36話 Resurrection
「っ…」
眩しさで目を覚ますと、そこは白く何もない空間だった。
「どこ……ここ………。いや…」
覚えている。 そう、死んだのだ。また。 また何も出来ずに死んだ。死んでしまった。
そしてまたここに戻ってきてしまった。
あの仮面の男の正体は分からない。けれど、私は、いや。
──私たちは“何度もあの男に殺されている”
あの広場だけではない。前回はT字路を曲がった瞬間、目の前に立っていた。 今回はあの白い線が見えたおかげで、奴が来る前にセレスタのところにたどり着けた。たどり着くまでに何度も命をこぼしてしまったが。
「でも、探してたセレスタがまさか魔族だったなんて…」
今でも驚きを隠せない。それに、
「ルナのこと…ヴェルナって…」
そう。セレスタは違う名でルナを呼んだのに、ルナはごく自然にその名に反応していた。思い返せば、最初にルナが己の名を名乗った時、ほんの僅かに間の空いた、言い淀むような引っかかりがあった気がする。
「それに、あと仮面の男、ルナの事を角なしって…」
でも——
「今はそこじゃないよね」
今考えるべきはそこではない。どうしたらあの仮面の男を倒せるかだ。
「今回はセレスタを助けられた。それにミアが魔法を使えるようになった」
間違いなく状況は前に進んでいるはずだった。それなのに、あの男の圧倒的な武力の前には、ミアが覚醒させた氷の魔法すら一切届かなかった。
「私も戦えたら…」
だが、どうやって? 私には魔法の使い方は分からないし覚醒してミアみたいに使えるとも思えない。それはどころか、剣すらまだまともに扱えない。
前回の戦いでルナやミアが命を投げ打って己の肉体で敵の動きを封じたが、あの男はルナごと蹴り飛ばしてその拘束を破ってみせた。仮に私が同じように身を呈して敵を止めたところで、一体何の足しになるというのだろうか。
「手立てがない…」
思考は完全に手詰まりを起こしていた。圧倒的な力の差、速度の差、そして冷徹なまでの戦術的判断力。あの男の前に立つだけで、個人の些末な抵抗など全て計算のうちとして処理されてしまう。
「そもそも、ここでいい案を思いついても戻ったら記憶なくなっちゃうし…」
死に戻りの法則として、この白い空間で思考した記憶は向こうへ持っていけない。覚えているのは言葉にできない感覚や、理由のない本能的な恐怖だけだ。結局のところ、向こうへ戻れば私はまた何も知らない状態で、あの絶対的な死の恐怖と一から向き合うしかないのだ。
湧き上がるやり切れなさとモヤモヤとした焦燥感に胸を掻き乱される中、白い空間の輪郭が次第にぼやけ始め、視界全体が眩い光によってホワイトアウトしていった。
◇
「……ヴェル……ナ……なの……?」
「そうだよ……遅くなってごめんね、セレスタ。もう大丈夫だから……!」
涙を拭い、ルナが急いでセレスタを背負おうと背を向けた瞬間、レナがその肩を強く掴んだ。
「待って、ルナ! セレスタさんは私が背負う!」
「な……何言ってるのレナ! 私が背負わないと——」
「ダメだよ! もし追っ手や敵が来たら、ルナが一番動けなきゃダメでしょ!? 前衛のルナが背負ってちゃまともに戦えない! 私に任せて!」
「……っ!」
ルナは一瞬悔しそうに歯を噛み締めたが、レナの言い分が正論であることを理解し、固く頷いた。
「……頼むよ、レナ。絶対に守って」
「うん、まかせて」
脱出の動作に移ろうとした、まさにその時だった。
カツン。
湿った石床を硬い靴底が踏みしめる音が、通路の奥から響いた。
暗闇から姿を現したのは、顔全体を無機質な仮面で覆い、暗色の着衣を纏った一人の男だった。手に握られているのは、光すら吸い込むような漆黒の長剣。
「ひっ……っ……」
レナの膝が、理由も分からず激しくガクガクと震え出した。記憶にはない。この仮面の男と出会ったことも、戦ったことも、レナの頭の中には一切存在しないはずだった。
「あれだけの手勢を掻い潜りここまで侵入するとは……貴様ら、ただの鼠ではないな」
そう男が口にした瞬間、頭蓋の裏側を直接鉄の針で突き刺されたかのような、強烈な痛みがレナの脳内を駆け抜けた。あまりの激痛に視界が歪み、明暗が反転する。
その直後、視界の景色の中に鮮烈な「白」と「赤」の線が浮かび上がった。
白い線は二本。ひとつは前衛に立つルナの足元から、もうひとつはやや斜め前に身構えるミアの足元から伸びており、水面を縫うようにして仮面の男の足元へと一直線に繋がっている。
そして、それとは対照的な赤の線。その凶悪な色の線は仮面の男の右腕、そして彼が握る漆黒の長剣の尖端から放射状に広がり、通路の空間そのものを切り刻むようにいくつも伸びていた。
(痛い……っ、でも、この線の配置……もしかして白い線はルナとミアが進むべき攻撃の軌道で、赤い線は敵の攻撃が来る場所を示してる……!?)
確証はない。けれど、視界に固定されたその色分けされた線の意味を、レナの脳は理屈を超えて瞬時に解釈していた。白い線に従って動けば攻撃が届き、赤い線が交差する領域に立ち続ければ確実に殺される。そんな気がしてならないのだ。
「そこにある娘は、我々の計画において必要不可欠な検体だ。連れ戻す気でいたようだが……ここで無価値な死体を増やす結果になるだけだな」
男の冷徹な一言とともに、彼の手元から伸びる赤い線が一気に密度を増し、太く鋭く変質した。その先端は真っ直ぐにミアの首元と胸元を指向している。
「ルナ、ミア! 正面から行っちゃダメ! 敵の剣は右から振り抜かれる……左に飛んで!」
突如として放たれたレナの叫びに、先陣を切ろうとしていたミアが一瞬だけ足踏みをした。論理的な根拠など何一つない叫びだったが、極限状態における仲間の声に、ミアの身体は反射的に右ではなく左側へと深く地を蹴っていた。
直後、仮面の男の漆黒の刃が、空気を断ち切る音を立ててミアが本来踏み込むはずだった右側の空間を正確に一閃した。
ガッ、と石壁が深く削れ、火花が散る。
「……なに!?」
ミアの爪は男の体には届かなかったものの、初撃で確実に腕を折られ重傷を負うはずだった最悪の未来は回避された。男の目の奥で、かすかな驚愕の意が揺れる。
「レナ、もしかして、今の指示はまた——」
「説明は後!ルナ、私の指示通りに踏み込んで!男の左脇腹が空いてる!」
レナの視界では、ルナの足元から伸びる白い線が、男の左脇腹の防具の隙間へと鋭く折れ曲がって繋がっていた。ルナは迷わなかった。レナの言葉を疑う余地など今の状況には存在しない。風の魔法を両足に集中させ、水面を激しく爆発させながら、指示通りの場所に滑り込んだ。
「はっあああああ!!」
交差させた双剣が、白い線の終着点である男の左脇腹へ正確に滑り込む。
ガギィンッ!
男は間一髪で左腕の鉄甲を下げて防いだが、体勢を大きく崩された。漆黒の重装甲から不快な金属擦過音が響き、男の足が初めて半歩後ろへと後退する。
「ほう……こちらの動線が見えているかのような指示だな?」
男の低く冷ややかな声。しかし、その立ち振る舞いから余裕が消えたわけではなかった。男が姿勢を戻すと同時に、彼の全身から伸びる赤い線が蜘蛛の巣のように通路全体へと拡散し始めた。
「ミア! しゃがんで! ルナは右へ跳んで!」
レナの怒号に近い叫びが交錯する。
直後、男の手から解き放たれた漆黒の魔素の衝撃波が、二人が数ミリ前まで存在していた空間を粉砕した。壁の石膏が大量に削れ飛び、砕けた石片が弾丸のような速度でレナの頬をかすめる。背中に背負ったセレスタをかばいながら、レナは必死に目を見開いて線を追い続けた。
指示を出せば回避できる。指示を出せば攻撃が掠める。 しかし、レナの頭痛は限界に達しようとしていた。線を「見る」こと、そしてその意味を「解釈して指示に変換する」ことの代償として、脳味噌を直接擦り潰されるような激痛が知覚を蝕んでいく。視界の端が赤く滲み、鼻から生温かい血が垂れ落ちた。
(ダメ……これじゃ追いつかない……! 敵の攻撃を避けるだけで精一杯で、決定打にならない……!)
回避の指示を出すことで二人は命を繋ぎ止めていたが、男の圧倒的な体幹と魔素量による防御を前に、ルナの双剣もミアの爪も浅い傷しかつけられない。
むしろ、線を見て判断つつ指示を出して、そこから二人が反応して動くまでの「僅かなタイムラグ」を、見落とさなかった仮面の男は、恐ろしい速度で攻撃し始めていた。
「なるほど。こうすれば貴様の指示は追いつけない、と。…いや、そもそも」
男の無機質な仮面が、真っ直ぐにレナへと向けられた。
その瞬間、男の全身から伸びる赤い線の束が、ルナやミアを無視して、一直線にレナと背中のセレスタへと収束した。
「しまっ——! レナ、逃げ——」
ルナの悲鳴のような叫び。
「させないっっ!!」
ミアが叫び、男の前に割り込もうと跳躍した。しかし、レナの目にははっきりと見えていた。ミアの足元から伸びる白い線は途中で断ち切られており、逆に男から伸びる巨大な太い赤線が、ミアの胸元を正確に貫く未来を描いていることが。
「ダメ、ミア! 前に出ちゃダ────」
制止の言葉は間に合わなかった。
指示の伝達ラグ。レナが線を認識してから声に出し、相手の耳に届いて運動に変換されるまでのコンマ数秒の遅れ。男はその致命的な隙を完璧に突いた。
ズドッ!!
「がっ……は……!?」
正面から飛び込んだミアの胸部を、男の漆黒の長剣が容赦なく貫通した。背中側から突き抜けた鮮血の刃。ミアの口から大量の血が噴き出し、水面を赤く染め上げる。
「ミアあああッ!!」
「鬱陶しい鼠だ」
男は柄を握る手に魔素を込めると、刺さったミアの身体ごと強引に振り回し、背後から迫っていたルナへ向けて叩きつけた。
「くっ……!?」
肉体同士が激しく激突する鈍い音。ルナは血まみれのミアを受け止めきれず、二人は激しく石床の上を転がった。
「ハぁ……ハぁ……ッ!」
レナの視界から、白い線が消えた。 残されたのは、圧倒的な密度でレナを取り囲む、高彩度の赤い線の群れだけだった。
男が歩みを進める。一歩ごとに、レナの体に突き刺さるような死の予兆が太く、濃くなっていく。頭痛はもはや痛みの域を超え、意識を白く塗り潰す激痛となってレナの思考能力を奪っていった。
「動きが見えていようと、伝達ラグがある限り貴様の能力は無価値だ。……終わりだな」
ルナがミアを抱えながら必死に立ち上がろうとするが、胸骨を砕かれ、足を滑らせて再び倒れ込む。ミアの瞳からは急速に光が失われつつあった。
レナは背中のセレスタを固く抱きしめ、後退ろうとしたが、背後は冷たい石壁だった。行き場はない。
(見えてたのに……! 線が見えてたのに……!!)
男の黒剣が持ち上げられる。視界を覆い尽くす赤線が、レナの首筋の一点へと集中した。
逃げられない。声も出ない。脚も動かない。
「……ごめん……みんな……」
振り下ろされる漆黒の刃。 冷たい鉄の感触が首筋に触れた瞬間、レナの知覚は圧倒的な恐怖と激痛の中へと引き裂かれた。
宙を舞う視界に映った最後の光景は、何かを必死に叫んでいるルナの姿だけだった。




