9話 静かなる崩壊
三人の奮闘により、魔獣の巨躯が命の灯火を散らし、黒い血の池に沈んだ。その亡骸を背に、三人は言葉少なに森を引き返していた。
しかし、木々の密度が下がり、安全な浅瀬へと差し掛かろうとしたその時、バイルが不意に足取りを殺し、ぴたりと立ち止まった。
ゆっくりと振り返った彼の視線の先には、気配を殺し、少しばかりの距離を保って歩いていたミアの姿があった。
「ミア……と言ったか」
落ちてくる低い声。その威圧感に、ミアはホワイトシルバーの髪をなびかせ、透き通るような水色の瞳を無言で向け返す。
「……お前も一緒に村へ来てもらいたい。また境界線を踏み越えさせることになってすまないが……今ここで姿を消される方が、村の連中に無用な誤解や決定的な亀裂を生む」
その言葉が落ちた瞬間、空気がピンッと張り詰めた。
人と、獣人。長きにわたる血と恐怖の歴史が隔てる、目に見えない絶対の線。その線の持つ残酷なまでの意味を、レナもう痛いほど理解している。
ミアはしばらくの間、感情を読ませない瞳で黙し込んでいたが、やがて呆れたように小さく吐息を漏らした。
「……分かった。今回はそちらの指示に従おう」
「助かる」
バイルはそれ以上多くを語らず、再び踵を返して歩き出す。
レナはその背中と、静かに従う少女の姿を見つめながら、胸の奥底で小さく噛み締めずにはいられなかった。
本当の境界線は、森の奥深くと浅瀬の間にだけ引かれているわけではない。
人と人、種族と種族の心の隙間にこそ、決して消えない線が根深く存在しているのだと。
そうして、再び三人は静寂の森を歩み始めた。
先ほどまで生死を分かつ凄惨な死闘が繰り広げられていたとは到底信じられないほど、森はどこまでも穏やかだった。
普段ここまで酷使しないからなのか、死と隣り合わせの極限状態だったからなのか、身体中の筋肉が悲鳴を上げ、足取りは鉛のように重い。
あの圧倒的な死の化身を、人間を軽々と踏みつぶす恐怖の象徴を、自分たちは力を合わせて確かに倒したのだという誇らしい実感が、じんわりと身体の隅々にまで広がっていく。
ただ一人——レナを除いて。
(……さっきの、あの視線……。ただの気のせいだったのかな……)
歩幅を合わせながら、レナはそっと前を行く二人と、横を歩くミアの様子を伺う。
ミアは依然として周囲に気を配り警戒を怠っていないが、その纏う雰囲気は先ほどよりも確実に柔らかい。
死闘をくぐり抜けた直後特有の張り詰めた緊張感は残っているものの、そこにはかすかな安堵の色も混ざり合っているように見えた。
バイルもまた大剣を鞘に収め、肩の力を抜きながらも、長年の習性のように何気なく森の茂みへと視線を送っている。
少なくとも、彼ら二人から異変を察知して戦慄するような気配は一切感じられない。
(……もし本当に何か恐ろしいものが潜んでいるなら、二人がすぐに気づかないはずがないよね)
二人とも、自分とは比べものにならないほど強くて、戦闘の経験も豊富で、野生の勘だって鋭い。もしも森の奥に本物の“ヤバい何か”が存在しているなら、とっくに顔色を変えて武器を構えているはずなのだ。
頭ではそうやって自分を納得させようとするのに、胸の奥底でうごめく不気味なざわめきだけが、どうしても消えてはくれなかった。
「……ふっ、村の連中の驚く顔が目に浮かぶな。『あの魔獣を討ち取った』なんて言っても、最初は誰も信じねえだろうが」
荒い呼吸を整えながら、バイルが自虐混じりに苦笑を漏らす。
ミアは肩の傷口から流れる血を指先で無造作に拭いながら、「証拠なら、あの森の奥に転がっている巨体で十分だ」と淡々と返した。
その横顔には隠しきれない疲労が滲んでいたが、自分の成した仕事への迷いや悔いは一切なかった。
レナは二人の頼もしい背中を見つめながら歩を進める。胸の奥ではまだ動悸が激しく波打ち、こめかみの奥がじんじんと重い痛みを主張していた。
拭い去れない不安はある。それでも——。
(ちゃんと、守れたんだ)
もしあのまま魔獣を放っておけば、奴は確実に浅瀬へと溢れ出し、やがて村へと踏み込んで破滅をもたらしていたはずだ。
けれど自分たちはそれを阻止した。三人で力を合わせ、何より自分自身も恐怖から逃げ出さずに戦い抜いたのだ。そう思うと、震えていた胸の奥が少しだけ温かく満たされていくのを感じた。
「……レナ」
不意に、隣を歩くミアが静かな声で名を呼んだ。
「さっきの……あの指示は何だったんだ? いったい何故……いや」
いったい何故、戦闘経験も無さそうなただの村娘に、ただのヒューマンに、あそこまで正確な指示ができたのか。そう聞きたいのだろう。
でも──
「ごめんね……私にも、うまく説明できないの。」
できない。したくてもできないのだ。何故なら、あんな感覚、今まで経験したことなどないのだから。
「ただ……魔獣の身体のどこが崩れるのか、そこだけがなぜか分かっちゃって……」
自分でも要領を得ない曖昧な答えだと痛感する。
バイルも歩みを緩めず、横目でちらりとレナを窺った。
「たしかに勘にしては、あまりにも出来すぎだったな。まるで先が見えているかのような精度だった」
「本当に、自分でも分からないんだよ……。ただ、世界の色が消えて……幾重にも重なった『線』みたいなものが目に見えて……」
言葉にして口から吐き出してみると、あまりに非現実的で自分でも空恐ろしくなってくる。
それでも、それは間違いなく自分に起きた真実だった。ミアは透き通る瞳を少しだけ細め、けれどそれ以上深く追求しようとはしなかった。
「……今はいい。レナのその『何か』のおかげで、私たちが生き残れたのは紛れもない事実だ。……ありがとう」
『ありがとう』その一言が、レナの疲弊した心に思った以上の温もりとなって染み渡った。
森の奥地から浅層へと近づくにつれ、木漏れ日の光量が少しずつ増していく。木々の隙間が広がり、肌を撫でる風の匂いも変わってきた。村は、もうすぐそこだ。
本当に帰ってこられたのだと、安堵の実感がようやく追いつき始めた——
まさに、その時だった。
前を行くミアが、弾かれたように唐突に足を止めた。
三角形の耳が警戒にピンと直立し、鼻先がわずかに上空へと向けられる。鼻腔を広げて空気を吸い込むその動作は、先ほどまでの比ではないほど慎重で、切迫していた。
「……どうした、ミア」
バイルの声が、一瞬で低く重いトーンへと落ちる。
ミアはすぐには答えない。瞳を鋭く光らせ、もう一度だけ、深く胸いっぱいに空気を吸い込んだ。そして、見たこともないほど不吉に眉根を寄せた。
「……煙の匂いがする」
レナの胸が、ドクンと嫌な音を立てて跳ね上がった。
「……た、焚き火の煙……じゃないの……?」
そうであってくれという切実な祈りが、震える声に嫌でも混ざり込む。
「違う。もっと濃くて、禍々しい……。焦げた木材と……布、それに鉄の匂いが混ざり合っている」
鉄──。また、嫌な予感が頭を、脳を埋めつくそうとし始める。
それはレナだけではなかった。直接言葉にされずとも、その最悪な意味は否応なく伝わったようだ。バイルの顔から一瞬で血の気が引き、表情が凍りつく。
「匂いの方向は……!? 村からか……!?」
「おそらく。だが……断定はできない。ただ一つ確実なのは、こんな匂い、浅層のものじゃない」
三人は申し合わせることもなく、自然と疾走へと切り替えた。森の木々をかき分け、浅瀬の川を飛び越える。
視界が急速に開けていき、村へと続く見慣れた街道が目に入った瞬間——レナは金縛りに遭ったように立ち尽くした。
巨大な黒煙が、モクモクと天に向かって立ちのぼっていた。
一本や二本ではない。何本もの絶望的な黒い柱が、朝の清らかな空を真っ黒に汚し、風に流されている。
「うそ…………」
途端に喉がカラカラに乾き果てる。さっきまで胸を満たしていたはずの“守れた”というささやかな誇りが、一瞬にして音もなく砕け散っていく。
「魔獣は……魔獣は倒したはずだぞ……!? 森の異変は解決したというのに、どうして村から煙が……!?」
バイルが絶望に満ちた声で低く呻いた。
そう、魔獣は討ち取ったのだ。あの怪物が森の異変の元凶であり、全ての引き金だったはずだ。
終わったはずなのだ。なのに——なぜ、村から煙が上がっているのか。
死に物狂いで森を抜け、村を囲む防壁の木柵が見えてきた。
その瞬間、レナの胸を狂おしいほどの悪寒が襲った。遠目からでもはっきりと視認できるほど、村の玄関口である重厚な大門が不自然に傾いている。
いや、傾いているのではない——内側から激しくぶち破られ、原型を留めないほどに破壊尽くされているのだ。
無意識に否定していた、頭の隅へとやっていた嫌な想像が、最悪な可能性が、脳の奥底で勝手に膨らんで膨大化していく。
「行こうっ……!!」
思わず張り上げた声は、情けないほど裏返り、掠れていた。気づいた時には、レナの身体は狂ったように駆け出していた。背後からバイルとミアの荒い足音が猛追してくるが、振り返って確かめる心の余裕などどこにもない。
門へ近づけば近づくほど、周囲の空気が致命的な変貌を遂げていく。
鼻腔を刺すのは、家々が激しく燃え上がる不快な焦げ臭さと、焦げた布切れの甘ったるい死臭。そして——隠しようもないほど濃密に充満する、生々しい鉄と脂の匂い。
破られた門の直前で、レナは呼吸を忘れ、思わず足をとめた。
粉々に砕け散った木柵の向こう側に広がるはずの、愛しい見慣れた風景。それが今や、遠い異世界の惨劇のように遠のいて感じられた。
───静かすぎる。
耳を疑うほどの静寂。
この時間なら、起き出した子どもたちの元気なはしゃぎ声や、家畜の鳴き声、朝食を準備する生活音が溢れかえっているはずなのに、何ひとつとして聞こえてこない。
ただ、崩れ去った門の奥で、黒くくすぶる燻煙だけがゆらゆらと不気味に揺れていただけだった。
(……遅かったの……? 私たちが……魔獣と戦っている間に……?)
絶望の言葉が、喉の奥までせり上がってくる。
けれど、まだこの目で何も確かめていない。全員が無事かもしれない。
まだ、絶望すると決まったわけじゃない——!
レナはガチガチと鳴る歯を激しく噛み締め、崩れ落ちた木柵の隙間へと飛び込んだ。
壊れた門をくぐり抜けた、まさにその瞬間。
——視界が、突如として変色した。
(え…………?)
一瞬、思考が完全に停止した。
またあの視界だ。あの魔獣と対峙した時に現れた、色彩の失われたモノクロの世界。
だが——何かが狂っている。おかしい。魔獣の時に見えた白い線とは、次元が違いすぎる。
数があまりにも、尋常ではないのだ。
村全体を覆い尽くすようにして、数十、いや、数百もの歪んだ白の“線”が、蜘蛛の巣のように、あるいは引き裂かれた内臓のように複雑怪奇に絡み合い、蠢いていた。
崩壊した家々の屋根から地面へ、黒焦げた土から空間へと伸びる、不気味な切断面を描く線。
そして——地面のあちこちに不規則に倒れ伏す「何か」の輪郭を、冷酷に打ち抜いている凄惨な線の群れ。
空間そのものが狂気に歪み、何百もの殺意の軌跡のようなものが村中に張り巡らされている。
(なに……これ……? なにが……起きているの……!?)
激しい悪心と吐き気がこみ上げ、息を飲んで弾かれたように猛烈な瞬きを繰り返すと、その異形な線の群れは幻のようにフッと消え去った。
しかし、線の消えた視界に突きつけられたのは、それを遥かに凌駕する容赦のない「現実」だった。
「ぁ…………っ……」
喉から、声にならない悲鳴が漏れる。
目に入ったのは、原型を留めず叩き潰され、黒く燻る家屋の無惨な姿。
折り重なるようにして打ち捨てられ、ぴくりとも動かない村人たちの無残な姿。
ぬかるんだ土を赤黒く染め上げ、川のように流れる、おびただしい量の血。
焼き尽くされた木材の臭気と、充満する生の鉄《血》の匂いが、逃げ場のない惨劇としてレナの胸の奥を激しく締め上げる。
物心ついた時から、ずっと生活してきた村。
皆の笑顔が溢れる、平和で明るい村。
──そんな見慣れた光景は、もうどこにもなかった。
ドクン、と心臓が破裂しそうなほどの嫌な音を立てた。
意識よりも先に、足が勝手に動き出していた。考える思考すら麻痺したまま、吸い寄せられるように我が家の方へと疾走する。
煙が渦巻く向こう側、ほんの数時間前まで穏やかな日常が存在していたはずの、その中心地へ。
後ろから追ってきたバイルとミアも、言葉を失ったまま立ち尽くしている。
いや、まだ、みんなが死んでいると決まったわけじゃない。
お母さんも、お父さんも、きっと無事だ。
目の前で倒れて動かない村人達だって。
みんな無事だ。無事のはずだ。
見当たらない人達はきっと、どこかに隠れているだけだ。
(きっと、きっと…きっと。きっと大丈夫。大丈夫だから……)
そう自分に狂ったように言い聞かせながら、レナは母のいる「我が家」へと向かって走り続けた。




