13話 ゴキブリ
瞼の向こうが、やけに眩しかった。
閉じたままの目に朝の光が差し込み、ミアは小さく眉を寄せる。
「んん……」
まだ眠い。
身体も重いし、頭もぼんやりしている。もう少しだけ眠っていたくて、ミアは目を閉じたまま身体を丸めようとした。
ひどく嫌な夢を見ていた気がする。
どんな夢だったのかは、よく思い出せない。
ただ、誰かが叫んでいた。
自分も、何かを必死に叫んでいたような気がする。
怖くて、苦しくて。
とても、大切な何かを失うような——。
「…………」
まあ、いいか。
夢なんて、起きれば忘れる。
ミアはもう一度眠ろうとして、ふと瞼の向こうの明るさが気になった。
……明るい?
「……ん?」
薄く目を開ける。
青い空が見えた。
朝の光が眩しくて、反射的に目を細める。
「…………朝?」
数秒、ぼんやりと空を眺めて。
「…………」
その意味を理解した瞬間、眠気が吹き飛んだ。
(……やばい)
朝だ。しかも、かなり明るい。
(寝過ぎた……!)
まずい。
朝の巡回がある。
こんな時間まで寝ていたと知ったら、父に何を言われるか分からない。
『遅い』
真っ先に浮かんだのは、腕を組んでこちらを睨む父の顔だった。
『いつまで寝てる。森は待ってくれんぞ』
(絶対怒られる……)
そして、起き上がろうとしてようやく気づく。景色が、いつもと違う。見慣れていたはずの家並みは崩れ、壁は割れ、屋根は落ち、土煙の匂いがまだ残っている。
「…んぁ?」
すぐ近くに父が横たわっているのが見えた。
その瞬間、昨夜の記憶が一気に戻った。
襲撃、父の悲鳴、飛び散る血、必死に「逃げろ」と叫ぶ声、最後の言葉を言い終わる前に潰された頭。夢ではない。
────夢ではなかったのだ。
「っ!! 父さん!」
駆け寄ろうと右足に力を入れた瞬間、
「──っぁぁぁあああ!」
痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い!!!
手が痛い。腕が痛い。肩が痛い。お腹が痛い。太ももが痛い。関節が痛い。筋肉が痛い。頭が痛い。
そして何より、右足が痛い。
骨が粉々に砕けている。細かく割れた破片が、肉に、血管に、神経に、グサりと刺さったままになっている。
立ち上がろうと力を入れたせいで、その破片がさらに深く食い込んだ。内側から鋭いものを何本も押し込まれるような痛みが走り、息が止まる。声が出ない。膝から崩れ落ちる。
「…あっ…あぁ……」
右足は大きく腫れ、血で固まっている。少しでも動かすと骨の破片が中で動き、肉を刺す。動かさなくても痛い。鼓動に合わせて内部がずきずきと軋む。
──立てない。でも父はそこにいる。
このままにしておけないと思った。土の上に倒れたまま、無造作に転がされているみたいな姿で放っておくなんてできなかった。父は最後まで族長として戦った。だからこそ、こんな形のままにしたくなかった。せめて他のみんなのそばに寝かせたい。冷たい地面に伏せたままではなく、空を見上げる形にしてやりたい。
ただそれだけでいい。
「っぐぁ…っぁあ…っぐ…」
ミアは両手を地面につき、腕の力だけで体を引きずって父のそばまで進んだ。砕けた足が地面に触れるたび、骨の破片が肉を刺す。歯を食いしばる。止まりながら、呼吸を整えながら、少しずつ進む。
「あと…少し……」
どうにか父の肩に手をかける。その体はとても冷たく、仰向けにさせようとするが自分の体を支えられない。立てない以上、持ち上げることはできない。
体を低くしたまま父の両肩をつかみ、腕の力だけで少しずつ、何分もかけてどうにか上を向かせ──。
「……」
首から上を直視してしまった。
あまりにも無惨な姿に言葉がでない。
だが、このままここに寝かせている訳にもいかない…が、抱き抱えて運ぶことはこの身体では出来ない。
ズズッ。
───だから引くことにした。
父の腕に手をかけ、後ろへ引く。思っていたよりもずっと重い。力を込めた瞬間、指が土と血で滑り、体がわずかに動いて止まる。歯を食いしばってもう一度引く。ほんの数センチ。
それだけ動かすのに、腕が震え、肩が軋む。足に鈍い振動が走り、砕けた骨が内側から肉を刺すように痛んだ。息が詰まり、視界が白くなる。それでも手を離さない。何度も体勢を変え、滑った手を拭い、また掴み直す。
せめて壁の残っている場所まで。せめて里の中央から、少しでも端へ。土の真ん中に置いたままにはしない。その一心で、震える腕に力を込め続けた。
父を少し移動させたところで、周囲が目に入る。仲間たちが至る所に倒れている。このまま放っておけば、獣に荒らされるかもしれない。食われるかもしれない。誰にも見送られず、ただ崩れた里の中で朽ちていく。
それは嫌だった。それだけは。
何もできなくてもせめて並べたい。
皆の顔が見えるようにしたい。
最後まで族として扱いたい。
ふと、割れたガラスに反射した自分の姿が視界に入った。そこに写るのは、血と土にまみれ、あれだけの攻撃を受けても死なず、骨を砕かれてもまだ動き続け、地面に張りつき腕だけで進んでいる、尊厳も何も無い、ただの死に損ないその姿はまるで、
「……ゴキブリ」
小さくつぶやく。
──ミアは知る由もないが、奇しくも、あの男が父に言い放った言葉とミア自身を見た時の言葉が重なった。
仲間はもういない。自分一人だけが生き残ってしまった。森の秩序を守るものはもう居ない。森の獣共が攻めてきたら終わりだ。
だからこそ、砕けた骨が肉に刺さったままでも、腕が震えても、何度倒れても、どれだけ痛くても、ミアは仲間を少しずつ並べていく。
誰も見ていない。褒める者もいない。
それでも。
最後の一人が何もしなければ、本当に族は消える。
だから這う。
みっともなくてもいい。
痛くてもいい。
砕けたままでもいい。
それでも。
族の最後の一人として、今はただ生き残った者の責任を果たす。
◇
夜の冷え込みで目が覚めた。
寒いのか熱いのか分からない。体はガタガタと震えているのに、右足だけが焼けるように熱い。喉が渇いている。口の中が鉄の味で苦い。頭が重い。少し動こうとしただけで吐き気がこみ上げた。
いつ寝たのかも、どれくらい眠っていたのか分からない。空は白み始めている。既に父と仲間たちは並べたまま、静かに横たわっている。
右足を目を向けると昨日よりも腫れていた。引きずり回していたせいで菌が入ったのだろう。皮膚は張りつめ、赤黒く変色し、触れなくても脈打つたびに内側がずきりと痛む。砕けた骨の破片が、まだ中で刺さっている感覚がある。痺れはあるが、激痛を我慢したら動かせはする。足先の感覚もある。だが重い。熱い。明らかにおかしい。
寒気が背中を走る。なのに額から汗が流れる。
──まずい。
このまま動けなくなれば、本当に終わる。
父が命を削って繋いだ時間も、仲間たちの叫びも、何もかも無かったことになる。
自分が覚えている限り、族はまだ消えていない。
だから、ここで終わるわけにはいかない。
獣に食われて死ぬか、病気で死ぬなんて許されない。
ミアは地面に手をつき、ゆっくりと上体を起こした。視界が揺れる。黒い点がちらつく。深呼吸を何度も繰り返す。父の装備が視界に入った。腰に巻いていた布と、折れた槍の柄。近くには誰かの水筒と崩れた柱の木片も転がっている。
固定しないといけない。
正しい位置に戻せる自信はない。だが、これ以上中で骨が動けば、肉も神経も壊れる。動かないように縛るしかない。
ミアは這って父のそばへ行き、腰から布をほどいた。手が震える。時間をかけて、力が入らない指でどうにか父の腰から布を取る。木片と折れた槍の柄、誰かの水筒も回収した。
右足の傷口を水筒の水で洗い流した後、足に両手をかける。ずれている感触が分かる。骨が中で不自然な角度になっている。少しだけ、ほんの少しだけ引く。
その瞬間、視界が白く弾けた。
叫び声が出たのか、自分でも分からない。耳鳴りがする。吐き気がこみ上げ、胃の中のものを地面に吐いた。涙が勝手に流れる。だが足先はまだ動く。感覚もある。折れたままだが、完全に壊れてはいない。
「あとは…縛るだけ…」
木片を押し当てた瞬間、激痛が走った。喉の奥から声が漏れる。
「……っ、ぐ……」
息を止める。逃げたくなる。やめたいと思う。それでも、ここで止めるわけにはいかない。
布で強く巻く。きつく、動かないように、何重にも。縛るたびに骨片が当たり、鈍い衝撃が内側を走る。歯を食いしばり、どうにか最後まで結び切った。
終わった瞬間、全身の力が抜けた。地面に崩れ落ちる。呼吸が荒い。右足は脈打つように痛むが、さっきよりは動きが抑えられている。
だが熱は下がらない。
寒気が強くなる。指先が震える。頭がぼんやりする。遠くで風の音がしているはずなのに、木々のざわめきもうまく聞き取れない。仲間たちの顔が滲んで見える。
──1日、持ちこたえてみせる。1日休めば少しは熱も…
「…ん?」
違和感。足を固定し終わり、発熱についても覚悟が決まったからか、少し心に余裕ができた。
だからだろうか、森の空気がわずかに変わっていることに気がついた。
いつも感じていた“圧”がない。獣人族が守っていた境界の気配が、完全に消えていた。
◇
同じ頃、森の外れでレナは立ち止まっていた。
二日前の夕方、バイルからミアが里に帰ったと聞いた。「すぐ戻る」と言っていとも。
その時は、両親を失った直後だったから泣いて、叫んで、何も考えられなかった。そんな時にミアが帰ったと聞いてさらに心細くなった。
二日経っても喪失感は当然消えていない。心の整理もなにもついてないけど涙はもう出なかった。心は重く底に沈んでいるままであるが、当日に比べれば少しは落ち着いたのだろう。
ちなみにミアからの伝言の『お前の両親は、消えない』という言葉の意味は二日経った今でも分からない。
だから戻ってきたら聞こうと思っていた。
だが、「すぐ戻る」と言ったミアが二日経ってもまだ戻ってこないのだ。
彼女は律儀だ。以前に干し肉をもらったからという理由だけで、全く関係ない助けてくれた。約束を破るような人ではない。
そんな彼女だから、もしかしたら村までは入ってこずに境界線の前で立ち尽くしているのかもしれない。
それに今朝、また線が見えた。
その数本の線が森の方へと繋がっていのだ。
「森…?またなにか…」
そう思い、とりあえず森の奥地前まできてみたが…
「あれ。ここだよね、なんか…いつもと違うような?」
いつもなら森の奥地に近づけば、どこかで獣が動く気配がある。浅瀬側とは違う雰囲気…言うならば、森の奥地はまるで外から来る者を拒むような、静かに身構えているような、そんな感じがしている。
そう、いつもなら。
今日は違う。
鳥の声が少ない。獣の気配も散らない。張りつめたものがない。ただ緑が深いだけで雰囲気は浅瀬と変わらないような、浅瀬と奥地の境界が曖昧なような…
「……境界線がない?」
対立で境界線は生まれた…と聞いている。
片方が消えれば、対立は成立しない。
となると、獣人族のヒューマン族への対立心が消えた?いや、そんなはずは無い。昔からの対立心が急に消えるなどあるはずがない。
消えるなど…消え……、え?
「………」
最悪な想像をしてしまった。そんなことがあるはずがない。そう思うのに。思いたいのに。
胸の奥が冷える。ミアが帰ってこない理由と、境界線の消失が重なる。
「──っ」
レナは森の奥地のその先へ、迷わず走り始めた。




