38話 勇者の現実
「では、失礼致します」
重厚な装飾が施された扉が、音もなく閉まる。
メイドが残していった微かな香油の匂いと、冷徹な金属が噛み合う“カチリ”という音だけが室内に取り残された。
「…………はぁぁぁぁ……」
肺にある空気をすべて吐き出すような、深い、深いため息が零れた。
エルピスは、贅を尽くしたふかふかの天蓋付きベッドに身を投げ出した。前世の安アパートの煎餅布団とは比較にならない弾力だが、その心地よさがかえって今の彼には毒に感じられる。
「なんで俺なんだよ。マジで、なんで俺なんだよ……」
天井を見上げれば、そこには勇者の武勲を称えるような緻密なフレスコ画が描かれている。
昨日。あの忌々しい勇者選定の儀。
エルピスはただ、男爵家への義理を果たすためだけに、列の末席に並んでいた。光るなよ、絶対に光るなよと心の中で念仏のように唱え、神官の詠唱をやり過ごそうとしていたのだ。
それなのに、あの聖剣は、まるで空気を読まない新入社員のように眩い光を放ち、まっすぐにエルピスを選び抜いた。
(光った瞬間のあの絶望……。脳みそが真っ白になって、胃の底に氷を流し込まれたみたいなあの感覚、一生忘れられねえわ……)
“聖剣に選ばれた光栄”など、これっぽっちも感じていない。
彼にあるのは、前世で培った“厄介事からは全力で逃げろ”という生存本能と、今世で手に入れた“そこそこの実力で平穏に暮らしたい”というささやかな願いだけだ。
「スローライフ……俺の、俺だけの静かな隠居計画が、文字通り光の速さで消し飛んだ……」
身を起こして部屋を見渡す。
無駄に高い天井、金細工の施された調度品、王都を一望できる大きな窓。
この部屋は、国を救う英雄のために用意された『最高級の檻』だ。
ここから逃げ出す?
無理だ。
今のエルピスは、国の希望という名の『重要軍事資源』だ。今ここで一歩でも王城の外へ不審な動きを見せれば、騎士団が全力で追ってくるだろう。
捕まれば“国家反逆罪”か“使命放棄の罪”で公開処刑台が待っているだろう。
(詰んでる。チェックメイトだ。始まった瞬間にゲームオーバーじゃねえか)
乾いた笑いが喉の奥で鳴る。
もしこれが物語なら、ここから仲間を集めて魔王を倒す熱い展開になるのだろう。だが、実際に剣を振るう身になってみろ。
魔物の爪は鋭く、刃は冷たく、そして死ねばそれでおしまいだ。リセットボタンはおろか、セーブポイントすらどこにもない。
「怪我したくないんだよ……痛いのも、血が出るのも、誰かを殺すのも……全部嫌なんだよ」
掌を見る。
騎士見習いとして、マメができるほど振り込んできた手だ。それはあくまで“自分の身を守るため”の努力であって、“世界を救うため”の研鑽ではない。
そのとき、静寂を切り裂くように、戸を叩く鋭い音が響いた。
コンコン、という規則的な音。
「勇者様、よろしいでしょうか」
扉の向こうから聞こえたのは、先ほどのメイドの柔らかい声ではない。鋼のように硬く、感情を削ぎ落とした事務的な男の声。
エルピスは心臓が跳ね上がるのを感じながら、精一杯“勇者らしく”見えるよう姿勢を正した。
「…はい、どうぞ」
扉が開く。現れたのは、磨き上げられた銀の鎧を纏った、筋骨逞しい騎士だった。三十路を過ぎたあたりだろうか、その眼光には実戦を潜り抜けてきた者特有の鋭さがある。
「失礼いたします、勇者様。王より今後の活動に関する伝達に参りました」
(早い。早すぎるだろ。まだ昨日のショックから立ち直ってねえんだぞ)
「……伝達?」
「はっ。本日より、勇者様を実戦戦力として運用するための『即応準備』を開始いたします」
エルピスの思考が一瞬、ホワイトアウトした。
「準備……って、具体的には?」
「戦闘訓練、聖剣との同調実験、対魔物戦の実地演習、並びにパーティー編成のための人選でございます。すでに候補者の選定は完了しており、本日午後には顔合わせを執り行います」
淀みなく吐き出される予定。
そこには、エルピスの意思が介入する余地など微塵も残されていない。
「……ちょっと待ってくれ。国王様は“仲間を集めて”と言ってただろ?自分で仲間を集めながら旅をするんじゃないのか?というか、そもそも昨日選ばれたばかりなんだ。まずは聖剣との相性を調べたり、座学で魔王軍のことを勉強したりとか、順序があるだろ?」
必死に時間稼ぎを試みる。だが、騎士の眉ひとつ動かない。
「魔王軍の進軍は止まりません。勇者様の自覚を待つ猶予も、世界にはございません。故に、国王様は仲間候補をお集めになったのです。……あなたはすでに、一個人の青年ではなく、人類の矛なのです」
淡々とした、しかし拒絶を許さない言葉。
論理ではない。これは強者の、そして国家という巨大なシステムの「命令」だ。
エルピスは悟った。
この国にとって、自分は「心を持った人間」ではなく、「勇者という役職が付いた便利な道具」に過ぎないのだということに。
(あぁ、そうか……。俺がどう思おうが、何を願おうが、関係ないんだ)
昨日、あの剣を握り、王の前で膝をついた瞬間に。エルピスの人生という舵は、自分の手から奪い取られたのだ。
「……分かった」
絞り出すような答え。
それは決意ではなく、抗えない濁流に飲み込まれた者の諦観だった。
「ご理解に感謝いたします。では、一刻後に訓練場へ。聖剣を携え、騎士の正装でお越しください」
騎士は機械的な動作で一礼し、踵を返した。
扉が閉まる音が、先ほどよりも重く響く。
再び一人になった部屋。
エルピスは立ち上がり、机の上に置かれた『聖剣』を手に取った。
鞘に収まっていても分かる、禍々しいほどの神々しさ。これが、自分のスローライフを切り裂き、望まぬ戦場へと引きずり込む元凶。
「……やるしかない、か」
その呟きには、覚悟の欠片もない。
ただ、流されるままに歩み出すしかない男の、小さな溜息が混じっていた。
勇者エルピス。
世界を救う英雄として歴史に刻まれるはずの物語は、主役の深すぎる絶望と共に、最悪の幕を開けた。
最近コメントして下さる方がいて凄く嬉しいです!
いつも読んでくださり、本当にありがとうございます!




