↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
境界観測《リミナル・サイト》-その線の先で、私は死んでいる-  作者: Rasky
第1章 私の初めの物語

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

5/64

4話 知った者と知らざる者

 バタンと激しい衝撃音を立てて木枠が打ちつけられ、外の冷たい夜気が土間へ一気に流れ込んでくる。それに混じって、むせ返るような強い酒の匂いが部屋の中に広がった。鼻の奥がつんとする。安酒特有の甘ったるくて、古い木樽の湿気や腐臭に染みつくような不快な匂いだ。


「……ちっ」


 薄暗い土間から、低い舌打ちが聞こえた。


 父だった。


 足取りはまっすぐじゃない。千鳥足になりながら、靴の裏が土間の湿った土をズルズルと擦り、片足が少し遅れてついてくる。ろれつが回っていないわけではないが、体幹が定まらず、壁にぶつかりそうになって思わず手をついて体勢を立て直す。


 肩が落ちているというより、上半身が前に傾いている。酔いで重心がずれているだけだ。


 泥に汚れた衣服と、荒々しい呼吸。光を反射する目は赤く、焦点が定まりきっていない。それでも完全に潰れてはいない。

 理性が半分だけ残っているせいで、胸の奥に溜め込まれた機嫌の悪さがそのまま表に出て、険しい顔つきになっていた。


 外の冷気で頬が赤くなり、吐き出す息が酒臭い。そんな父は家の中を一瞥し、不機嫌そうに眉間にしわを寄せた。


 家の中を見回していた父の視線が、ふと棚を見て止まる。そこに置いてあったはずの、金の小袋が減っていることに気づいたのだ。


「おい、レナ。俺の酒代はどこへやった。……また薬を買ったのか?」


 怒鳴る前の、かすれた問いだった。


 その小袋は、今朝薬草屋に向かう時にレナが持ち出したものだった。家に置いておけば間違いなく父の酒代に消えると分かっていたし、父に知られれば止められるとわかっていたから、黙って持ち出した。


 酒代に消えるはずだった金だ。

 結局は使わなかったが棚に戻すのもなんだか癪だったでこっそり隠しておいた。またいつかの緊急時に使う時が来ると思ったからだ。


 レナは父の鋭い問いに対して首を振り、「買ってない」とだけ答えた。薬草屋で金を払って買ったわけではないから、別に嘘はついてない。


 その言葉に父の眉が寄る。部屋の中に充満している乾燥薬草とは違う青々とした生薬の匂いに気づいたのか、父は怪しむように鍋へ近づいて煎じられた葉を覗き込む。乾燥薬草とは違う、生の匂い。薬草屋でも見たことがない葉の形。


 その青々とした葉脈を目にした瞬間、父の顔から酔いが少し引いた。


「……どこで手に入れた」


「…森だよ」


 父の顔色が変わる。単なる怒りというより、一瞬で顔面から血の気が引くような変化だった。


「森……だと?まさか、境界線は越えてないだろうな?」


「………。…越えた」


 父はしばらく瞬きもせず、私を見つめていた。

 固まった顔のまま、唇だけが、空気を噛むように震える。


 レナの発言の恐ろしい意味の理解が追いついた瞬間、抑えきれなくなった怒りが噴き出した。


「……っっ!馬鹿かお前は!!」


 凄まじい怒声とともに拳を机にたたきつけ、その衝撃で鍋の湯が揺れる。湯面から波紋が広がり、火の上に数滴の湯がこぼれてジュッと音を立てた。


「なんでそんなことをした! あそこがどういう場所かお前も知ってるだろう!」


「だってお母さんが───」


「分かってる!!」


 遮る声は荒く、見開かれた眼光は鋭い。だが、その恐ろしい瞳の奥にあるのは恐怖だった。

 父は大きく息を吸い、吐き、椅子に崩れるように座る。乱暴な男の姿勢ではなく、疲れ切った男のそれだった。


「……昔な」


 ぽつりと、独り言のようにこぼす。


「この村じゃ、ずっと向こうとは関わらないって決まりだった。森の奥の獣人族とは境界より先に踏み込まない。向こうも来ない。それで何十年も何事もなくやってきた」


 膝の上で固く握り締められたまま語り始めた父の指先は、僅かに震えていた。


「けどな、平和ってのはな、長く続くと『本当に必要なのか』って言い出す奴が出てくる。若い連中は向こうを見たこともないくせに、『ただ怖がってるだけじゃないか』ってな。狩り場も少しずつ減って、森の様子も変わって、境界の見張りだって昔ほど厳しくなくなってた」


 昔から守られてきた掟が形だけになりかけていた、という言い方。


「そんな時に外から来た旅人が言ったんだ。『俺は他の土地で獣人と交易してる村を見た』『話せば分かる』『敵にしてるのは思い込みだ』ってな。あいつは地図も持ってたし、実際に別の土地の話も知ってた。嘘を言ってるようには見えなかった」


 語る父の声は平坦だが、わずかに硬い。


「村の連中はな、最初から飛びついたわけじゃない。何度も話し合った。長老も反対した。だが、『今のままでいいのか』って空気がもう出来上がってたんだ。境界を守る理由より、変える理由の方が大きくなってた」


 自嘲するように、鼻で笑う。


「だから決めた。“一度だけ、話をしてみよう”ってな。掟を破ったんじゃない。試しただけだと思い込んだんだ」


 父は笑うでもなく、泣くでもない声で続ける。


「最初はうまくいってた。互いの長が話し合い、それを何度も繰り返していく度にいつからか物々交換もするようになっていった。だが、ある日、誰かが勘違いをした。あいつが盗んだ、こいつが裏切った、そんな話が広まってな。どっちが先に武器を抜いたかなんて、今じゃ誰も分からん。ただ──血が流れた」


 レナは初めて聞く話に、息を止める。


「俺も、その場にいた…、守れなかった……、隣にいたやつを止められなかった。あっという間だった」


 その言葉で、レナは初めて気づいた。

 父が酒に逃げる理由を。


「それ以来だ。森の奥へは入らない。向こうと深く関わらない。森の浅瀬と奥地の間をお互いの境界線にした。越えなければ、少なくともあの時みたいなことは起きないってな」


 父は顔を上げる。先程の鋭い眼光はもうなく、ただ怯えている目をしていた。


「俺はな、レナ。…強くない。だから線の内側で生きるしかない」


 静かな告白だった。


「バイルに教わったのか」


「…うん」


「あいつは……昔境界線を越えて戻ってきた男だ。俺とは違う。何を見たかは知らないが、あいつは森の奥地を…境界の外を知っている」


 だから詳しい。

 だから止めた。


 それでも、最後にバイルは教えてくれた。


「森はな、壁じゃない。溝だ。簡単に命を落とす」


 少し間を置き、続ける。


「向こうには向こうの掟がある。俺たちの常識は通じない。獣人には獣人の掟がある。俺たちが守ってきた常識も、理屈も、向こうでは意味を持たない。互いに“間違っている”と思ったままぶつかれば、また血が流れる」


 低い声が、静かに部屋へ落ちる。


「だから村は、関わらないと決めたんだ。知らなければ、踏み込まなければ、少なくとも壊れはしないからだ」


 レナは鍋の中を見る。銀の葉脈が、湯の中で揺れている。


 森で見た命。

 森で出会った少女。

 父の過去も言葉も、嘘じゃない。

 ミアが助けてくれた事実も、嘘じゃない。


「……知らなかった」


 その言葉を聞いて、父は力なく笑う。


「知らないほうが、楽なんだよ」


 それは怒鳴り声ではなく、弱音だった。

 その時、母がかすかに咳き込む。父はすぐ立ち上がり、額に手を当てた。その仕草は乱暴ではない。むしろ、壊れ物に触れるように慎重だ。


「……熱、少し下がってるな」


 安堵が滲む。

 酒に溺れ、家族を怒鳴る男。

 けれどそれは、守れなかった過去から目を逸らすための鎧だった。


「境界線を越えたこと、誰にも言うんじゃないぞ」


 レナは何も答えない。


 ただ、はっきりと分かる。


 父は線の内側で生きると決めた。

 それ自体は、罪だとも弱いとも思わない。


 しかし自分は、線の向こうを見てしまった。

 真っ直ぐ生きる少女、ミアと出会ってしまった。

 もう、獣人族のことを前と同じように見ることは出来ない。



 家の中には、かつての惨劇を知り、線を越える恐怖に固執する父親と、境界の向こう側で確かに芽生えた温もりを知るレナが、病床に伏す母の隣に並んで座っていた。


 父が恐れる「過去」と、レナが触れた「現在」。


 相容れない二つの視線が暗がりの中で交錯し、静かな決意が胸の奥で波紋のように広がっていく。

 籠の底に残された薬草は、母の熱を下げつつあった。





 ◇





 深夜、まだ夜明けにも満たない静寂の時間。


 朝の騒々しさと緊迫感が嘘のように、家の中はようやく静まり返っていた。

 布団に横たわっても、今日起きた出来事の数々が頭の中で渦を巻き、どうしても眠りへと落ちることができない。


 思い返してみても、あまりに凄惨で、あまりに目まぐるしい、苛烈な一日だった。


 怒鳴り声に叩き起こされた早朝。怯える暇もなく薬草屋の店主、バイルを訪ね、藁にもすがる思いで必死に薬草の知識を頭に叩き込んだこと。


 立ち入ることを禁じられた深い森を進み、絶対に踏み越えてはならない『境界線』を越えて危険な奥地へと足を踏み入れたこと。黒い牙を剥いた狼に襲われ、本気で死を覚悟した瞬間。


 そして、大人たちから「絶対の敵」だと教え込まれてきた、獣人族の少女──ミアとの衝撃的な出会い。


 本当に、幸運だったと思う。私一人では、求めている薬草を見つける所か、そもそもどんな薬草を煎じて飲ませたらいいのかすら分からなかったのだから。


 ふと、横たわる母へ視線を落とす。


 母の胸の上下は規則正しく、寝息は穏やかそのものだった。先ほどそっと触れた額の不吉な熱は、確かに下がっている。


 部屋の隅にある鍋の底には、役目を終えて静かに沈む銀の葉脈。鼻腔をくすぐる淡い草の匂いだけが、優しく部屋に残っていた。


 それは生々しい森の匂いであり、同時に自分が一線を“越えてしまった証”のようでもあった。


「もう大丈夫だよ」


 誰もいない部屋で、小さな声が零れ落ちる。かつて母が言ってくれた『大丈夫』という言葉を、今、ようやく自分の手で母へと返すことができた。


 ふと部屋の隅を見れば、父が木製の椅子に深く腰掛けたまま眠りについていた。酒の重苦しい匂いはまだ部屋から消え去っていなかったが、その固く閉ざされた顔には昼間の怒りも圧迫感もなく、ただ消し去ることのできない深い疲労だけが刻まれている。


 ──守れなかった。


 父がぽつりと溢したあのかすれた声が、今も耳の奥にへばりついて離れない。


 父は、何かを必死に守ろうとして、守り切れなかった人なのだ。絶望を知ったからこそ、二度とあのような痛みを味わわないために“境界線の向こうとは関わらない”と心に固く鍵をかけた。


 境界線を越えなければ、大切なものは壊れない。そう固く信じて今日まで生きてきたのだ。レナには、その決断を弱いだなんて絶対に思えなかった。


 ──知らないほうが、楽なんだよ。


 投げかけられたその言葉には、自分を責めるような響きは一切含まれていなかった。ただ痛切な諦観と親心が混ざり合っていたからこそ、余計に胸の奥深くへと突き刺さる。


 レナは足音を殺して立ち上がり、ゆっくりと木枠の窓を開けた。


 ひんやりとした冷たい夜気がすっと部屋に流れ込み、遠くから湿り気を含んだ森の匂いが微かに届く。

 昼間に自分を押し潰そうとしていた森の威圧的な気配はなく、深く、深く沉んだ呼吸のような静けさだけがそこにあった。


 ──森は壁じゃない。溝だ。簡単に命を落とす。


 父はそう警鐘を鳴らしていた。


 けれど今日、自分はその巨大な溝の縁に立った。そして落ちなかった。こうして自分の足で、無事に家へと戻ってくることができた。


 はじめは『溝』と言われても何のことかピンと来なかったけれど、今ならはっきりと理解できる。


「もしミアが助けてくれなかったら、私はあの森で命を落としてた。……溝って、そういうことだったんだ」


 鮮明に脳裏に浮かぶのは、美しい白銀の髪と猫の耳を持つ少女が、死の恐怖を切り裂いて現れたあの瞬間だ。レナを守るために迷いなく飛び込み、牙を剥いて凶暴な狼を討ち果たした横顔。


 あれは、大人たちが語り継ぐような『冷酷な敵』の顔などでは絶対になかった。


 大切なものを守るために命を懸けて戦うあの猛々しい姿は、きっと……かつて誰かを守ろうとしていた頃の父と同じだったはずだ。


 村と森。

 人間と獣人。


 結局のところ、違っているのは立っている境界線の「側」だけなのではないか。


 レナは開け放たれた窓辺に華奢な手をかけたまま、静かに深い息を吸い込んだ。胸の奥には今、決して交わらない二つの正しさが等しく並んでいる。

 村の平穏を守ろうとする父の正しさと、森の奥で孤高に生きる少女の正しさ。


 どちらが正解で、どちらが間違いなんて言えない。なぜならどちらも、自分がこの目で直接見て、心で感じ取って信じた真実だからだ。


 だからこそ、思考はどこまでも深く迷子になる。


 父は「自分たちの正しさが通じない世界だ」と言っていたが、レナにはどうしてもそれがしっくり来ない。


 境界線という名のあの線は、本当に自分たちを害意から守るためだけに引かれたものなのだろうか。それとも、互いに対する知らぬ恐怖をただ閉じ込め、目を背けるために引き引かれたものなのだろうか。

 人は、境界線を越えて真に分かり合うことは二度と出来ないのだろうか。


「境界線って……結局、何なんだろう」


 頭では意味を理解しているつもりなのに、溢れ出す疑問の答えを上手く手繰り寄せることができない。


「朝なら、森は静か……、か」


 ぽつりと漏らした言葉に、あの少女の声が鮮やかに蘇る。


 連絡手段があるわけでもなく、固い約束を交わしたわけでもない。けれどその言葉は、二人の関係がこれで終わりではないことを静かに示しているように思えてならなかった。


 あの時、“またね”と言い切れなかった自分の臆病さが少しだけ悔しい。けれど、「また会えるかもしれない」と期待するたび、胸の奥が理由もなく小さく跳ねるのを止められなかった。


 レナは静かに窓を閉めると、母の寝床のそばへと戻り、小さな木製椅子に腰を下ろした。母の寝息はどこまでも穏やかだ。指先でその痩せた手をそっと包み込むと、温かな体温がしっかりと指先へ伝わってきた。


 守れた。


 私自身の手で、大事なお母さんを、ちゃんと守れたんだ。

 その揺るぎない事実が温かい波のように胸を満たすと同時に、境界線の向こう側でぽつんと立ち尽くしていたミアの姿が過る。


 絶対に破ってはいけないと教え込まれてきた掟を破り、自分は境界線を踏み越えてしまった。


 けれど、越えた先で出会ったあの少女は、村で恐怖と共に語られるような怪物などでは決してなかった。


 そして何より、母を救うための選択だったのだ。


 自分の選んだ道に、後悔は微塵もない。


 窓の外では、重い夜の闇がゆっくりと薄まり始めていた。東の地平線がわずかに白み始め、世界が息をひそめて新しい日を迎える刻限が近づいてくる。


 やがて訪れる光と、新しい朝を、ただ静かに待っているレナの瞼の裏には、白銀の髪を揺らして森の境界線で見送ってくれた少女の姿が残っている。


ミア。


今日出会ったばかりの、猫の獣人の少女。


レナはまだ知らない。


自分が狼に襲われるより前、ミアがすでにその狼の存在を追っていたことも。


ミアにもまた、守るべき場所と、従わなければならない掟があったことも。


そして──


あの朝、二人が出会うまでの物語が、境界線の向こう側にもあったことを。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。