11話 家畜
もう少し重い話が続きます。
あと、一部グロテスクな表現があります。
私には、妻と2人の子供がいた。
妻はどこまでも優しい人だった。その声は春の陽だまりのように穏やかで、誰に対しても分け隔てなく温かい手を差し伸べた。
里の者たちは皆、彼女の笑顔を慕っていた。私が言葉足らずで他者と誤解を生みそうになれば、彼女はさりげなく横に寄り添い、不器用な私の意図を丁寧に補い、荒れかけた空気をふんわりと和らげてくれた。
私と他者、人と人の間を繋ぐ目に見えない絆を、彼女はいつもごく自然に紡いでくれていたのだ。
2人目を産んだあと、彼女は亡くなった。
生まれたばかりの娘の産声と引き換えにして。
悲しみに暮れ、涙を流す時間すら私には与えられなかった。族長として、そして父として、ただ遺された幼い子供たちを自分の命に代えても守らなければならなかった。
長男は、優しく、そしていつも太陽のように明るい少年だった。
幼い妹の手を優しく引き、森の外れまで散歩に行くのが彼の大好きな日課だった。まだ小さな背中で妹の先頭を歩きながら、「大丈夫か? 転んでないか?」と何度も振り返っては、優しく目を細めて笑っていた。
自分だってまだ庇護されるべき子どもなのに、「俺がこの家と妹を守るんだ」と胸を張る。
背伸びをして、どこまでも強くあろうとするその幼い背中が、どこか可笑しく、そして愛おしくてたまらなかった。
妻が亡くなって6年後。
ようやく10歳になったばかりだった息子は、突然この世を去った。
まだ幼い妹を庇って。
森で群れの狼が暴れたあの日、あの子は逃げなかった。6歳の妹を背にかばい、自分から狼の前に立った。震えていたはずなのに、一歩も退かず、妹が逃げる時間を作るために自分を盾にしたのだ。
私が駆けつけた時には、もう遅かった。
あと少し早ければと、私は今日に至るまで何千回、何万回と自分を呪い、悔やみ続けてきた。
それでも、冷たくなったあの子の、あの傷だらけの小さな背中を、私は生涯の誇りに思っている。
死の恐怖を前にしても立ちすくまず、妹を守ることを選んだあの勇敢な背中を、私は死ぬまで決して忘れることはない。
娘もまた、明るい子だった。
きっと兄に似たのだろう。
兄の後ろをちょこちょこと追いかけ、転んでは泥だらけになり、それでもすぐに立ち上がって笑っていた。よく走り、よくはしゃぎ、その笑顔は見ているこちらまでつられて笑ってしまうほどで、
──まるで小さな太陽のような子だった。
妻を失った私にとっても、母を失った息子にとっても、あの小さな太陽が放つ光があったからこそ、私たちは絶望の淵から立ち上がり、今日まで前に進むことができたのだと思う。
だが——兄が身代わりとなって命を落としてからというもの、その太陽は静かに、そして痛々しく陰りをみせるようになった。
笑うことが減った。
感情を強く出さなくなった。
涙を流す時でさえ、声が漏れないよう小さな手で口を覆い、必死に押し殺すようになった。
まだ幼い子どもであるはずなのに、まるで大きな罪を背負ったかのように、何かを一人で耐え忍ぶ術を覚えてしまったのだ。
守られる存在であったはずのあの子が、私に心配をかけまいと何も言わずに傷を抱え込む姿を見て、私は父親としてどう接してやるのが正解なのか、全く分からなかった。
抱きしめるべきだったのか。
泣いていいと言うべきだったのか。
結局、不器用な私には何一つとして届く接し方ができなかった。
父としての温かい言葉ではなく、ただ「族長」としての冷たい制約ばかりを言いつけることしかできなかったのだ。
「危険な森の奥へは絶対に行くのではない」
「巡回に出る際は必ず二人以上で行動しろ」
「人との境界線を踏み越えてはならない」
口を開けば、命令と禁忌の言葉ばかりが増えていく。
本当は、もっと違う言葉を……ただ「愛している」と、あの子の無事を願う親の心を伝えたかったのに。
それは、息子の死から8年が経過した今になっても、その壁を打ち破ることはできず、胸の中には不甲斐ない後悔ばかりが重く積み重なっていた。
だが、せめて父親として——死んだ妻と息子に誓って、残された唯一の宝物である娘だけは、何がどうあろうと私の命に代えて守り抜く。
それだけが私の生きる意味だった。
それに、本人には伝えていないが、あの子には獣人族の中でも極めて珍しい力がある。
『神獣化』——獣の血が異常なまでに濃く現れた者だけに宿る、本来の肉体の限界を無残に超越する破滅の変貌能力。
その兆候に私が気づいたのは、レナがまだ3歳になったばかりの頃だった。大人二人がかりでようやく運ぶような巨大な太木を、あの子は何の苦もなく、ただ遊具のように一人で持ち上げて見せたのだ。
私は背筋が凍りつくほどの衝撃を受けた。
明らかに異常だ。どれほど身体能力の高い獣人とはいえ、たった3歳の幼子に発現していい力ではない。
周囲の連中は「おお! なんという馬鹿力だ!」「さすがは族長様の血を引く娘御だ!」と無邪気に持ち上げていたが、私にはとても“ただの力持ち”などという楽観的なものとは思えなかった。
私には、この恐ろしい現象にひとつだけ明確な心当たりがあった。昔、私の祖父が語ってくれたのだ。
「ごく稀に、我ら獣人の中に『神獣』の血を色濃く引き継ぎ、災厄とも祝福ともつかぬ力を発動させる子が生まれる」と。
先祖返りか、神の戯れか……とにかくその力は、扱う者の精神をも焼き尽くすほどの絶大な破壊力を持つという。
私がこの秘密を本人に隠し続けてきたのは、精神と肉体が十分に成熟していない状態でその力を知れば、己の力に呑まれ、自我が崩壊してしまうと危惧したからだ。
だからこそ、せめて15の歳を迎えるまでは決して口にしてはならないと固く心に誓っていた。
焦らせたくなかった。そして何より、そんな異端の力ゆえに恐ろしい戦いや陰謀の渦中へ巻き込みたくはなかったのだ。
………それにしても、今日はやけに森が騒がしい。
風の流れが不自然に滞り、鳥たちが悲鳴のような羽音を立てて一斉に飛び立ち、森の獣たちも恐慌状態に陥っている。
長年、密林と共に生きてきた私の血と皮膚が、鋭い警鐘を鳴らし続けていた。
——圧倒的で、救いようのない“禍々しい気配”が近づいている。
それに、朝の巡回に出た娘がまだ戻らない。
少し遅くなることはあっても、朝の巡回に出て昼過ぎまで帰ってこないことは今まで無かった。
──何かあったのだろうか。
私はすぐさま里の精鋭たちを集集させた。
最悪の事態を想定し、速やかに森へ捜索隊を出す準備を進めさせる。焦りからか、武器を手に取る手が、いつもよりわずかに重い。
そうして、私たちが武装を固め、里の大門へ差し掛かったまさにその時——“それ”は現れた。
視線の先——。
どこか優しげで害のなさそうな整った顔立ちをした一人の男が、カーキ色の髪を煩わしそうに指でかき揚げながら、鼻腔を刺す甘ったるい香水の匂いを漂わせ、何の躊躇もなく悠々と里の敷地内へ踏み込んで来たのだ。
一切の迷いも、警戒すらもない足取り。
まるで、自分の所有する庭園でも散策しているかのような、残忍なまでの傲慢さ。
人間——ヒューマンの男だった。
「ヒューマンだと……!? 貴様、どの面下げて境界線を越えてきた!」
「我ら獣人の領域に勝足を踏み入れるとは……暗黙の協定を破る気か!」
「ここがどこだか分かっているのか! 死にたいのか貴様っ!」
若手の仲間たちが一斉に血の気を立て、刃を抜いて男を取り囲む。
男はゆっくりと視線を巡らせ、億劫そうに足をとめた。ぐるりと血気走る獣人たちを見回すと、不気味に口元を歪めて笑った。
そして、わざとらしく鼻をつまみ、顔の前でひらひらと手を振ってみせる。
「あーあ……うるさいなぁ。家畜共が一卵性に群がってさぁ。これだから獣は嫌なんだよ。それに……うわ、なにこの匂い。臭くて吐き気がするね」
「……は……? 今……家畜と言ったか……?」
『家畜』という言葉は、我々獣人族にとって一番最悪な差別用語だ。
周りの空気が、一瞬で極寒の氷床へと化す。
「貴様ァァァッ! 舐めた口を叩くかアアッ!!」
怒りに我を忘れた一人の若い戦士が、大斧を振りかざして男の首元へと飛びかかった。
だが、男は半笑いのまま、避ける動作すら見せない。
「ま、待て! 斬るなっ!」
私は咄嗟に叫んだ。不可解かつ下劣で下賤な侵入者とはいえ、ここでヒューマンを殺せば、種族間の全面戦争へ発展しかねない。
しかし、既に振り下ろされた刃は止まらなかった。殺気を含んだ鉄の刃が、男の白皙の首筋へ接触する——。
そしてその瞬間、バツンッッ!! と、不気味な肉の弾ける音が響いた。
「がっ……!? あ、あぁぁぁぁぁぁッッ!!?? 腕が……俺の腕がアアアアッッ!?」
カーキ色の髪の青年の叫び声───ではない。
飛びかかった戦士の右腕が、肘のあたりから唐突に、まるで目に見えない巨大なハサミで切断されたかのように吹き飛び、激しい血飛沫が空を舞った。何が起きたのかすら解らない。
「っ!?おい!全員下がれ!」
こいつは普通じゃない。危険だと判断して私は叫んだ…が、遅かった。
男は静かに歩みを進め始めていた。散歩でも楽しむかのような、緩やかな歩幅で。
そして、彼が面倒くさそうに指先をチラと一振るいさせるたび、ビュンッ!という鼓膜を裂く不快な風切り音と共に、仲間たちが次々と「肉の塊」に変えられて倒れていった。
ベキッ! ぐしゃり、という胸悪くなる肉の裂傷音と骨の砕ける惨憺たる音が途切れなく響き渡る。
人間の男がただ指をひと振りしただけで、打たれた獣人の上半身が歪にねじ切れ、地面へ激突して大量の血と内臓を撒き散らす。周囲の土が、一瞬で赤黒い泥流へと変貌していく。
男の華奢な体躯からは到底考えられない、物理の法則をあざ笑うかのような圧倒的な暴力。
いや、「圧倒的」などという言葉すら生ぬるい。次元が違うのだ。
恐ろしいことに、この男は魔力すら練っていない。何かを構える素振りすら見せない。ただ立って、指を振りながら歩いているだけなのだ。それなのに——近づこうとした戦士から順に、見えない死の刃によって肉体をミンチ状に解体されていく。
「ぐはあっっ!?」
「ひ、ひぃぃっ! 来るな、来ないでくれぇぇっ!」
他の仲間が斬りかかる素振りをするその前に、ただの指振りによって体をバラバラに切られながら吹っ飛ばされていく。
「なんなんだ…。こいつは…」
──地獄の始まりだった。
それから、どれだけ時間が経ったのか分からない。既に太陽は沈み、辺りは暗くなっていた。
壊壊された木柵の狭間、砕け散った広場、血の池と化した大門の前——至る所に、かつて誇り高かった同胞たちの無残な遺骸が横たわっている。
鼻を衝く血生臭さが充満し、地面は仲間の生血で重く黒く濡れていた。
死臭の漂う凄惨な静寂の中心で、ただ一人の男だけが、退屈そうに肩のコリをほぐしながら私の方へと歩み寄ってくる。
「はぁ……。指示とはいえさぁ、なんで僕がこんな汚いゴミ拾いみたいなことしなくちゃならないわけ?」
もはや狂気すら感じさせない、心底嫌気がさしたような軽い声。男は心底うざったそうに首を鳴らした。
泥と血にまみれて倒れ伏す私と視線が合うと、男は「ああ、まだ生きてたの」と言わんばかりに、ニヤリと唇を吊り上げた。
「ほんと嫌になるねぇ。家畜風情の分際で、無駄に服が汚れちゃったじゃないか。なぁ」
そう呟くやいなや、男のつま先が私の脇腹へと無造作に叩き込まれた。
ガキッッ!!
鈍い破壊音が響き、あばら骨が数本まとめて砕ける激痛が走る。私の体は土の上を何メートルも転がり、血の溜まり場へと突っ込んだ。
男は溜息をつきながらゆっくりと歩み寄り、転がった私の体をまるで生ごみでも扱うかのように、ドスッ、ドスッと何度も何度も執拗に蹴り上げてくる。
「臭いし、弱いし、そのくせ無駄に生命力だけは《《ゴキブリ》》並みにある。潰しても潰してもさぁ、ウジウジウジウジ動きやがって。お前らさ、今日から獣人族じゃなくて『ゴキブリ族』とかに名前変えたらどうなの? その方がお似合いだよ?」
ガンッ! と、今度は肩口へ容赦ない蹴りが落とされる。関節が異常な方向へ折れ曲がる激痛。
「ぐっ……っ…………!!」
私は必死に叫び声を口の奥で噛み殺した。歯が砕けるほど噛み締め、吐瀉物と血を吐き出しながらも、残された片方の眼孔だけは絶対に男から逸らさなかった。
里を守れなかった。
誇り高き仲間たちは、もう誰も息をしていない。
昼過ぎにたった一人で現れたこの男を、最初はただの身の程知らずな侵入者だと思っていたのだ。
だが違った。
こいつは災害だ。血に飢えた殺戮の悪魔だった。
里の精鋭50人が一斉に囲み、必死の連携で牙を剥いても、奴の足取りひとつ狂わせることすらできなかった。一人、また一人と肉塊に変えられ……最後に生きて地獄を這い回っているのは、族長である私ただ一人になっていた。
「だいたいさぁ、50人がかりでたった一人を囲むなんて、お前ら卑怯だと思わないわけ? あははっ! さてはアレか? 弱小の豚どもは集まらないと何もできない、僕たち弱者なので許してください〜ってか? なぁ、どうなんだよお頭さんよぁ!?」
男は狂ったように甲高い声を上げて嘲笑う。
——何がそんなにおかしい。卑怯だと? お前は現れてからこの惨劇に至るまで、髪の毛一筋ほども傷つかず、一歩も退くことすらなかったではないか……!
「なぁ、おい。無視すんなよ。聞いてんの?」
男は私の前にしゃがみ込むと、覗き込むように顔を近づけてきた。
「お前、一応ここの偉い奴なんだろ?」
男は靴の爪先を私の顎の下にねじ込み、グイと力任せに持ち上げて、無理やり視線を交差させた。
「ぐ……あ……っ……」
「さっさと死ねばいいのにさぁ?無駄に足掻いてしぶとく生きてるから、僕の帰る時間が遅くなるんだよ。どうせお前らの惨めな結末なんて、最初から決まってたんだからさ」
ドスッ! と、再び顔面を打ち抜く蹴りが飛ぶ。
(……まだ……まだ死ぬわけには……いかない……!!)
私は赤黒いゲロを吐きながら、血反吐に塗れた泥を必死に指で引っ掻いた。
「ほら、何か喋れよ。僕一人にベラベラ喋らせてさぁ、長としておもてなしの心ってものがないわけ? 遠くから来てあげた客人なんだからさぁ、なんかないの?」
男は私の胸板を踏みつけると、そのまま滑らせるようにして、靴の裏を私の顔面の上へと移動させた。
「なぁ、さっきからその目は何なんだよ? 虫ケラのくせに、人殺しを見るような汚い目で僕を見てさぁ。まさか、僕が悪いとでも思ってんの? いやいや、僕だって被害者なんだよ? 計画が急に変更になってさ、お前らを皆殺しにしろって命令されたから従ってるだけじゃん。ねぇ……だからさぁ……」
男の顔からヘラヘラとした笑みが消え、底冷えするような殺意が瞳に宿った。
「その生意気な目……いい加減、削り落としていいかなぁ?」
次の瞬間——男は体重を乗せ、私の顔面に乗せた踵を力任せに深々と踏み降ろした。
グチュッッッッ!!!!
「があぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッッッッッ!!!!!!」
深夜の里に、血塗られた悲鳴が狂おしく轟いた。
踵が右の眼球をへしゃぎ潰し、眼腔の奥深くへとめり込んでいく。
ドロリとした最悪の感触と共に、右の視界が真っ赤に弾け飛び、永遠の闇へと塗りつぶされた。
私の叫び声は、やがて肺から溢れ出る血でゴボゴボと虚しく濁り、掠れた虫の息のような呻きへと変わっていく。
「はぁ……ほんとにさぁ……」
男は汚れた靴底を私の髪で無造作に拭うと、心底退屈そうに息を吐き捨てた。
「無駄に叫んでうるさいんだよ。所詮は実験体の家畜の分際でさ」
まさに、その時だった。
崩壊した里の大門の付近から、パキ……と乾いた枝を踏み折る小さな音が響いた。
夜の重苦しい死寂を切り裂いて届いた、誰かがこちらへ向かってがむしゃらに駆け込んでくる、切迫した足音。
その特有の足運び、その気配を——私は痛いほどよく知っていた。
潰された胸の奥で、心臓が狂ったように鐘を打ち鳴らす。
(——ま、まさか……嘘だろ……!?だめだ……! 来るな……! ここへ来てはダメだっ!ミアぁぁぁぁっっ!!)
声にならない絶叫が、血で詰まった喉元で虚しく泡となって弾ける。
右目は完全に押し潰され、漆黒の暗闇しか見えない。残された左目も、溢れ出る自身の血と涙で激しく滲んでいた。それでも私は、死に損ないの身体を痙攣させながら、必死の思いで入口の方角へと顔を向けた。
「父さんッッ!!!!」
静寂に包まれた殺戮の場に、ひときわ高く、透き通った悲鳴が響き渡る。
聞き間違えるはずもない、愛しい娘の声だった。
幼い頃から、私を慕って何度も何度も呼んでくれた、あの子の声。
滲む左目の視界の中で、必死にあの子の姿を探す。
横たわる無数の同胞たちの死骸の向こう、黒煙を上げる倒壊した住居の影から駆け込んできた一筋の影——。
来てしまった。
私が己の命、己の魂を賭けてでも守りたかった、ただ一つの宝物が、最悪の地獄の中心部へと足を踏み入れてしまった。
カーキ色の髪の男が、首をコキリと横に傾け、緩慢な動作で振り返る。
まるで、壊し甲斐のありそうな「新しいおもちゃ」を見つけた子供のような、無邪気で残虐な笑みを浮かべながら。




