1話 怒鳴り声の朝
本編はこの1話からになります。
「おい!俺の酒代はどこへやった!?」
壁を震わせるような父の怒鳴り声で、レナは目を覚ました。
まだ夜の名残が残る時間だった。
窓の隙間から差し込む光は弱く、部屋の中はまだ青暗い。
布団の中はかすかに温もりを保っているのに、胸の奥だけがひやりと冷えた。
次に聞こえたのは、なにかが床に叩きつけられる音だった。乾いた破裂音。陶器が割れたのだと、すぐにわかる。
母の声は、しない。
それが、いちばん怖かった。
レナは布団の中で目を閉じたまま、呼吸を浅くする。起きていると気づかれないように。父の機嫌が悪い朝に物音を立てるのはよくないと、体が覚えている。
「薬草? 薬草だと? これを買うだけの余裕がどこにあるんだ!?」
棚にある薬草に気づいたのだろう。
苛立ちを押し殺そうともしない声が、居間から響いてくる。怒りというより、追い詰められたような荒さがあった。
母は三日前から熱を出している。
最初は「ただの風邪よ」と笑っていた。額に手を当てても、まだ余裕のある顔をしていた。けれど二日目の夜には起き上がれなくなり、昨夜は息が荒く、言葉も途切れがちだった。それでもレナの手を握って、「大丈夫」と微笑んだ。
その笑顔が、今は胸に重い。
板張りの床を踏み鳴らす足音が近づいてくる。廊下を渡り、レナのいる部屋の前で止まった。
心臓が跳ねる中、戸が激しく開く。
怖い。起きていると知られたらなんと言われるだろうか。震える体を必死に抑える。
「チッ」
舌打ちの音とともに足音は遠ざかっていく。
「寝てるなら寝てろ! どうせ何もできやしないんだからな!」
吐き捨てるような言葉が、壁越しに届く。
それが母に向けられたものなのか、自分に向けられたものなのか、レナにはわからなかった。ただ、そのどちらであっても胸が痛むことに変わりはない。
布団の中で、拳を握る。
怖い。
父の声も、割れた音も、荒れた空気も、全部怖い。
ただ、このままずっと布団の中に籠っている訳にもいかない。母が心配だからだ。
少しして、戸口の開閉する乱暴な音が響いた。外気が一瞬流れ込み、また閉ざされる。父が出ていったのだろう。家の中に残るのは、割れた陶器の欠片と、言葉の残骸のような静けさだけだった。
レナはゆっくりと布団から起き上がる。足を床につけると、冷えがじわりと伝わってきた。音を立てないように気をつけながら、隣の部屋へ向かう。
母は薄い毛布に包まれ、横になっていた。昨日額に乗せた濡れ布はもう乾ききっている。呼吸は荒いが、眠っているようだった。
「……お母さん」
小さく呼ぶ。
返事はない。
レナは急いで乾ききった布を取替えつつ、そっと母の手に触れ、その熱に息をのむ。昨日よりも、確実に高い。指先まで熱がこもっている。
当然だ。濡れ布さえ交換せずに怒鳴るだけの父がいるのだ。身体的だけではなく精神的にも弱っているのだろう。
これでは治るものですら治るはずがない。
レナは母の手を両手で包み込む。
「待っててね。新しい薬草、買ってくるから。」
声に出したのは、それだけだった。
父に知られれば怒鳴られるだろう。もしかしたら、もっとひどいことになるかもしれない。
──怖い。
確かに、家には薬草を買うほどの余裕すら無い。それくらいはレナにもわかっている。
けれど、このまま何もしなければ母を失うかもしれない。そう思いながらこの家の中で、なにもできずにただ母の熱が上がっていくのを見ているだけのほうが、ずっと怖かった。
そもそもお金が無い原因は、ろくに働きもせずに飲んだくれている父のせいである。
昨日買った薬草だって、私が宿屋の手伝いをして稼いだお金から払った物だった。
レナは台所へ向かい、小さな籠を手に取って布を一枚忍ばせた。床に散らばっている割れた陶器の欠片を片付けて、足音を立てないように戸口へ向かう。
戸を開ける前、振り返る。
眠る母。
静まり返った家。
怒鳴り声の残り香のような空気。
──待っててね。
レナは唇を引き結び、戸を押した。
冷たい朝の空気が頬を打ち、光を落としたようなホワイトブロンドの髪が風で揺れる。東の空が、わずかに白み始めている。
覚悟を決めた少女の小さな一歩が、家の外へ踏み出される。
◇
朝の村は、まだ完全には目を覚ましていなかった。
石畳には夜露が残り、軒先からはゆるやかに煙が立ちのぼっている。いつもならどこか安心できるその景色も、今日のレナには薄い膜の向こう側のように感じられた。胸の奥が落ち着かず、足だけが先へと急いでいる。
薬草屋は村の端にある小さな店だ。干された草束が軒下に吊るされ、扉を開けると独特の青い匂いが鼻をくすぐる。
鈴が鳴る。
「おや、レナか」
五十代くらいの割に、だいぶゴツイ店主が棚の奥から顔を出した。白髪まじりの髪に、深い皺。そして服の上からでもわかる鍛え上げられた圧倒的な筋肉。
若い頃は各地を巡って薬草を集めていたという、村でいちばん薬草に詳しい男だ。
「お母さんの熱が……まだ下がらなくて。それどころか、昨日より酷くなってるの」
「昨日の分は飲ませたか?」
「うん。ちゃんと全部。でも……あんまり効いてないみたいで。今朝は呼びかけてもなかなか目を開けてくれなかったし、水もほとんど飲めなくて……」
「……そうか」
バイルは少し考え込んだあと、
「ただの熱なら、昨日渡した薬草で少しは落ち着くはずだ。それが効かんどころか悪化しているとなると……同じものを飲ませ続けても意味はない」
店主は静かにうなずき、棚からいくつか乾燥した薬草を取り出した。
だが、手に取ったまま「うーん」と唸り、やがてそれを元の場所へ戻す。
「この季節の熱は長引くこともある。だが、あれが効かんとなると、そもそもただの風邪じゃないのかもしれん。もしそうなら……うちにある薬草では力不足かもな」
「じゃあ……どうしたらいいの?」
「……一つだけ、直せるかもしれない薬草に心当たりがある」
少しの沈黙の後に「しかしなぁ……」と言いながら店主は、棚の奥から古びた紙片を取り出した。そこには、見慣れない草の絵が描かれている。葉は細く、その中心を銀色の脈が走っていた。
「昔、境界線を越えた先の森の奥地で見つけた薬草だ。これなら…お母さんの熱を下げられるかもしれん。この銀の葉脈には、それだけの力がある」
森の浅瀬と森の奥地。その境にある目には見えない線。それが境界線。
この村に住む者にとって、そこは決して踏み込んではならない場所だった。
「境界線を超えた森の奥にはみんな入っちゃダメだって…」
「あぁ。森の奥には獣人族がいると言われているからな。しかし、お母さんの病気を治すには森の奥にあるその薬草を飲ませるしかない」
若い頃、店主は実際にそれを採って煎じ、効き目を確かめたことがあるという。乾燥させると効能が落ちるため、採ったその日に使わなければ意味がない。保存ができず、日持ちもしないため、店に並ぶことはなかった。
──そもそも森の奥地にある薬草が店に並ぶはずはない。若い時の店主はだいぶ破天荒だったようだ。
レナは紙片を見つめる。
「森の奥って…。具体的な場所は?ルールは破ることになるけど、お母さんにこれ以上苦しんで欲しくない!私が取りに行って来る!」
「だめだ。危険すぎる。子どもが行く場所じゃない。明日まで待ってくれ。わしがとってくる。」
「…え?いいの?森の奥地なんでしょ?」
「レナのお母さんには昔世話になったからな。それに、森の奥はとは違う。道は消える。目印も変わる。戻れなくなることもある。昔だが一度行ったことのあるわしが行くべきだ」
「そっか…」
母の荒い呼吸が浮かぶ。水を飲む力も弱くなっていた。
──明日じゃ間に合わないかもしれない。
「今からは難しいの?」
「今から入れば、戻りは確実に夜だ。夜の森は別物だ。わしでも無事に帰れる保証はない。だから、明日の夜明けより前に出る。それなら奥地に着く頃にはまだ明け方、薬草を探すのに時間がかかっても夕方には帰って来れる。」
「でも……お母さんが…。はやくしないとお母さんが…」
言葉が小さくなる。
店主は長く息を吐き、棚に手をついたまましばらく黙った。母の様子からしてあまり時間がないことも、この家の事情も、彼は知っている。そして、この少女がただの思いつきで来たのではないことも。
そのレナの宝石のように真紅の瞳を見て思う。
──これは、止めてもきっと行く目だ。
「本来なら、わしが行くべきだ。しかし、レナは明日まで待つ気はないんだろう?」
レナは頷く。
「うーむ、レナ。行くなと念を押して伝えておく。だがそれでも……どうしても行くというなら」
そこで初めて、視線がまっすぐ合う。
「お前さんが生きて帰るために、わしが見分け方を教える。じゃなきゃ、見つかるまで森を出て来なさそうだからな」
森の奥地へ向かわせる許可ではない。
止めきれない現実への、最低限の備えだ。
店主は紙片を見せつつ丁寧に説明を始める。
葉の形。
中央を走る銀の葉脈。
似た草との違い。
触れたときのざらつき。
群生地の特徴。
「…レナ。やはり明日まで──」
「ありがとう。バイルさん。また来る」
レナは重ねるように感謝の言葉を口にした。
店主──バイルは諦めたようにため息をつく。
「はぁ…そうか。いいか、レナ。絶対に焦るな。見つからなければすぐに引き返せ。命のほうが重い。いいな?」
その言葉には迷いがなかった。
「必ず戻ってくる。教えてくれてありがとう。」
レナは何度も復唱する。頭の中で何度も葉の形をなぞる。間違えないように。怖くなっても思い出せるように。
店を出ると、空はすっかり明るくなっていた。
村の外れに立ち、森の入り口を見つめる。遠目にはただの木立だが、その奥は静かに口を開けているようにも見える。
──怖い、でも。行かなくちゃ。
家で横になっている母の姿を思い出す。熱い手の感触。
『大丈夫よ』
そう微笑みながら言った母に、今度は自分が返したい。
「……頼むから、何も起きてくれるなよ」
籠を抱え直し、森へと向かう少女の背中をみながら、バイルはそう呟いた。その右手は、無意識に自分の古傷をさすっていた。
それはかつて、レナの向かおうとしている森で負った傷だった。
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