2話 銀の葉脈
朝の村は、まだ完全には目を覚ましていなかった。
石畳には夜露が残り、軒先からはゆるやかに煙が立ちのぼっている。いつもならどこか安心できるその景色も、今日のレナには薄い膜の向こう側のように感じられた。胸の奥が落ち着かず、足だけが先へと急いでいる。
薬草屋は村の端にある小さな店だ。干された草束が軒下に吊るされ、扉を開けると独特の青い匂いが鼻をくすぐる。
鈴が鳴る。
「おや、レナか」
50代くらいの割に、だいぶゴツイ店主が棚の奥から顔を出した。白髪まじりの髪に、深い皺。そして服の上からでもわかる鍛え上げられた圧倒的な筋肉。
若い頃は各地を巡って薬草を集めていたという、村でいちばん薬草に詳しい男だ。
「お母さんの熱が……まだ下がらなくて」
レナがそう言うと、店主の目がわずかに細くなる。
「昨日の分は飲ませたか?」
「うん。でも、あんまり効いてないみたいで……」
店主は静かにうなずき、棚からいくつか乾燥した薬草を取り出した。
だが、手に取ったまま「うーん」と唸り、やがてそれを元の場所へ戻す。
「この季節の熱は長引くこともある。だが、あれが効かんとなると……うちにある薬草では力不足かもしれん」
少しの沈黙の後に「もしかすると…」と言いながら店主は、棚の奥から古びた紙片を取り出した。そこには、見慣れない草の絵が描かれている。葉は細く、その中心を銀色の脈が走っていた。
「昔、境界線を越えた先の森の奥地で見つけた薬草だ。これなら…お母さんの熱を下げられるかもしれん。この銀の葉脈には、それだけの力がある」
森の浅瀬と森の奥地。その境にある目には見えない線。それが境界線。
この村に住む者にとって、そこは決して踏み込んではならない場所だった。
「森の奥にはみんな入っちゃダメだって…」
「あぁ。森の奥には獣人族がいると言われているからな。しかし、お母さんの病気を治すには森の奥にあるその薬草を飲ませるしかない」
若い頃、店主は実際にそれを採って煎じ、効き目を確かめたことがあるという。だが保存がきかない。乾燥させると効能が落ちるため、採ったその場で使わなければ意味がない。だから店に並ぶことはなかった。
──そもそも森の奥地にある薬草が店に並ぶはずはない。若い時の店主はだいぶ破天荒だったようだ。
レナは紙片を見つめる。
「森の奥って…。具体的な場所は……?」
店主はすぐには答えなかった。
「だめだ。危険すぎる。子どもが行く場所じゃない。明日まで待ってくれ。わしがとってくる。」
「…え?いいの?森の奥地なんでしょ?」
「レナのお母さんには昔世話になったからな。それに、森は畑とは違う。道は消える。目印も変わる。戻れなくなることもある。昔だが一度行ったことのあるわしが行くべきだ」
「そっか…」
母の荒い呼吸が浮かぶ。水を飲む力も弱くなっていた。
──明日じゃ間に合わないかもしれない。
「今からは難しいの?」
「今から入れば、戻りは確実に夜だ。夜の森は別物だ。わしでも無事に帰れる保証はない。だから、明日の夜明けより前に出る。それなら奥地に着く頃にはまだ明け方、薬草を探すのに時間がかかっても夕方には帰って来れる。」
「でも……お母さんが…。はやくしないとお母さんが…」
言葉が小さくなる。
店主は長く息を吐き、棚に手をついたまましばらく黙った。母の様子からしてあまり時間がないことも、この家の事情も、彼は知っている。そして、この少女がただの思いつきで来たのではないことも。
そのレナの宝石のように真紅の瞳を見て思う。
──これは、止めてもきっと行く目だ。
「本来なら、わしが行くべきだ。しかし、レナは明日まで待つ気はないんだろう?」
レナは頷く。
「うーむ、レナ。行くなと念を押して伝えておく。だがそれでも――どうしても行くというなら」
そこで初めて、視線がまっすぐ合う。
「お前さんが生きて帰るために、わしが見分け方を教える。じゃなきゃ、見つかるまで森を出て来なさそうだからな」
森の奥地へ向かわせる許可ではない。
止めきれない現実への、最低限の備えだ。
店主は紙片を見せつつ丁寧に説明を始める。
葉の形。
中央を走る銀の葉脈。
似た草との違い。
触れたときのざらつき。
群生地の特徴。
「…レナ。やはり明日まで──」
「ありがとう。バイルさん。また来る」
レナは重ねるように感謝の言葉を口にした。
店主──バイルは諦めたようにため息をつく。
「はぁ…そうか。いいか、レナ。絶対に焦るな。見つからなければすぐに引き返せ。命のほうが重い。いいな?」
その言葉には迷いがなかった。
「必ず戻ってくる。教えてくれてありがとう。」
レナは何度も復唱する。頭の中で何度も葉の形をなぞる。間違えないように。怖くなっても思い出せるように。
店を出ると、空はすっかり明るくなっていた。
村の外れに立ち、森の入り口を見つめる。遠目にはただの木立だが、その奥は静かに口を開けているようにも見える。
──怖い、でも。行かなくちゃ。
家で横になっている母の姿を思い出す。熱い手の感触。
「大丈夫よ」
そう微笑みながら言った母に、今度は自分が返したい。
レナは籠を抱え直し、森へ続く道へと足を踏み出した




