5話 名前を知った
森は、奥へ進むほど音が減っていった。
さっきまで聞こえていた鳥の声は遠ざかり、風が枝を揺らす音だけが、はっきりと耳に残る。足元の土は水を含んで柔らかく、踏み出すたびにわずかに沈んだ。
腐葉土の匂いが濃くなり、湿った空気が肌に張りつく。枝が幾重にも重なって空を覆い、細い光がところどころから差し込むだけだ。
周囲は薄暗いにも関わらず、前を歩く少女は迷いがなかった。ぬかるみを避けながらどんどん進んでいく。
(は、早い…)
少女は低く伸びた枝を手で押さえ、さりげなく道を作りながら先を歩いていく。レナはその背を見失わないようについていった。
やがて少女が立ち止まる。
「この辺」
レナはしゃがみ込み、地面を見つめる。似たような葉がいくつも重なり、見分けがつかない。思っていたよりも難しい。もっと“それらしい”草だと思っていた。
“葉の裏に、銀色の葉脈がある”
“朝露が残りやすい、低い場所に生える”
店主の声を思い出す。
あのとき、止めるような目をしていた。けれど、最後にはちゃんと教えてくれた情報。
レナはそっと葉を一枚ずつ裏返していくが中々見つからない。違う。これも違う。
焦りが胸の奥でじわりと広がる。
──本当にあるのかな…
もし見つからなかったら?
ここまで来て、何も持ち帰れなかったら?
母にどんな顔をして会えばいい?
そう考えると手が震えそうになる。
「焦ると、踏む」
振り向きもせず、少女が言う。
レナがはっとして足元を見ると、草のすぐ横に足がある。知らないうちに草の群生地を踏み荒らしかけていた。
もし踏みつぶしていたらと考えると胸がひやりとする。
「……ごめん」
思わず小さくつぶやく。
深く息を吸い込む。湿った空気が肺に入り、少しだけ落ち着いた。大丈夫。まだ時間はある。まだ探せる。
もう一度、ゆっくり葉をめくる。
そのとき、指先に、他とは違う感触が触れた。
冷たく、つるりとした感触。
「ん…?」
裏返した葉の中心に、細い銀の線が走っている。わずかな光を受けて、かすかに輝いた。
「……あった」
声が震える。
信じられなくて、もう一度確かめる。隣の株も裏返す。同じ銀の葉脈。
間違いない。
胸の奥に溜まっていた不安が、一気にほどける。力が抜けそうになるのをこらえながら、レナは草を見つめた。
こんなに地味な草なのに。
こんなに目立たないのに。
この草が母の命を救うかもしれない。
レナは丁寧に根元を押さえ、手が震えないように気をつけながら慎重に摘み取る。土を払って籠に入れると、その重みが現実味を帯びる。
──本当に助けられるかもしれない。
希望が形になり、胸の中を張り詰めていた緊張が一気に緩む。
「それで、治る?」
「うん。煎じれば熱が下がるって……教えてもらった」
止めるような目をしながら、それでも必要なことは教えてくれた店主の顔がほんの一瞬よぎった。
少女は微笑み、小さくうなずく。
「よかった」
その一言を聞いたとき、レナの胸が熱くなる。
私の母のことなのに、少女が自分の事のようにほっとした顔をしてくれた。そのことが、なんだかとてもうれしかった。
一人で来ていたら、こんなふうに安心できなかった。
「名前……まだ、聞いてない」
少女の声に、レナは顔を上げる。
「レナ」
自分の名前を口にした瞬間、胸の奥にあった迷いが少しだけ整った。さっきまで“誰かに話しかけられた側”だったのに、名前を告げたことで、自分の足でここに立っていると改めて実感する。逃げるか、残るかを選ぶのは自分だと、ようやくはっきりした。
「……ミア」
隣で小さく名乗る声。
目の前の存在が、村で教えられてきた“獣人族”というひとくくりの呼び名ではなく、“ミア”という名前を持つ一人の少女だと分かる。その瞬間、輪郭がぼやけていた相手が、急に具体的な誰かになる。
ただの種族じゃない。
同じように名前を持って、生きている誰か。
認識の焦点が、そこでようやく定まった。
「さっきの、ありがとう。…助けてくれて」
レナが言うと、ミアは少し視線を逸らした。
「……お返し」
「お返し?」
「前に、ヒューマンの人から干し肉もらった。だから」
理由はそれだけだった。もらったから返す。
たったそれだけの理由で、命を助け、母へのための薬草の場所まで案内してくれたのだ。
干し肉をあげたその人ですらない私に、だ。
レナは小さく笑い、問いかける。
「じゃあ、これで終わり?」
ミアが首をかしげる。
「終わり?」
「お返ししたから」
少しの沈黙のあと、ミアは首を振る。
「……わからない」
はっきりしない答え。でも、それが嫌ではなかった。決まっていないからこそ、続きがあるかもしれないと思える。
レナは籠を抱え直す。
「そろそろ帰らなきゃ」
「送る」
即答だった。最初から送るつもりだったのだろうか。
並んで歩き出す二人の距離は、さっきよりも少しだけ近かった。
森の奥で見つけたのは、銀の葉脈の薬草だけではなかった。
名前を知ったこと。
命の重さを知ったこと。
そして、境界線の向こうにも、ちゃんと息をしている誰かがいるということ。
村で恐れられている獣人族を、言い伝えをただ盲目的に信じるのではなく、自分の目で見て接することの大切さ。
それを胸に抱えたまま、レナは村の方へと歩みだす。
まだ物語は、始まったばかりだった。




