4話 血の匂い
レナの足元にあるそれから、目が離せなかった。
さきほどまで地面を蹴り、牙を剥き、低く喉を鳴らしていた体が、いまは湿った土の上に重く横たわっているからだ。半開きの口からはまだ血が伝い、黒ずんだそれが落ちるたび、土がじわりと色を変えていく。鉄の匂いが冷えた空気に混ざり、肺の奥にまで入り込んだ。
猫の獣人の少女は、何事もなかったかのようにその傍らへしゃがみ込む。
「……放っておくと、寄ってくる」
よく通る声でそう言うと、少女は腰から短剣を引き抜く。よく研いであるのか、刃先は白く光っている。皮膚がわずかに抵抗を示したのは一瞬だけだった。
次の瞬間、刃は滑らかに沈み込む。
かすかな裂ける音が、やけに生々しく耳に残った。
レナは目を逸らさない。
逸らせば、自分が何も知らないままここに立っているだけの存在になる気がした。
「持って帰る。奪った命は無駄にしない」
淡々と告げる。その声音には誇りも嫌悪もない。そこにあるのは、そうするのが当然だという確信だけだ。
刃が滑り、血が溢れ、内側の熱が外気に触れる。少女の手は正確だった。必要な部位を迷いなく切り分け、不要な部分は土へ戻す準備をする。動きに無駄がない。小柄な体が、森の流れの一部のように機能している。
ここでは、奪うことも、生きることも、切り離されていない。
ふと、裂けた布が視界に入った。肩口から赤が滲んでいる。
「…ねぇ、あなた怪我してる」
声に出すと、少女は一瞬だけ視線を落とす。
「浅い」
短い返事。だが血は止まっていない。
レナは籠を下ろし、布を取り出す。本来は薬草を包むための清潔な布だ。ほんのわずか迷いがよぎるが、すぐに消えた。
「止めないと」
一歩近づくと少女の耳がわずかに伏せた。その仕草は警戒に似ているが、拒絶しているわけではなさそうだ。
村では何度も言われてきた。森の奥へ踏み込むな。獣人と深く関わるな。
けれど今、その教えは指先ほどの重さも持たなかった。
布を当てると、傷の熱がはっきりと伝わる。脈打つ体温。確かに生きている温度だった。ほんの少し前に失われた足元のそれのぬくもりとは違う。
少女は作業を終え、手際よく肉を紐で束ねる。赤く濡れた刃を布で拭い、再び腰に戻す仕草までが滑らかだった。
「…何を探してた?」
少女に問いかけられた。
「お母さんの熱を下げる草を探してるの。銀色の葉脈があって──」
説明しかけた瞬間、少女の耳がぴくりと動いた。
「それ、知ってる。朝、水が溜まる低い場所に生える。でももっと奥」
顎で示された先は、木々が密に重なり、光が沈んでいる方向だった。いま立っている場所とは空気の重さが違う。踏み込めば、戻る理由を失いそうな深さ。
浅い場所では見つからないのだと、その一言で理解する。
少女は背負い紐を締め直す。小さな背中に、狼の肉の重みが加わる。それでも姿勢は崩れない。森の中では、その姿のほうがずっと自然に見えた。
「ついてくる?」
確認する声。
レナは息を整え、うなずく。怖さが消えたわけではない。ただ、この森を歩くなら、この背中を見失ってはいけないと直感した。
風が吹き抜け、血の匂いがゆっくりと拡散していく。枝葉が揺れ、遠くで鳥が鳴く。森はすでに次の循環へ移っている。
奪われたものも、残されたものも、すべてが飲み込まれ、また組み込まれていく。
二人は並び、さらに奥へと足を踏み入れた。
まだ互いの名も知らないままに。




