10話 守れなかったもの
ここから数話、少し暗い話が続きます。
煙が容赦なく目に染み、生臭い焦げた匂いが容赦なく喉の奥へと絡みついてくる。
崩れ落ちた通りの先、なぎ倒された木柵の向こう側で、また、複数の人影が物言わぬ塊となって横たわっているのが視界に飛び込んできた。
見覚えのある衣服、見慣れた髪の色——。
けれど、誰一人として指先ひとつ動かさない。鳥の羽音すら途絶えたあまりにも濃密な静寂が、耳鳴りのような不快な重低音となってレナの頭蓋を内側から激しく締めつけていく。
「お母さんっ……!! お母さんっっ!!!!」
気づけば、喉が引きちぎれるほどの叫び声を上げながら走っていた。
半壊し、黒煙を吐き出す家並みの隙間を縫うようにして泥を蹴り上げる。足元の瓦礫や砕けたレンガに何度もつまずきそうになり、そのたびに前傾姿勢のまま必死に体勢を立て直すが、足の動きを止めるという選択肢など最初からどこにも存在しなかった。
(まだ……まだ間に合う……! きっと、みんなきっと怪我をして動けないだけだ……! 煙は上がっているけれど、炎はもう消えている……! だったら、私でも助けられる……!!)
狂ったように自分へ言い聞かせながら、血走った視線を前方へと突き上げる。
「あっ……」
視界の先には見慣れた、愛しい我が家がそこにあった。
◇
「あら! レナ、おかえりなさい!」
玄関を開けた途端、家中に広がる香ばしい匂気とともに、奥から弾むような母の声が飛んできた。
「ただいまー!」
レナも負けじと元気よく返し、履いていた靴を脱ぎ捨てるようにして上がり框へ駆け込む。
「もう、靴はちゃんと揃えなさいって何度言ったら分かるの?」
「あっ……忘れてた!」
「毎日忘れてるじゃない」
「今やろうと思ってたもん!」
「はいはい。昨日も全く同じこと言ってました」
台所からひょっこりと顔を覗かせた母は、呆れたように笑っている。
頬には健康的な赤みがあり、柔らかい栗色の髪を後ろで簡単にまとめ、腕まくりをしたまま鍋をかき混ぜていた。湯気の向こうで見せるその笑顔は、いつだって温かい。
「ねぇお母さん、今日のご飯なに? すごくいい匂いする!」
「ふふ、当ててみて?」
「えー……お肉! がっつりしたお肉!」
「残念!違いま〜す」
「じゃあ魚!」
「それも違います」
「えぇー! じゃあ何!?」
「野菜の煮込みです。森で採れたお芋も入ってるわよ」
「えぇぇ……」
「なによ、その露骨に嫌そうな顔は。身体にいいんだから」
「だって野菜ばっかりじゃん……」
「ちゃんとお肉も少し入ってますー」
「少し?」
「ほんの少し」
「いっぱいがいい!」
「そんなワガママ言ってると、全部お父さんに食べられちゃうわよ?」
母の冗談に合わせるように、居間の奥から低く掠れた声が飛んできた。
「勝手に人を食い意地張ったみたいに言うんじゃねぇ」
「あれ、起きてたの?」
「起きてるわ。昼間から寝てられるか」
机の前にあぐらをかいて座っていた父が、億劫そうにこちらを振り返る。
無精髭を生やした厳しい顔立ちのまま、片手には木製の杯。中身が何なのか、レナは聞かなくても知っていた。
「あ!お父さん、またお酒飲んでる!」
「あぁ?」
「まだ外、明るいよ?」
「明るかろうが暗かろうが、酒の味は変わらん」
「ふぅん?それ、絶対にお母さんに怒られるやつだよ」
「余計なこと言うな。お前には関係ねぇだろ」
「聞こえてますけどー?」
母が鍋をかき混ぜる手を止めず、笑顔のまま父へすっと視線だけを向けた。
父の太い眉が、ぴくりとわずかに引きつる。
「……一本だけだ」
「昨日もそう言って二本目開けてたでしょう?」
「昨日は昨日だ。今日は今日だ」
「今日も今日で二本飲むつもりじゃないでしょうね?」
「……知らん」
「あ、お父さん目をそらした! 怒られてやんのー!」
「レナ、お前は黙ってろ」
「はーい」
「絶対分かってねぇ返事だろ、それ」
「分かってますー」
「じゃあまず靴を揃えてこい。話はそれからだ」
「あっ」
すっかり忘れていた。
慌てて玄関へ戻り、バタバタと靴を並べ直すレナを見て、母が楽しそうに声を上げて笑う。
「ほら、お父さんの方がちゃんと覚えてるじゃない」
「……ったく。誰に似たんだか」
「あなたじゃない?」
「俺じゃねぇよ。俺は脱いだ靴くらい揃える」
「酒の瓶は転がしっぱなしにするくせに?」
「ぐっ……それは今関係ねぇだろ」
「えー? お父さんにそっくりだと思うけどなー!」
「お前まで乗っかるな!」
レナは玄関にしゃがみ込み、散らばっていた靴を両手で丁寧に揃える。
「できた! 完璧!」
「よし」
「じゃあご褒美にお肉増やして!」
「なんで靴揃えただけで肉が増えるんだよ。話が繋がってねぇだろ」
「お母さーん! お父さんが意地悪言うー!」
「はいはい。じゃあレナの分だけ、一切れ増やしてあげますね」
「やったー!」
「おい、甘やかすなよ」
「あら。あなたも欲しいの?」
「いらん」
「じゃあ、この分もレナにあげます」
「……いや、待て。それはそれで話が違うだろ」
「なんだ、やっぱり欲しいんじゃん!」
「うるせぇ! 黙って食え!」
父が真っ赤な顔をして怒鳴り散らした、その瞬間——。
静まりかえった食卓の空気に耐えきれなくなった母が、口元を両手で押さえながら「……ぷっ」と小さく吹き出した。
「な、何がおかしいんだよ」
眉をひそめる父を皮切りに、今度はレナが我慢の限界を迎えて「あはははっ!」と甲高い笑い声を爆発させる。
つられるようにして、母も「ふふっ、あはは! だって、ふふっ、あなた、顔が真っ赤なんですもの!」と肩を揺らして笑い転げた。
「おい、笑うな! 二人揃って人をおもちゃにしやがって……!」
気まずそうに杯をあおり、そっぽを向く父。だが、その口元も隠しきれずにわずかに綻んでいる。
狭い家の中に、三人分の温かい笑い声が弾けるように響き渡っていた。
狭くて、少し古びた家だった。
決して裕福でもなかった。
父は口が悪くて無愛想で、酒ばかり飲んでいて、怒ると怖かった。
それでも——。
「レナ、手を洗ってきなさい。もうすぐご飯にするわよ」
「はーい!」
「走るな。転ぶぞ」
「大丈夫だって!」
「そう言って昨日も廊下で転んだだろうが!」
「あれは床が出っ張ってたのが悪いの!」
「床のせいにすんな!」
「ふふっ。ほら二人とも、喧嘩しないでご飯にしますよ」
こんな愛おしい声が、温かい匂いが、この家の中に当たり前のように満ちていた。
───あの頃は。
◇
「あっ……」
そこには、見慣れたはずの我が家。いや——
───かつて「家」だったものが、無惨な姿を晒していた。
いま、レナの目の前にあるそれからは。
母の明るく優しい声も。
父のぶっきらぼうな怒鳴り声も。
美味しそうな夕飯の匂いすらも。
何ひとつとして、返ってはこない。
土壁は外側へと豪快に崩れ落ち、太い柱はバキバキに折れて泥に刺さり、重い屋根は斜めに大きく沈み込んでいる。幼い頃から何度もくぐり抜けた思い出の玄関は、跡形もなく原形を失い、巨大な怪物に無理やりこじ開けられたかのように暗い口を開けていた。
足が一瞬、恐怖にすくんで止まりかける。それでも、立ち止まることなど絶対に許されない。
崩れかけた玄関の破片をくぐり、靴底でガラガラと音を立てる瓦礫を踏み越えて内部へと侵入する。家の中もまた、地獄の様相を呈していた。壁面には巨大な亀裂が走り、天井の板は落ち、慣れ親しんだ家具の数々は踏みつぶされて原形をとどめていない。
そして——母が静かに横たわっていたはずの奥の部屋のあたりだけが、まるで巨大な質量に潰されたかのように無惨に破壊し尽くされていた。
その壊れた部屋の前で、血の海の中で倒れている人影が見えた。
「……ぇ」
父だった。
腹部から、見るに堪えないほどの鮮血が広がり続けている。濃く、暗い赤色が乾いた床板の隙間へと果てしなく染み込み、じわじわと波紋のように広がっていく。あまりにも過剰なその血の量に、レナの頭脳は現実感を喪失し、追いつくことを拒絶していた。
「お父…さん……?お父さんっっ!!」
悲鳴を上げながら床に飛び込み、膝をつく。震えて止まらない両手で肩を抱き起こすと、ズシリと泥のように重い体温がレナの身体にかかってきた。
温かい。まだ、ちゃんと温かい。
(生きてる……! お父さんは、まだ生きている……!!)
そう確信した瞬間、絶望に塗りつぶされていた胸の奥底に、すがすがしいほどの小さな希望の灯火がぽっと灯った。
「しっかりして……! ねぇお父さん……っ!!」
声が激しく震えて、うまく言葉が繋がらない。溢れ出る血でヌルヌルと滑る両手を必死に父の腹部へと押し当て、肉の傷口を力任せに塞ごうと試みるが、血の流れは止まらない。指の隙間からあたたかな温もりがボトボトと溢れ出し、冷酷な現実を容赦なくレナへと突きつけてくる。
「大丈夫だよね……!? すぐ、すぐに手当てするから! バイルさんもいるし、ミアもいる……! 薬草だって、私、森でたくさん——!」
滑舌が狂ったように早口になる。自分の発している声が、まるで水底から聞こえるかのように遠く感じられた。
その時、父の重い血に濡れたまぶたが、ピクリとわずかに動いた。
「ぁ…あぁ……レ、ナ……か……」
かすすけた、蚊の鳴くような呼吸の音。息が、あまりにも浅い。
「あぁっ……! お父さん! うん、私だよ、レナだよ……! 大丈夫、大丈夫だからね! 森の魔獣はね、私たちが倒したの! もう安全なんだよ……! だから大丈夫、もう大丈夫なんだから……だから……っ!!」
父の濁った視線が、レナの顔から離れ、ゆっくりと、恐ろしいほどの重みを持って横へと動いた。
半壊し、瓦礫の山と化した奥の部屋へ。
愛する母が、穏やかに眠っていたはずの、あの場所へ。
「…………すまない」
かすかな、吐息のような一言だった。
「は……? え、なにが……? なに…言ってるの……!? まだ間に合うよ、ねぇ、いや……いやだ!間に合うって、大丈夫だって言ってよ!」
父は、ほんのわずかに、諦絶の混ざった首を横に振った。
「……また……守れ、なかった……」
その“また”という言葉が、鋭い刃となってレナの頭の奥深くを砕いた。
「違うよ……! 違うよお父さんっ! ねぇ、ちゃんと助けるから! お母さんだって、きっと無事で——」
必死に叫びながらも、レナの視線は吸い寄せられるようにして部屋の奥へと向いてしまう。
へし折れた太い梁。砕け散った窓枠の木片。あまりにも、あまりにも静かすぎる無音の空間。そこにあるべき命の息吹や気配が、何ひとつとして感じられない。
父の血で染まった手が、縋るようにレナの手首を弱々しく掴んだ。
弱い——驚くほどに、頼りなく虚しい力だった。それでも、その指先は残された全生命力を振り絞るように、必死に何かを伝えようとガタガタと震えている。
「ずっと…すまな…かった…。何も…してやれなかった…。お前は……生き…ろ……。レナ……。愛して……いる……」
掠れきった声だったのに、その言葉だけは不気味なほどはっきりと、レナの魂の鼓膜へ直接届いた。
生きろ。
愛している。
胸の奥深くへと叩き落とされたその言葉は、痛いほど熱く、絶望的に重く、レナの息の根を完全に止めかねないほどの質量を持っていた。
「やだ……やだやだ……っ!!」
拒絶の悲鳴は喉に引っかかり、声にならない空気の漏れにしかならない。
次の瞬間——レナの手首を掴んでいた指先から、ふっと全ての力が抜け落ちた。
縋りつくように残されていたぬくもりが、摩擦を失ってするりと離れ、冷たい床板の上へと落ちていった。
「あ……?」
何が起きたのか、頭脳の理解が完全に停止する。
「お父……さん……?」
すがるように呼びかけながら、だらりと倒れた肩をそっと揺らす。返音はない。
もう一度、今度は自分の指が白くなるほど強く揺さぶってみる。それでも、父の身体はただ人形のように揺れるだけで、何の反応も返してはくれない。
「ねぇ……ちょっと待ってよ……嘘…でしょ……? 冗談だよね……?」
自分でも驚くほど、幼く、情けない声が口から漏れ出た。
つい数刻前まで森の入口で立っていた。
怒っていた。
レナを心から心配していた。
境界線を越えようとする自分を必死に止めようとしてくれていた。
あの大きくて、固くて、温かい背中は——いま目の前で、まだ確かに温もりを残しているというのに。
「起きてよ……お願いだから起きてよお父さん……っ!!」
声がどんどん小さくなり、かすれていく。揺らし続ける自分の手からも、だんだんと力が失われていく。
「……ねぇ……っ」
返事は、永遠に返ってこない。
その時——血に濡れた視界の片隅に、一本の細い“白の線”が揺らめくのが映った。
ハッとして弾かれたように瞬きを繰り返す。けれど、その線は消えなかった。
事切れた父の胸元から、床板へと滴り落ちるようにして伸びる一本の線。弱く、細々と伸びているそれは、吸い込まれるように部屋の奥深くへと続いていた。
——愛する母が横たわっていたはずの、あの部屋へと。
呼吸が、完全に止まる。
さっき村の門をくぐり抜けた瞬間に見えた、あの禍々しく狂った線の群れときっと同じものだ。ただ、今度はもっと鮮明に、残酷な明確さを持ってそこに存在していた。
まるで「いけ」と、この惨劇の結末を直視しろと冷酷に命じるかのように、淡く脈打ちながらレナの視線を奥へ奥へと誘導していく。
視線が、半壊した部屋の暗がりから引き剥がせなくなる。
気づけば、膝の震えも忘れて、足が勝手に前へと動いていた。父の冷めゆく手をそっと床へと下ろし、ふらつく身体のまま一歩を踏み出す。
その瞬間——ふっと世界が揺れ、白い線は音もなく解けるようにして綺麗に消失した。
異能の導きは冷酷に断ち切られ、残されたのは——隠しようもない、惨烈な「現実」だけだった。
それでも、レナの足は止まらない。砕けた瓦礫を踏み越え、折れた柱を跨ぎ、剥がれ落ちた床板の上を這うようにして進んでいく。
そして——。
そこに、母がいた。
落ちてきた巨大な梁の影、横たわったまま、あまりにも、あまりにも静かにそこにいた。
まるで、ただ心地よい眠りにつかれているかのように。
「あぁ……」
ちがう。
これは、ちがう。
そう認識した瞬間、胸の奥底が瞬時に凍りついた。
「……起きて……」
膝から崩れ落ちるようにその場へしゃがみ込み、震える手をそっと伸ばす。
指先が触れた母の頬は、既に氷のように冷たかった。
でも、まだ奥底には微かな温もりが残っている。
───気がした。そう信じたかった。
そう思わなければ、今すぐに心が砕けてしまいそうだったから。
「だって……だって……っ!」
昨日、あんなに命を懸けて森に入って、薬草を持ち帰ったじゃないか。
ちゃんとすり潰して、煎じて、飲ませたじゃないか。
今朝にはあんなに高かった熱も下がっていて、額に触れた時には汗だって綺麗に引いていたのに……っ!
“もう大丈夫だよ”って、私、ちゃんと言えたのに……!
「起きてよ……お母さんっ……!!」
肩を揺らす。
「ねぇ…」
何度も、何度も揺らす。
「ねぇって……」
何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も……っ!!
「起きてよぉっ!!!!!」
どれほど必死に揺さぶっても、母の身体は冷たく動かない。
胸が上下する呼吸の音が、どこからも聞こえてこない。
「違う……っ! 違う違う違う違うっっ!!」
嫌だ。こんなもの理解したくない。絶対に理解してたまるか。
もしこれを「死」だと理解してしまったら、私の世界は、私の人生は、ここで全部終わってしまう——!
『……また、守れなかった……』
耳の奥で、父の最後のかすれ声がリフレインする。
「お母さん……っ!!」
喉が固く詰まり、酸素が吸えない。
「あぁ……あっ……っ……!」
頭の中が真っ白に漂白されていく。思考が、感情が、ぐちゃぐちゃに破壊されて絡まり合う。
なんで。
どうして。
薬草はちゃんと飲ませたのに。
森の怪獣だって、命がけで倒したのに。
守れたはずだったのに。
全部、全部間に合ったはずだったのに——!
────でも、何一つとして、間に合っていなかったのだ。
「ぁぁぁぁあああああああああぁぁぁぁッッ!!!!!!」
喉が裂けるほどの叫び声が、壊れた我が家の惨状の中に虚しく反響した。
もはや言葉にならない。
両膝が完全に崩れ、額を血と土に塗れた床板へと擦りつける。視界が急速に歪んで滲んでいく。これが溢れ出る涙なのか、家を包む煙のせいなのかすら判別がつかない。息が吸えない。胸が、心臓が引き裂かれそうに痛い。苦しい。苦しくてたまらない。
守れなかった。
自分の命よりも何よりも、一番守りたかった、大切なお母さんを。
守れたのだと誇っていた。これでまた、あの温かい日常に戻れるのだと信じて疑わなかった。
でも私は、何一つ守れてなどいなかったのだ。
破れかけた窓の外では、静かに冷たい風が吹いている。
焦げた匂いを多量に含んだ黒煙がゆっくりと空へ流れ、壊れた木柵を通り抜け、何事もなかったかのような顔をして青空へと溶けていく。
空は、昨日と変わらず残酷なほど澄み切った青色を描き出し、世界はあまりにも、あまりにも静かだった。
その絶望的な静寂の中で、ただレナの喉から絞り出される慟哭だけが、崩壊した家の中に哀しく、小さく響き続けていた。
◇
どれくらい時間が経ったのだろうか。五分?十分?……分からない。思考ができない。
私は崩れた家の中で母のそばに膝をついたまま、動けずにいた。さっきまであれほど叫んでいたはずなのに、もう声が出ない。
喉は焼けるようにひりつき、息を吸うたびに胸の奥がひきつる。泣いているのかどうかも分からない。ただ、身体のどこかが震えているのだけは分かった。
母の手は、まだ温もりが残っている気がして、私はそれを両手で包み込んだ。指先に力を込めれば、いつものように握り返してくれるかもしれない。
朝になれば「何を泣いているの」と困った顔で笑ってくれるかもしれない。そんな考えが、馬鹿みたいに頭の中を巡る。
でも、どれだけ待っても、その氷のように冷たい手は動かなかった。
少し離れた場所に父が倒れているのが視界の端に見える。廊下の壁にもたれ掛かるように倒れたまま、微動だにしない。立ち上がって駆け寄ればいいのに、膝が床に縫い止められたみたいに動かなかった。
──分かっている。二人とも、もう動かない。
でも、その事実は言葉にならないまま、ゆっくりと、冷たい水のように身体の奥へ染み込んでいく。否定もできず、受け止めることもできず、ただ沈んでいく。
やがて、瓦礫を踏む足音が近づいた。乾いた音が、やけに大きく響く。
「……レナ」
低く抑えた声。振り返らなくても分かる。バイルだ。いつものぶっきらぼうな響きはなく、壊れ物に触れるみたいな声だった。
それでも私は振り向けない。振り向けば、この光景に名前が与えられてしまう気がした。慰めの言葉が落ちてきた瞬間、終わりが確定してしまう気がして、怖かった。だから私は冷たいままの母の手を握ったまま、ただ俯き、息を殺すようにしてそこにいた。
続いてミアも中へ入ってくる。ミアの水色の瞳が、まず父を捉え、次に母へと移り、その目がほんのわずかに細まる。感情を押し殺すような静かな動きだった。短い沈黙のあと、彼女は小さく息を吐いた。
「……そうか」
たった一言。その重さに、私の肩がびくりと震えた。
それは判決みたいだった。
終わりを告げる音みたいだった。
「……間に合ったはずだったの」
気づけば、言葉がこぼれていた。誰に向けたのかも分からない。ただ、黙っていると胸の奥が潰れてしまいそうで、何かを吐き出さずにはいられなかった。
「魔獣は倒した。ちゃんと倒した。だから……間に合ったはずなの。はずだったのに」
声が震える。理屈が通っていないことくらい分かっている。森の奥で戦っている間にここが襲われたことも、《《時間が巻き戻らないことも》》…分かっている。
それでも。
“倒した”という事実が、無意味になるのが怖かった。
私達の選択が、遅れが、何かを間違えたせいでこうなったのだと、誰かに言われるのが怖かった。
「俺たちが森に注意を引きつけすぎたせいかもしれない。浅層が手薄になった」
バイルの低い声が、現実を組み立てていく。原因と結果。可能性と責任。崩れた家の中に、冷たい理屈が置かれていく。
けれどそれを、ミアがはっきりと遮った。
「違う。戻った時、残り香が多すぎた。一体ではない。匂いの濃さと位置からして、動きは統率されていた可能性が高い」
統率。
その言葉に、バイルが息を呑む気配がした。
「統率、だと……」
会話が続く。状況が整理されていく。
複数。統率。意図。計画。
言葉が、上を通り過ぎていく。
でも、私の中には入ってこない。
分析よりも、推測よりも、原因よりも。
母の手の冷たさのほうが、ずっと重い。
父の動かない背中のほうが、ずっと現実だった。
喉の奥がひきつれて、言葉が途切れる。生きろ、と言われたときの父の声が耳にこびりついて離れない。
背後で衣擦れの音がして、ミアがそっと斜め後ろに座る気配がした。すぐ隣ではなく、少しだけ距離を空けて。その慎重さが逆に優しかった。やがて、肩にそっと手を置かれて、
「今は何も考えなくていい。泣けるなら、泣け」
抑え込んでいたものが、その一言で崩れた。
私は母の手を握る。冷たい。さっきまで、まだ温もりがあると信じ込もうとしていた。でももう、誤魔化せない。指先に伝わるのは、確かな冷たさだった。
「やだ……やだよ……」
声が自分の喉からこぼれる。みっともないと思う余裕すらない。涙があふれて、視界が歪み、呼吸がうまくできない。止められない。止めようとしても、胸の奥から次々と湧き上がってくる。
どれくらい泣いたのか分からない。
やがて呼吸が少しだけ落ち着き、涙も細くなったころ、私はかすれた声で問う。
「……何が起きたの」
自分でも驚くほど、平坦な声だった。知りたいわけじゃない。ただ、何かを聞いていないと、沈黙に押し潰されそうだった。
「分からない。ただ、この魔獣騒ぎは自然じゃない」
ミアの声は静かだが、硬い。森で見た異様な光景が一瞬よぎる。が、思考することができない。いや、したくなかった。考え始めれば、母の顔が、父の背中が、遠ざかってしまいそうで怖かったから。
「……もう少し、ここにいていい?」
子どもみたいな願いだった。ここにいれば、まだ何かが続いているような、終わっていないような、そんな錯覚に縋っていられるから。
「ああ、もちろんだ」
短い返事。余計な慰めはない。それが、ありがたかった。
「私たちは外を見てくる」
二人の足音が、瓦礫を踏みしめながら遠ざかっていく。気を遣ってくれたのだと分かる。今の私に必要なのは説明でも結論でもなく、ただこの時間なのだと、分かってくれている。
やがて、家の中は静まり返った。
崩れた柱の隙間から差し込む光が、埃を照らしている。小さな粒がゆっくりと落ちていく。その遅さだけが、やけに鮮明だった。
──生きろ。
ふと、父の最期の言葉が頭に浮かんだ。でも、今の自分がどう受け止めればいいのか分からず、その言葉だけがここに残されたみたいだった。
けど、どうやって。
何のために。
守られる側だった私が、急に一人で立てと言われても、足の動かし方すら分からない。胸の奥は空洞みたいで、何を入れても響かない気がする。
時間だけが過ぎていく。
私は立ち上がれないまま、ただそこに座り続けた。母の手を握り、父の背中を視界に入れたまま、終わったはずの家の中で、終わりを受け入れきれずに。
涙の乾いた頬に、冷たい空気がそっと触れる。
それでも私は、まだ動けなかった。
◇
気づけば、空は暗くなり始めていた。
どれくらい時間が経ったのか分からない。泣き疲れ、私はようやく母の手を離した。父の亡骸と母の亡骸は家の外へ運ばれている。誰がどう動いたのか、はっきりとは覚えていない。
ただ、ミアとバイルが指示を出し、生き残った村人たちが運び出してくれた。
不幸中の幸い、と言うべきだろうか。数人はどうにか生き残っていたらしい。だが、素直に喜べるほど、今の私に余裕はない。
両親が運び出されて少し経ってからフラフラと外に出てみると、壊れた家々のあいだで生き残った村人たちが動いていた。泣き崩れている者も、呆然と立ち尽くす者もいる。
焚き火が灯り、白い煙が夜へ静かに昇っていく。その匂いに混じって、血と焦げた木の匂いがまだ消えない。
森からは三体、いや四体はいたという証言。
統率された動き。柵を破り、散開して襲撃した形跡。
誰かの声が、遠くで続ける。
魔獣たちは破壊の限りを尽くし、三割は家ごと、二割は戦って、四割は逃げようとして殺された、と。
そうして九割を殺したあと、森へ戻っていったらしい。
まるで、何かに命じられたかのように。
……九割。
数字だけが、頭の中で浮く。
でも実感はない。だって、その“九割”の中に、私の両親がいる。
「バイル…ミアはどこ?」
「里が心配だと言って、夕方に帰ったよ」
「帰った……」
一瞬、止めなかったのかと思う。けれどすぐに、その考えを打ち消す。止められるはずがない。ミアにも守るべき場所がある。
「すぐ戻ると言ってた」
「………そっか。分かった」
「それと、ミアが『お前の両親は、消えない。だから生きろ』と伝えてくれと」
「消えないって…」
消えない?
認めたくないけれど、二人はもう動かない。呼吸もしない。名前を呼んでも返事はない。命は、消えたはずだ。
消えてしまったじゃないか。
そう言い返しそうになったとき、包帯を巻いた青年が近づいてきた。腕を吊り、顔には煤がついている。
「レナ……お前、大丈夫か」
「……大丈夫」
ぽつりと出たその言葉は、空っぽだった。
嘘だと、自分でも分かっている。
でも、この青年も、隣で泣いている子どもも、遠くで黙って空を見上げている老人も、皆何かを失っている。私だけじゃない。
だから“大丈夫じゃない”とは言えなかった。
“私のほうが辛い”とも言えなかった。
青年はそれ以上何も言わず、そっと隣に座る。ただ同じ火を見つめる。それだけで、少しだけ呼吸が楽になる。
「森で何があった?」
年配の男の問いに、バイルが答える。
「森の奥…境界線を越えた少し先で一体仕留めた。だが、あれだけじゃなかったらしい」
「そうか。…森が荒れてた。あんな森は初めてだ」
「偶然か?」
「分からん……」
言葉が重なる。
“おかしい”という感覚だけが、焚き火の煙みたいに広がっていく。
私はその輪の少し外で、揺れる火を見つめる。炎は形を変えながら、絶えず揺れている。消えそうで、消えない。
これからどうするべきか、まだ分からない。まだ何も形にならない。ただ、胸の奥に沈んだ喪失感だけが重い。
「お母さん……お父さん……」
小さく呟くと、夜の闇がそれを吸い込んだ。
返事はない。
ただ、火がぱちりと音を立てた。
◇
──その頃
ミアは森を駆けていた。
枝を踏み、幹を蹴り、月光を裂くようなその進みに迷いはない。夜目の利く瞳が、障害物も傾斜も正確に捉える。肺に入る空気は冷たいが、レナのいる村での匂いが、光景が思考を離さない。
血。焦げ。魔力の残滓。
浅層付近での異常。
複数の魔獣。
統率された動き。
偶然ではない。
そして──自分も境界線を越えたこと。
本来なら許されない。人間の村へ深く関わり、共に戦い、里を離れた。悪意があって族の掟を破ったわけではないが、越えてはならない一線に踏み込んだ。それは紛れもない事実だ。
それでも後悔はない。
私があの場にいなければ、もっと多くが死んでいた。
だが報告は必要だ。
族長である父に、見たままを伝えなければならない。きっと、かなり怒られるだろう。心配もかけてしまうだろう。だが、森の異変は、里にも及ぶ可能性がある。保身如きの為に、事実を隠す訳にはいかなかった。
枝を強く蹴り、さらに加速する。
月光が森を青く染め、影が鋭く伸びる。
やがて、里の気配が近づいた。
嗅ぎ慣れた匂いのはずだった。
火と土と、仲間たちの生活の匂い。獣皮と煮炊きの煙。
だが──
足が止まる。
違う。
風に乗る匂いが、違う。
鼻腔を刺すのは、焦げた木。
そして、濃すぎる血の匂い。
静かすぎる。
本来なら夜でも、見張りの足音や低い話し声がある。火のはぜる音がある。だが、何もない。
「灯りが、ついてない……?」
自分の声が、やけに遠く聞こえた。
──おかしい。
確認しなくちゃいけないのに、進みたくない。
意志とは裏腹にゆっくり1歩、1歩と里の入口に近づく。
「……え」
声が漏れた。
そこに広がっていたのは、壊れた住居と、倒れた仲間たちの姿だった。見慣れた衣。見慣れた顔。動かない身体。飛び散った血肉。
レナの家と、同じ光景…いや、それよりも酷い。
「なに…が…」
夜の森は、何も答えない。
ただ、吹き抜けた風が血の匂いを静かに揺らした───




