12話 遅すぎた帰還
「父さんッッ!!!!」
足元に転がる同胞たちの屍を無我夢中で越えながら、ミアは倒れ伏す父のもとへ駆け寄ろうとしていた。
喉の奥を突く血と焦げた家屋の臭い。そして、甘ったるい香水のような匂いが鼻を刺激し、どろりと肺の奥底に重く沈殿する。
歪む視界の先——族長である父が、片目を潰され血の海に膝をついたまま、震える腕を必死に動かしているのが見えた。
とっくに肉体の限界を超え、動くはずのない身体を魂の力だけで強引に動かしているのだと、一目で分かった。全身から血を流しながら、それでも娘と男の間に立ち塞がろうとしている。
その血塗られた手が、必死にこちらへ向けて振られていた。
「……来る……な……逃げ……ろ……ミア……っ」
——里の精鋭が全員惨殺され、たった一人になっても。何時間もの間、男の理不尽な虐殺と暴行に耐え続けてきた理由。
それは、父として、朝から帰ってくるであろう愛する娘にただ一言「逃げろ」と伝えるためだった。惨劇を知らずに帰ってくるであろう娘を、自分の命と引き換えにこの地獄から遠ざけるためだけに。
普通ならとっくに死んでいるはずの致命傷を、彼はただただ狂気的な執着と親心だけで耐え抜いてきたのだ。帰ってこないでくれれば、それが一番だった。けれど——。
「大丈夫……! 絶対に助ける……! 父さんは、私が守るからっ!!」
死にかけている父を目の前にして、逃げるという選択肢などミアの心に存在するはずもなかった。
だが——その二人の間に、狂気に満ちた絶対悪が立ち塞がる。
「あははっ! まだ生き残りがいたんだねぇ! ……あれぇ?」
男は観察するように、駆けてくるミアの表情をジッと凝視し、やがてハッとしたようにわざとらしく顔を輝かせた。
「ねぇ君さぁ、森にいたよね? 昼間、妙な動きをしてた獣人のガキだ」
ミアの足が、氷漬けにされたようにピタリと止まる。その姿をみて、ニヤッと笑いながら饒舌に早口で語り始める。
「境界線を踏み越えてさぁ、人間のガキと一緒に戦ってたでしょ。バッチリ見てたよ? あれ、なかなか面白かったなぁ! 特にさ、僕が人間のガキを狙ったと見せかけて、本当の狙いである君に飛ばしたあの不意撃ちを避けた時は驚いたよ! あれ、なんで分かったの? 初見じゃ絶対に避けれないはずなのにさぁ。いやぁ、にしても雑魚魔獣とはいえ、よく勝てたよねぇ? 僕は君たちが無惨に食い殺されると思ってたんだけど」
「……っ! お前がやったのか……! あの魔獣のせいで……私とレナの帰りが遅れた……! だから、里と村みんなが……!」
「いやぁ、ほんと迷惑だったんだよ? 君たちが殺したあの魔獣はさぁ、この里になだれ込ませてパニックを起こさせる予定だったのに。君たちが余計なことするから計画が台無しになったんだよ。そのせいで、僕が直接ここまで足運んで廃棄処分《皆殺しに》しなきゃいけなくなった。無駄な手間が増えたんだよ。分かる? 僕、今日は別の街で実験の予定だったんだよ?」
そう言いながら、男が一歩、ゆらりとミアへ近づく。
「それにさぁ、帰るのが遅れたのは君たちが弱いからでしょ? 家畜のくせに境界線を越えてさぁ、人間と仲良く協力して……ルール違反じゃない? 挙句の果てには人のせいとかさぁ……。頭おかしいんじゃない?」
「……っあァァァッッ!!」
耐えきれなくなったミアは、鋭い爪を剥き出して地面を強く蹴り上げた。
一瞬で間合いを詰め、男の隙だらけの喉元へと必死の殺意を込めた一撃を突き出す。
だが男は、遊ぶようにほんのわずかに体軸を傾けただけで、その必殺の爪を紙一重でかわした。
そのままミアの細い腕をあざ笑うように掴むと、彼女の勢いを殺すことなく、巨大な丸太でも投げつけるかのように地面へと叩きつけた。
ガンッッ!!
「ぐぁっっ!?」
あまりの衝突速度と威力に、ミアの肉体がスーパーボールのように地面で跳ね返る。
空中に浮いた無防備な身体に対し、男は手加減のない蹴りを横腹へ叩き込んだ。
ドスッッ!!
「がはっっ……!」
「ミアッッ!!」
父の悲鳴が響く中、ミアの身体は幾度も地面を転がり、その先にあった崩れかけた家屋の土壁へと激突した。
激しい衝撃で壁を突き破り、家の中の瓦礫を撒き散らしてようやくその勢いが止まる。
男は軽薄に笑いながら歩み寄ってくる。
「人が優しく話しかけてあげて、説明してあげてるのにさぁ。無視して攻撃してくるなんて、そんなに自分の強さに自信があるのかい? 相手との圧倒的な力量差すら測れないなんて、やっぱり家畜には知性が足りないねぇ」
一瞬で全身の骨が悲鳴を上げるボロボロの身体を、ミアは血を吐きながら必死に起こし、ふらつく足で立ち上がった。
血に濡れた視界の先には、倒れる父の前に立ち、見下ろしている男の背中が映る。
「や……めろ……っ。父さんに……触るな……! お前の……相手は……私だ……! こっちを……こっちを…見ろっ!!」
喉の奥からねっとりとした血の味が溢れ出す。息を吸うたびに、胸の内部が焼きごてを押し当てられたように熱く痛む。
それでもミアは、途切れそうになる意識を必死につなぎ止め、怨嗟の言葉を吐き出した。
男はゆっくりと、楽しそうに振り返る。
その瞳には一切の人間味がなく、ただ理不尽な害意と実験欲だけが冷酷に渦巻いていた。
「へぇ、まだ立っていられるんだ。家畜はやっぱり無駄にしぶといねぇ」
未だまともに歩くこともできないミアへと一歩、二歩と近づき、目の前で立ち止まると、男はしゃがみこんでわざとらしく首を傾げてみせる。
「ねぇ…もしかして君さぁ、森で雑魚魔獣を倒して強くなった気になってた? 自分なら大切な人を守れるって、本気で思ってたの? ……滑稽だよ。ちょっと力を手に入れた気分になって、境界線まで越えて、人間と手を組んで……次は里の英雄気取りかい?」
「違う……! そんなん……じゃ……っ、ぐ!!」
男は前屈みになり、血と泥に塗れたミアの顎を骨が砕けるほどの力で掴むと、無理やり上を向かせた。
「守る? 助ける? ……君みたいな虫ケラにそんな力があると、誰が言ったの?」
男の薄い唇が、惨忍に歪む。
「現実を見てよ。ふふっ、一瞬でボロボロだねぇ。これが君の選択が招いた現実だ」
「やめろ……っ! ミアから……手を……離せ……ッ!」
「だからさぁ、試してみたくなったんだよ。自信満々な君の目の前で、その大好きな父親をぐちゃぐちゃに解体して殺したら、君はどんな顔をするんだろうね? ちょっとした観察実験だよ。ねぇ、君は叫ぶ? 泣き崩れる? それとも狂って壊れる?」
男は愉悦に満ちた目で瞳を細める。
「どんな顔をするのか見てみたいなぁ。君のその、諦めてない生意気な瞳が絶望で真っ黒に染まる瞬間……くくっ、あぁ、ぞくぞくする。……っと、その前にさ」
男は顎から手を離すと、今度は右腕でミアの細い右足を無造作に掴み、宙へ吊り上げた。
そして、ゆっくりと、確実にその右手に力を込め始める。
「やめ……っ! う、あぁっ! やめてっ……!」
逃れようと暴れるが、鉄の万力のような力で掴まれており、指先一つ動かせない。
「やめろ……っ! やめてくれぇっ!!」
父の血吐く叫びは、男の耳には届かない。
締め上げる力がじわじわと強まり、足首の肉と骨を激しく圧迫していく。耐えていた肉体が限界の悲鳴を上げ——
バキリ……ッ! と、世界を切り裂くような不快な砕裂音が響いた。
「あぁぁぁぁぁぁああああああッッッッ!!!!」
あまりの激痛に、ミアの喉から狂ったような絶叫が迸る。
折れたのではない。足首から先の骨が、男の手の中で粉々に押し潰されたのだ。破砕した鋭利な骨の欠片が内側から肉や神経をズタズタに引き裂き、激痛が脳を焼き尽くしていく。
「あぁ〜あ、君がじっとして見ていられるように、サプライズで《《ただ》》足を砕いただけじゃないか。嫌になっちゃうなぁ。家畜とはいえ、少女に悲鳴を上げられると、まるで僕がひどい悪者みたいじゃないか」
男は手を離し、ミアの血で汚れた自分の手をパンパンと払うと、再び倒れ伏す父の方へと歩き出した。
「まぁ、その特等席で指でも咥えて見てなよ。焦らなくても大丈夫。一瞬で殺したら面白くないからさぁ」
目の前に立ち塞がる怪物に対し、父はなおも立ち上がろうと足掻いた。
しかし、両腕はガタガタと震え、膝は砕け、血の溜まり場と化した土の上に伏せたまま立ち上がることができない。
男はそんな父の顔を覗き込むようにしゃがみ込み、くすりと嘲笑した。
「片目を押し潰されても、娘を目の前で半殺しにされても、自分がこれから死ぬと分かっていても……まだ、そういう生意気な目ができるんだねぇ」
父は歯が折れるほど食いしばり、最後の力を振り絞って男の胸ぐらを掴もうと腕を伸ばした。
──が、その手は空を切り、届かない。
男の手が、無造作に父の太い首元を鷲掴みにし、そのまま持ち上げた。
「がはっ……!?」
父の巨体が、地面から宙へ浮き上がる。
首を強力に締め上げられ、気道と血管が完全に塞がれる。必死に丸太のような腕で男の腕を叩くが、男の身体は微動だにしない。
「父さんッッ!!」
ミアの引きちぎれるような叫びが、夜の静寂を切り裂く。
男はその悲鳴を味わうように、わざと時間をかけ、ゆっくりと絞める力を強めていった。
「ねぇ、どんな気分? 自分が何もできず、大好きな娘の目の前で殺されていくのってさぁ?」
父の顔が、どす黒い赤紫色へと変貌していく。
額に太い血管が狂ったように浮き出し、呼吸は途切れ、苦しげに空気を求め口が大きく開く。
それでも——。
父の濁った視線は、目の前の男ではなく、血を流して倒れるミアを一直線に見つめていた。
『──逃げろ。家族の分まで何としても生き延びてくれ』
言葉にならない切痛な祈りが、その潰れかけた瞳に宿っていた。
「チッ……最後まで娘のことかよ。つまんない奴」
次の瞬間、男の固い拳が、父の無防備な腹部へ深くめり込んだ。
グシャッッ!!
「っぁ……!?」
肺から残った空気が一気に吐き出される。
声にすらならない、惨死の呻き。
ドスッ! もう一度。
ガキッ! そして、もう一度。
もう一度、もう一度、殴る、殴る殴る殴る殴る…
内臓が破裂し、骨が砕け散る鈍い音が、静まり返った里に容赦なく響き渡る。
ミアは砕けた足を地面に引きずり、這いずりながら叫んだ。
「やめて……っ! お願いだから……やめてぇっっ!!」
男は振り返り、心底嬉しそうに顔を綻ばせる。
「あははっ! ほら、それだよそれ! いい顔してるなぁ! そうそうそうそう! その絶望に満ちた顔が見たかったんだよ!」
そして再び父へ向き直ると、宙に吊り上げていた巨体を無造作に地面へ叩きつけた。あまりの衝撃に激しい土煙が舞い上がる。
男はピクピクと痙攣する父を見下ろし、「あ! いいこと思いついた」と無邪気に呟くと、笑顔のまま父の右足首を踏み砕いた。
バキグシャッッ!!
「っ、ぐああああああああっっ!!」
「ほーら、大好きな娘とお揃いにしてあげたよぉ?サプラァ〜イズッ!」
「もう……やめて……っ。父さんが……父さんが死んじゃう……っ!」
「う〜ん!そうだねぇ、そろそろ僕も飽きてきたし、終わらせようか。ねぇ、最後に言い残すことはある? 家畜の遺言として聞いてあげるよ」
「だめ……やめ……て……っ!」
血塗られた地面の上で、父とミアの視線が最後に交差する。
「……いき…て……し……あ……わ─────」
グシャッッッッ!!!!!
「はぁい!お〜しまい!」
潰された。
頭部が。
最期の言葉すら、最後まで伝えられずに。
グチョ、ベチャと、肉と骨が破裂した凄惨な音が、夜の空気に虚しく霧散する。
「……父……さん……?」
喉の奥から、乾いた掠れ声が漏れ出た。現実感がない。目の前で起きたあまりにも非現実的な惨劇を、脳が狂うのを防ぐために理解を拒絶していた。
男は靴の爪先にこびりついた脳漿と血を気にするように、不快そうに舌打ちをした。
「あーあ、靴が汚れちゃったじゃん……もう。獣臭くなったらどうすんだよ」
男は倒れる父の物言わぬ死体に靴底を激しく擦りつけ、汚れを拭い取るように何度も踏みつけた。
その仕草はあまりにも雑で、血の通った人間の行うものとは思えなかった。そして、ゆっくりと顔を上げる。
ミアと視線が合ったその瞳は、先ほどまでの歪んだ愉悦すら消え失せ、冷淡で温度のない“無”の色をしていた。
「さぁ、次は君の番だ」
ドクンッ! と心臓が嫌な音を立てて跳ね上がる。
全身の筋肉が硬直して動かない。
男が一歩、こちらへ踏み出す。
ジャリ……と砂を踏む音が、心臓を直接踏みつけられるように大きく響く。
もう一歩。
死の距離が縮まる。
呼吸は浅く途切れ、背筋を氷のように冷たい汗が吹き抜ける。
「ん? さっきまでの威勢はどうしたんだい?」
男の声は穏やかで、だからこそ狂気の異様さが際立っていた。
指先がガタガタと震える。
父が目の前で惨殺された。その仇が目と鼻の先にいるのに、身体に全く力が入らない。殺さなければいけないと魂が叫んでいるのに。今すぐにでも飛びかかって、こいつを殺して、殺して、ぐちゃぐちゃに引き裂いてやりたいのに——
「なん…で私の身体は……指は…身体のどこも……動いてくれ…ないん…だ…」
「何を呆けているんだい? 全くこれだから──」
「——いつまでやってるの?」
男の不気味な声を遮るように、どこか冷ややかな少女の声が夜の闇に響いた。
「もう目的は果たしているでしょう。……ねぇ、いつまでやってるの?」
声の方へ目を向けると、そこには黒の和服に身を包んだ黒髪の少女が佇んでいた。
「さっさと引き上げるわよ」
男はあからさまに眉をひそめ、不満げに口を尖らせた。
「えぇ〜!? ここまで重労働させといて、僕からメインディッシュを奪う気かい!? これからが一番面白いところなのに! ひどい! あんまりにも《《残酷》》じゃないか!」
仮面の少女は周りの壮絶な惨状を見渡し、呆れたように小さく溜息をついた。
「……はぁ。それをお前が言うのか……。まぁ、続けたいなら好きにすれば? 撤退指示に遅れてお前が怒られても、私には一切関係ないし」
男のヘラヘラとした顔が、わずかに引きつり強張った。
「っ!? 僕を脅すのかい!? ……まったく、これだからリ……おっと。外での名前の呼び合いはご法度だったね。危ない危ない。にしても、上の連中は本当に融通が効かないなぁ」
男は心底つまらなさそうにミアを見下ろした。
「まぁ、そういうことだからさぁ。申し訳ないけど、また今度遊ぼうねぇ、ミアちゃん」
満面の笑みを浮かべ、軽々しく手を振る男に対し、仮面の少女は再び溜息をつく。
そして次の瞬間。二人の姿は、闇に溶け込むようにして音もなく掻き消えた。
「……は……?」
意味も分からず、ただ一方的に蹂躙され、踏みにじられただけだった。
絶望的な夜の里に残されたのは、崩れ去った家々と、虐殺された仲間たちと、頭を潰された族長、そして血と泥に塗れたまま一歩も動けないミアだけだった。
惨劇は、あまりにもあっけなく終わりを迎えた。
重い静寂が降り積もる。
耳の奥でキーーンと不快な耳鳴りだけが響く中、ミアはようやくすべてが終わったのだと理解した。
その瞬間、張っていた心の糸がプチリと切れる。
全身の力が完全に抜け落ち、視界が真っ暗な闇へと沈んでいく中、少女の意識は静かに途切れて───




