40話 模擬戦の洗礼
「来い! その神に選ばれたとやらの力、余さず俺の体へ直接叩き込んでみせろ! 勇者の名に相応しい一撃、期待させてもらうぞ!」
ガルドの野太い咆哮が、石造りの広大な訓練場に、物理的な衝撃波となって叩きつけられた。その声が空気を震わせた次の瞬間、エルピスの視界が歪む。
副団長という、王国の武力の頂点に近い地位に座り続ける男。彼が放つ殺気は、単なる精神的な威圧の域を疾うに超え、肌をじりじりと焼く熱風の塊と化して迫りくる。
ガルドが一歩踏み出すたびに、分厚い石畳の上の砂が爆ぜ、大気が悲鳴を上げるような風切り音が鼓膜を打つ。
(死ぬ、死ぬ死ぬ! 冗談抜きで、これ手加減なんて一ミリもしてねえじゃねえか! 殺しに来てんだろ、これ!)
エルピスは込み上げる悲鳴を必死に喉の奥へ押し戻し、半ばパニック状態で聖剣を頭上へと掲げた。
激突。
鼓膜を直接針で刺すような、鋭利な「キィィィィン!!」という高音が場内に響き渡る。激しい火花が目の前で散り、握り締めた手のひらから前腕、そして上腕から肩の骨へと、内側から爆発するような凄まじい衝撃が突き抜けた。
並の騎士であれば、初撃の重さに耐えきれず腕の骨が粉砕され、そのまま後方へ数十メートルは吹き飛ばされているはずの一撃。
だが、エルピスの足は、まるで大地に根を張った大樹のように地面を深く捉えて離さない。聖剣が、意志を持つ絶対的な壁となって、ガルドの理不尽なまでの剛力を正面から無効化し、受け流していた。
「ほう。俺の初撃をまともに受けて、膝一つ折らず、一歩も退かぬか! よかろう、ならば次はこれだ!」
感心したような、だがそれ以上に獰猛な獣のような笑みを浮かべ、ガルドの追撃が嵐となってエルピスを包囲した。
右からの横薙ぎ、左からの鋭い切り上げ、脳天を真っ二つに割らんとする苛烈な上段からの振り下ろし。さらには、一瞬の隙を突いて心臓を的確に貫こうとする、蛇のような鋭い突き。エルピスは、ただただ必死だった。
前世で得た漫画やゲームの薄っぺらな知識も、今世で男爵家の見習い騎士として積み上げてきたはずの基礎訓練も、実戦の修羅場を幾度も潜り抜け、血の海を渡ってきたガルドの前では、赤子の手遊びも同然だった。
しかし、エルピスの絶望を置き去りにして、聖剣の「機能」が牙を剥く。
聖剣が、エルピスの筋肉を、神経を、骨格を、主人の意志を無視して勝手に駆動させているのだ。最小限の予備動作で巨剣の軌道を見切り、紙一重の差で刃を受け流し、首をわずかにずらすことで死線を回避する。
空いた隙間には、エルピス自身が意図しないほどの鋭いカウンターが、プログラムされたかのように正確にねじ込まれていく。自分の肉体でありながら、まるでどこかの誰かが操作する高性能な操り人形になったような、生理的な嫌悪感を伴う万能感。
「ちょっと、いつまでも暑苦しく独占してんじゃないわよガルド。勇者様のポテンシャルを測るなら、多角的なアプローチが必要でしょう? 邪魔よ、どきなさい!」
横合いから、冷徹な鈴の音を叩き割るようなリシアの鋭い声が飛んだ。
彼女の細い指先が、空中に幾何学的な魔法陣を、目にも止まらぬ速さで描き出していく。大気中の魔力が一箇所に異常な密度で凝集され、周囲の酸素を急激に燃やしながら、赤黒い熱量へと圧縮されていく。
「——連鎖火球!」
「っ、まっ!?ガルドの剣を防ぐだけで精一杯……っ!」
エルピスの必死の抗議は、着弾と共に発生した凄まじい轟音に無残にも掻き消された。
放たれた三つの火球は、意思を持っているかのように踊るような軌道を描き、ガルドの脇をかすめてエルピスの足元で炸裂する。
ドォォォォンッ!
衝撃波が内臓を直接揺さぶり、立ち込める土煙と共に、肺を焼くような熱気が全身を襲った。
「あづっ! 熱っ! おい、このクソ魔術師! 今のは掠ったらマジで死んでただろ! 訓練の範疇を超えてるぞ!」
「あら、勇者様、知らないの?100年前の記録では魔王軍の軍団長クラスが、これより数倍えげつない広域殲滅魔法を、味方の損害すら無視して四方八方から無差別に撃ち込んで来たらしいわよ?これはそのための、ただの“訓練”。今のうちに洗礼を受けられたことに、涙を流して感謝してほしいくらいね」
爆煙の向こう側で、リシアが冷淡に唇を歪め、退屈そうに髪を弄っている。
彼女は「ただの訓練」といったが、実際はとってこれは冗談でも訓練でもない。彼女は本気で、エルピスに回避能力が欠けているのなら、ここで無残な肉の塊に変わったところで、それもまた一つの「結果」として冷徹に受け入れるつもりなのだ。
「甘いな勇者! 魔法に気を取られている余裕などないぞ! 次は俺だ。足元がお留守だぞ、小僧ッ!」
晴れぬ爆煙を、その巨躯で豪快に突き破り、バッシュが岩石の巨人さながらに躍り出た。
頭上高くに掲げられた、一抱えもある巨大な戦斧。その重厚な刃が、訓練場の明かりを不吉に反射しながら振り下ろされる。
それは盾ごと、あるいは人ごと、大地に叩き潰し、肉片に変えるための破壊の権化。重力と遠心力が、「死」という名の審判をエルピスに下そうとしていた。
(無理だ、あんなバカげた重量物、いくら聖剣でも受け止めきれるわけが——)
その、極限の死地に至った瞬間、エルピスの感覚が決定的に変質した。
ドクン、ドクンと、自身の心臓の鼓動がやけに遅く、大きく感じられ、周囲の世界が、深い水の中に沈み込んだようなスローモーションへと変貌する。
聖剣の柄から、氷のような冷たさと、溶岩のような熱さが混ざり合った何かが脈打ち、全身の毛細血管を駆け巡る。思考速度が極限まで加速し、肉体の繊維一つ一つが、眼前の脅威を排除するために最適化されていく。
エルピスは、まるで最初からそこに安全な道が敷かれていたかのように、迷いのない足運びで斧の着弾地点をコンマミリ単位で見切った。
凄まじい風圧を伴う刃が鼻先を一ミリ掠める瞬間に、滑るような動作で横へと回避。そのままバッシュの無防備な懐へと、吸い込まれるように肉薄する。
聖剣の質量を、その瞬間だけ一時的に「ゼロ」にするような奇妙な錯覚。
手首をわずかに返すだけの最小限の動き。しかし、そこには聖剣に宿る莫大な魔力が乗せられていた。エルピスは、大男の分厚い腹部を、聖剣の腹で“軽く”叩いた。
「ぐっ……ぶふぉっ、は、ハァッ!?」
肺から全空気を無理やり搾り出されたような、無様で悲鳴に近い声を上げ、あの鉄壁のバッシュがわずかに、しかし確実に後退し、膝を屈した。
「そこまで!」
審判役を務めるベテラン騎士の、鋭く、一切の異論を許さない宣告。
それが合図となり、訓練場を満たしていた熱狂と殺意、そして濃密な魔力の気配が、潮が引くように嘘のように消え去っていった。
エルピスはその場に力なく崩れ落ち、震える両手を地面につき、激しく肩を上下させながら呼吸を繰り返した。
全身の毛細血管から滝のような汗が噴き出し、心臓の絶叫が耳の奥で太鼓のようにうるさく鳴り響いている。指先は自身の恐怖を止めることができず、ただ地面の砂を握り締め、自分がいまだに五体満足で生きているという事実を、朦朧とした意識の中で確認することしかできない。
「……はぁ、はぁ、はぁ……っ、お、俺……マジで、死ぬかと……思った、ぞ……」
「……悪くない。いや、及第点以上というところか。流石は選ばれし者だな」
ガルドが愛剣を鮮やかな手つきで鞘に納め、無造作に、だが重々しくエルピスの肩を叩いた。その、たったそれだけの重みが、今のエルピスには鉛の塊のように感じられ、地面へとめり込みそうになる。
「聖剣の力に振り回されている感は否めぬが、受け身の天性、そして何よりその土壇場での回避センスはあるようだ。これから毎日、死に物狂いで俺たちのしごきに食らいついてくれば、一ヶ月後には戦場に出しても恥ずかしくない形になるだろう。期待しているぞ、勇者様」
「死に物狂いって……もう今さっき、死の一歩手前まで片足突っ込んだんですけど……」
弱々しい、今にも消え入りそうなエルピスの返答に、リシアが鼻で笑い、嘲るような視線を投げた。
「まぁ、魔力の感知能力は絶望的。戦士としての立ち回りも素人同然、お話にならないレベルね。でも、致命傷を避ける運だけは一級品みたい。死なないというのも、勇者に必要とされる、数少ない最低限の才能よ」
「……お疲れ、さま、です。……今、癒やしますね。動かないでください」
静かで、波一つない水面のような声と共に、セーラがふわりと歩み寄ってきた。
彼女が白磁のような杖を静かにかざすと、柔らかな真珠色の光がエルピスを優しく包み込む。
焼きつくような筋肉の疲労、内臓を揺らされた衝撃、そしてストレスで張り詰めていた神経の強張りと骨の軋みが、魔法の力で急速に溶けて消え去っていく。その、あまりにも心地よい温かさに、エルピスは一瞬だけ、この地獄のような現実から救われたような錯覚に陥った。
──だが。
エルピスは気づいてしまった。気づきたくもなかった。
自分を取り囲む、セーラ以外の三人の瞳の奥。そこにあるのは、共に死線を越える仲間としての情でもなければ、英雄への親愛でもない。
その目から分かることは、ただ“自分たちの生存を担保するための、最強の保険。敵を確実に屠るための、絶対に壊れない便利な駒であれ”という、無機質で残酷なまでの『機能』への期待だった。
(……逃げたい。今すぐ、この汚れた服も、重いだけの聖剣も、勇者なんて肩書きも全部ゴミ箱に放り投げて、城の壁を這い降りて、どっかの名前も知らない辺境の村で、一生静かに芋でも掘って暮らしたい…)
しかし、握りしめた聖剣の柄から伝わる冷徹な魔力の感触が、それがもはや、絶対に許されないことを無言で突きつけてくる。
一度選ばれてしまった以上、この狂った物語という名のレールからは、死ぬまで降りることはできないのだ。
「さあ、勇者様。いつまで女に甘えて座り込んでいる。昼食の後は、魔王軍の軍構成に関する戦術の座学と、魔術師団との合同連携訓練が控えている。世界を救う英雄に、休んでいる暇など一秒も存在しないぞ」
ガルドの、情け容赦ない「次」への追い打ちに、エルピスはただ、高く、どこまでも無責任に澄み渡った青空を見上げて、自身の絶望を深く噛み締めることしかできなかった。
世界を救う、伝説の勇者。
その華々しく、輝かしい称号の裏側で、一人の転生者は、ただ「明日も無事に目を覚ますこと」が叶うかどうかという原始的な恐怖に、独り静かに震えていた。
運命の巨大な歯車は、彼のちっぽけな心など完全に置き去りにしたまま、狂おしいほどの速さで、破滅か救済か分からぬ終着点へと向かって回転を続けている。




