する。
「あ……それについては……シェルの暗殺部隊の伝書ルートで……ヴェルナから個別の暗号文が届いてる……。ヴェルナたちは……勇者エルピスという個人の……資質と動向を観察することを……最優先課題にしているみたい……。勇者が単なる討伐の道具なのか……それともハデス様の境界線を脅かすような特別な存在なのか……それを直接見極めるまで……帰還は保留にしたいって……」
エルドリスが「ふぉっふぉっ」と優しく笑い、白髪の頭を撫でた。
「若いながら、ヴェルナもセレスタも実に見事な責任感じゃな。勇者エルピスなる青年がどのような人物であり、どのような戦闘理念に基づいて動いておるのかを知ることは、今後我が軍が迎迎態勢を敷く上で極めて有益な情報となる。
……じゃがな、ノクシアが懸念しておるように、身内の安全と情報の価値を天秤にかけたとき、どこで撤退の線を引くかが問題なんじゃよ」
バルトレスが太い腕を組み、刺青の入った顔を少し曇らせながら重厚な声で発言した。
「俺としてはさ、ヴェルナちゃんもセレスタちゃんもハデス様の大切な民であり、ノクシアさんの身内でもあるんだから、無茶はしてほしくないんだよ。もし彼女たちが捕まって酷い目に遭うくらいなら、今すぐ任務を切り上げて帰還命令を出してあげたい。
だけど、彼女たちが自分の意志で『ハデス様のために勇者の正体を見極める』と選んで現地にとどまっているなら、その覚悟を大人の俺たちが無駄にするのも違う気がするんだよね」
幹部たちの意見は、ヴェルナとセレスタの「安全確保」と「情報収集の継続」という二つの優先事項の間で揺れていた。全員がハデスへの忠誠と仲間への情愛を持っているからこそ、単純な切り捨てや暴走的な救援といった極端な選択を排除し、因果関係に基づいた最適な判断を模索していた。
ハデスは円卓の全員の顔を見回した後、爽やかな笑みを浮かべながら、自身の考えと方針を提示した。
「みんなの意見はどれもすごく筋が通っているね。ノクシアやバルトレスがふたりの身を案じるのは当然だし、カインやネフィラが分析したリスクも正確だ。そしてシェルとエルドリスが教えてくれたように、ヴェルナたちが意志を持って現場に残っていることも確かだ。だからこそ、ここで僕が決定を与えるよ」
全員がハデスの言葉に集中した。
「まず、現時点での『即時撤退命令』の発令は保留にする。彼女たちが現地で掴もうとしている『勇者エルピスの実態』は、今後の魔族領の防衛において価値がある情報だし、本人たちの意志を無視して強制帰還させれば、かえって彼女たちの警戒行動を雑にさせる危険があるからね。……ただし、無制限の自由行動を許すわけにもいかない」
ハデスは指を一本立て、明確な条件を付け加えた。
「条件をひとつ設定する。ヴェルナとセレスタに対して『勇者パーティーが王都を出撃し、前線砦へ移動を開始した瞬間』を最終撤退ラインとして指定する。勇者が動くということは、周囲の警戒網が実戦体制へ移行し、交戦のリスクが跳ね上がることを意味する。
その段階に至った場合は、情報収集の成否に関わらず、直ちにヒューマン領から離脱し、魔族領へ帰還することを絶対命令とする。それまでの期間に限り、彼女たちの観察行動を容認する」
ノクシアは胸に手を当て、安堵の溜息をついた。
「あらあら……ハデス様、明確な基準を示してくださってありがとうございます。それならヴェルナも納得して、深追いをせずに帰ってくる準備を進められますわ。あの子、昔から集中すると周りが見えなくなる傾向がありますから……撤退ラインがはっきりしていれば安心ですわ」
カインも深く頷き、羊皮紙にその方針を記録した。
「了解いたしました、ハデス様。即時撤退は保留とし、勇者パーティーの出撃をトリガーとした期限付きの任務容認、および自動撤退命令の発令。これならば情報収集の利得を得つつ、彼女たちの生存率を最小限のリスク内に抑え込めます。シェル、暗殺部隊の通信ルートを使って、この裁定を直ちにヴェルナとセレスタへ伝達してくれ」
「うん……わかった……。緊急離脱用の術式符も……通信と一緒に送っておく……」
シェルは短く答え、手元の小袋からお菓子をひとつ口に運んだ。
ネフィラはツインテールを払い、満足そうに鼻を鳴らした。
「ふん、ハデス様の裁定は相変わらず完璧ね。これでヴェルナたちが無駄死にするリスクも消えたし、私たちは入ってくる情報を待って迎迎策を練ればいいだけになったわ。カイン、あんたもこれで余計な心配をしなくて済むでしょ?」
「俺は最初から論理的なリスク管理の話をしてたんだよ、ネフィラ」
カインが苦笑しながら肩をすくめると、ハデスが楽しそうに声を上げて笑った。
「ふふ、やっぱりみんなで話すと良い結論が出るね。僕がひとりで考えてたら、ついつい『心配だから今すぐ迎えに行ってあげて』って過保護な命令を出しかねなかったからさ。みんなが冷徹に、でも温かく事実とリスクを整理してくれたおかげだよ」
エルドリスが「ふぉっふぉっ」と髭を蓄えた顎を揺らし、ハデスに向かって頭を下げた。
「ハデス様が我らを信頼し、こうして対等の輪に混ぜてくださるからこそにございます。王が揺るぎない理を示してくださるゆえ、我ら幹部も迷うことなく己の職務を全うできるのです」
バルトレスも力強く頷き、大きな胸を叩いた。
「そうですとも! ハデス様が作ってくれたこの平和と、仲間の安全は俺たちが完璧に守ってみせます! 勇者がどんな奴だろうと、ヴェルナちゃんたちが持ち帰る情報をもとに、俺たちが完璧に迎撃してみせますから、ハデス様は安心して城でおいしいお茶でも飲んでいてください!」
「ありがとう、バルトレス。でもお茶ばかり飲んでたら太っちゃうから、たまには散歩にも付き合ってね」
ハデスの冗談に、円卓の全員から和やかな笑いが漏れた。
ヴェルナとセレスタの潜入任務に関する方針は、感情論に流されることなく、ハデスの提示した「勇者出撃時の絶対撤退」という明確な因果と境界線の設定によって完全に整理された。
彼女たちが持ち帰るであろう情報と、今後の魔族領の迎撃体制。それらはすべて、ハデスの絶対的な存在感と幹部たちの揺るぎない忠誠心、そして冷徹な論理的思考によって噛み合わされ、次なる局面への準備として蓄積されていく。
参議室を満たす穏やかで張り詰めた空気の中、魔王軍の最高幹部たちは、王とともに歩む未来の防衛線を、より強固なものへと組み上げていった。
魔王ハデス「出番が無いなら、自ら登場すればいいじゃない」




