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境界観測《リミナル・サイト》-その線の先で、私は死んでいる-  作者: Rasky
第1章 私の初めの物語

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8話 死線…視線…?

 《《まただ》》。


 この真っ白で、何もない空間に戻ってくる《《たび》》、胸の奥が重く沈む。


 ここがどこなのか、どうしてここへ来るのか。理由は分からないのに、ただ一つだけ確かなことがある。


 ──私は、ここに来るのが初めてじゃない。


 思い出す。


 █████時の衝撃。何度も████刻まれた感覚。血の匂いと、██できなくなるあの瞬間。██が失われてこぼれ落ちる感覚。


 全部、覚えている。


「……また、“█████”」


 言葉にすると、喉の奥が少し震えた。


 何度も同じことを繰り返している。ここに戻るたび、その事実だけははっきり分かる。


 けれど、それだけだ。


 ⬛︎を経験しても、██が増えるだけで██は増えない。

 記憶も、██も、██も、何も。


 この⬛︎の私は、結局████ことが出来ない。


「……なのに」


 どうして私は、動けなかったんだろう。

 もっと動けたはずだった。もっと違う選択があったはずだった。


 何度考えても、答えは出ない。


 ここでどれだけ後悔しても、もう遅いことだけは分かっている。


 そして──


「……どうせ」


 ここを出れば、きっと全部忘れる。


 諦めれば終わるのだろうか。この███から抜け出せるのだろうか。


 もう諦めても…


「…っ、それは出来ない。絶対にそれだけは」


 この空間のことも。思い出したはずの⬛︎も。何度も████きたことさえ。


「それでも…」


 それでも、今だけは覚えている。


「次は…次こそは絶対に…!█████…!!」


 その██を胸の奥に残したまま、██の意識は静かに沈んでいった。





 ◇





 魔獣が地響きのような不吉な唸り声を上げた瞬間、まるで世界そのものが歪むかのように地面が沈み込んだ。


「来るぞ──ッ!」


 バイルの悲痛な叫びと同時に、視界の全てを塗りつぶす巨体の黒い塊が牙を剥いて躍り出た。


 弾かれたようにミアが横合いへと跳躍する。だが、魔獣の凶悪な爪はその軌道を逃さず、追尾するように空気を引き裂いた。振り下ろされた絶大な一撃が硬い地面を容易く打ち砕き、衝撃波が周囲の大樹を大きく揺らす。砕け散った岩の破片と土塊が、惨劇の雨となって降り注いだ。


 速い。そして、あまりにも重い。


 レナは息を詰まらせ、吸い込む酸素すら冷たく凍りつく中で、ガタガタと震える足で一歩後ろへと下がった。胸の奥で肺が浅く、狂ったように上下する。


 先ほど目の当たりにした狼の群れなどとは、根本から次元が違う。圧倒的な死の圧迫感。怖い。身体中の全細胞が逃げ出せと悲鳴を上げていた。


「一旦散れ! 間合いを取れッ!」


 バイルが横合いから泥を蹴って躍り出る。鍛え上げられた身のこなしで刃を閃かせ、斜め下から魔獣の肩口へと斬り込んだ。

 しかし、鋼の剣戟が叩き込まれた瞬間、肉を絶つ音ではなく、まるで巨岩を叩いたかのような甲高い硬質な金属音が響き渡り、火花とともに刃が激しく弾き返された。


「くっ……! 皮膚が硬すぎる……!」


 直後、魔獣は巨大な巨体を鞭のようにしならせて身を捻らせた。太い尾が空気を爆音で丸ごと薙ぎ払う。咄嗟に防御の姿勢をとったバイルの身体が、巨大な鉄塊に叩かれたかのように真横へと吹き飛ばされた。


「ぐはっ……!? ガハッ……!」


「バイルさんッ!」


 その隙を逃さず、地面を這うような低さで滑り込んだのはミアだった。獣人特有のしなやかで爆発的な跳躍から、両手の鋭利な爪を魔獣の前脚へ目にも留まらぬ速さで叩き込む。

 肉が裂け、黒い血が空中に散る。しかし、深い筋肉の層までは届かない。浅い。魔獣はその痛みを意に介する様子もなく、地軸を揺るがすほどの凶暴な咆哮を轟かせた。


 ズシン、と鼓膜を破らんばかりの音波が全身を叩き、レナの心臓が恐怖でぎゅっと収縮する。


(無理……こんなの、勝てるわけがない……!)


 絶望の淵へと引きずり込まれそうになった、まさにその瞬間だった。


 ふっと、周囲の音が遠のいた。


 世界の時間が引き伸ばされ、濃密なスローモーションへと落ちていく。視界から色彩が薄れ、モノクロの静寂が空間を支配する——あの異質な領域へと、レナの意識は沈み込んでいた。


 そして、再び“それ”が現れた。


 世界の表層を切り裂いて浮かび上がる“白い線”。


 魔獣の巨体を起点として、空間全体に張り巡らされた複雑な白い奔流。

 太い前脚から湿った地面へと沈み込んでいく重さの線。

 筋肉が引き締められ、収縮すると同時にギリギリと限界まで引き絞られていく線。


 それらの光の筋が絡まり合い、互いを押し合い、激しくぶつかり合いながら、次に世界が破綻し、崩れる「決定的な一点」を鮮明に示していた。


「……また、さっきの感覚……なんなの、これ……」


 理解は追いつかない。なぜこんなものが目に見えるのか、自分に何が起きているのか。けれど、脳ではなく魂がその『感覚』をはっきりと理解していた。


 右後脚の付け根。


 そこだけ、光の線の重なり方がおかしい。他の場所よりも激しく絡まり、今にも千切れそうなほど不安定に揺れている。


 なぜそう思うのかは分からない。


 けれど、その一点を見た瞬間、レナの中に強烈な勘が走った。


「ミア!右っ!!」


「ッ───!?」


 レナの喉から絞り出された悲鳴のような叫び。その声に、ミアがほんの半歩だけ身体を滑らせて軸をずらした瞬間、疾風と化した魔獣の爪が空を切り裂いた。ワンテンポ遅れて、ミアが直前までいた地面が爆発したかのように弾け飛ぶ。


「なんだ、いまの指示は……!?」


 吹き飛ばされながらも即座に立ち上がったバイルが、目を見開いて叫ぶ。


「そこ……! 右後ろの脚! 付け根のところ!」


 自分でもどうして確信を持って言えるのか分からない。

 けれど、絶対に間違っていない。


 ただ短く、「信じるぞ……!」と魂の籠もった一言だけを遺し、バイルは地面を強く蹴り上げて一気に魔獣との間合いを詰めた。振り上げられた刃が爆音とともに空気を裂き、疾風となって魔獣の側面へと叩き込まれる。


 同時に、ミアも爪を低く構えたまま、地を這う影のように肉薄する。獣人族ならではの恐ろしいほどの瞬発力と柔軟さで巨体の懐深くへと潜り込み、むき出しの急所へ向かって両手の爪を突き立てた。


 だが——ほんの瞬発の差で、遅かった。


 魔獣はその巨体に反する恐るべき反射神経で身体を捻り、バイルの必殺の一刃を紙一重でかわす。肉皮が引き裂かれる不快な音だけが虚しく響き、ミアの追撃もまた空を切った。


 直後、魔獣の全身から放たれた圧倒的な質量の衝撃波が牙を剥く。


 間近に肉薄していたミアは、その不可避の一撃をまともに浴びてしまった。華奢な身体がボールのように宙に大きく浮き上がり、そのまま硬い地面へと勢いよく叩きつけられ、土煙を撒き散らしながら数度転がって泥の中に倒れ伏した。


「ミアァッ!」


 思わず叫び声を上げながらも、レナの瞳だけは絶対に眼前の魔獣から逸らさなかった。

 スローモーションの視界の奥深くで、“ 白い線 ”が激しく組み替わり、新たな力の潮流を生み出していく。空間を支配するエネルギーの向きが変わり、次の絶対的な一撃を放つための予備動作に入っている。


 一見すると、破壊的な前脚に力が集まっているように見える。


 しかし、違う。


 その前脚の集中の裏側で、わずかにワンテンポ遅れて不自然に歪み、歪曲する右後脚。


 そこだ。あそこが、構造の限界を迎えて崩れる。


「もう一回……右脚っ!! そこが崩れる!!」


 必死に張り上げた声が、自分でも驚くほど鋭く、はっきりと静寂の森に響き渡った。


 バイルは振り返りもしない。迷いなく再び泥を蹴って跳躍した。その退路を断つ動きに呼応するように、倒れていたミアも疾風のごとく低く身体を沈めて走り出していた。


 地面を擦るほどの低空滑走で滑り込み、二人が同時に狙いを定めたのは、レナにだけ見えていた、あの白い線。


 次の瞬間、ミアの鋭利な爪が死力を込めて振り下ろされ、バイルの刃が深く突き込まれた。


 ズチ、と固い外皮の奥で鈍く不気味な破壊音が響き渡り、魔獣の右後脚の付け根に確実な亀裂が走る。


 巨体が、バランスを失ってグラリと傾いた。


 いける。勝てる、と確信したその瞬間、言葉を交わすまでもなく三人の魂の声が自然と重なった。


「「「今だァッ!!!!」」」


 限界まで集中された二人の追撃が、同一の破損点へと寸分違わず叩き込まれた。


 引き絞られ、張りつめていた力の線の奔流が一気に弾け飛び、崩壊する。レナの視界を埋め尽くしていた“ 白い線 ”が、悲鳴を上げるように軋み、爆発的に絡まり合って、限界を迎えてぷつりと途切れた。


 どおおおん、と山が鳴るような凄まじい地鳴りとともに、魔獣の巨体が地面へと崩れ落ちた。猛烈な衝撃波が周囲の森を揺らし、舞い上がった濃密な土煙が視界の全てを覆い隠していく。


 それでもなお、怪物のような生命力を持つ魔獣は起き上がろうと前脚に力を込めた。しかし、砕かれた後脚がその凄まじい体重を支えきれない。力強く踏み込もうとした瞬間、破綻した関節からガクリと力が抜ける。


 そこへ、絶命の隙を逃さずミアが空中を舞い、喉元へと必殺の爪を深々と突き立てた。間髪をいれず、バイルの渾身の刃が頚椎の隙間へと深く押し込まれ、確実にその生命の核を断ち切った。


 その瞬間——レナの視界に色濃く焼き付いていた全ての“白い線”が、幻のようにぷつりと途切れて消え去った。

 凶暴な咆哮が絶たれた途端、森は恐怖を感じるほど静まり返った。


 さきほどまで大気を震わせていた凄まじい圧力が嘘のように霧散し、残されたのは肩を上下させる三人の荒い呼吸音だけ。空間に舞い上がっていた土煙がゆっくりと地上へ落ちていく中、誰もすぐには言葉を発することも、動くこともできなかった。


 張り詰めていた世界のもう一つの層が重い音を立てて閉じ、色彩と音が、ようやく慣れ親しんだいつもの輪郭を取り戻していく。


 それと引き換えにするかのように、レナの両膝がガクガクと小さく震え始めた。ワンテンポ遅れて押し寄せてきた激しい頭痛に、こめかみをギリギリと締めつけられる。


 世界は元の姿に戻ったはずなのに、自分だけがどこか違う次元に取り残され、戻りきれていないような不気味な感覚が残っていた。


「……倒した……のか……?」


 荒い呼吸の合間に、バイルが剣を構えたまま低く呟く。長年の経験から、まだ微かな油断も挟まない警戒の混ざった声音だった。


 ミアはしばらくの間、血の海に沈む魔獣の巨大な亡骸をじっと見下ろしていたが、やがて胸の空気を大きく吐き出し、ゆっくりと、けれど深く頷いた。


「ああ。……終わった」


 その一言が静寂の中に落ちた瞬間、ピンと張りつめていた緊張の糸が一気に解けた。


 身体の奥底にこびりついていた死の恐怖と緊張がガラガラと崩れ落ち、ようやく「本当に助かったのだ」という実感が追いついてくる。


 胸の奥に澱んでいた恐ろしさが温かい安堵となって溶けていき、思わず「やった……」と小さな声が漏れた。


勝手に頬が緩み、笑みが込み上げてきて抑えきれない。


 バイルが刃を地面に突き立て、肩で息をしながら、ガラガラとしたくぐもった笑い声をこぼした。


「ははっ……まったく、大したものだな、レナ。お前のあれがなければ、間違いなく俺たちは押し切られて全滅していたぞ」


「あれって……?」


 問い返すと、バイルはそれが当然の事実であるかのように言った。


「決まっているだろう、お前の土壇場で見せた『勘』のことだ」


 その言葉に、レナの心の中にほんのひと雫の戸惑いが広がる。


 勘なんかじゃない。あれはただの予感や偶然などではなく、確かに私の目に“見えて”いたのだ。けれど、それをどう言葉にして説明すればいいのか分からない。自分自身でさえ、あの白の線の正体を整理しきれていないのだから。


 そのとき、血を拭い終えたミアがこちらを振り返った。その澄み渡る水色の瞳がまっすぐにレナを捉え、小さく、けれど重みのある声で短く告げる。


「……助かった。ありがとう、レナ」


 自分は強くない。剣を振るう腕力もなければ、魔法の術式も持たない。正面からあんな怪物と戦う力なんて何一つ持っていない。


 それでも——ミアのその一言を聞いた瞬間、自分はこの場所にいてよかったのだと、恐怖から逃げ出さずに立ち向かってよかったのだと、初めて心から肯定された気がした。


 恐ろしかった。本当に、立ちすくんで逃げ出したくなるほどに。


 それでも逃げなかった。必死に声を張り上げ、あの凄惨な戦場に立ち続けた。そして結果として、かけがえのない仲間たちの命を守り抜くことができたのだと思うと、胸の奥底から込み上げる熱い感情がじわりと全身に広がっていく。


「……よし、戻ろう」


 バイルが乱れた呼吸を整え、吐き出すように言った。

「村へ戻って、みんなに報告だ。『境界付近の魔獣は討ち取った』とな」


「あぁ。これで当面の間、森は安定するはずだ」


 ミアも短く応じ、爪に付着していた黒い不浄の血を慣れた手つきで払い落とした。さきほどまで死闘が繰り広げられていたとは思えないほど、朝の森は静寂を取り戻している。


 レナも、深く息を吸い込んで小さく頷いた。


 見上げれば空は変わらず澄み切った青色を描いており、木々のざわめきも優しく穏やかで、あの死の恐怖が嘘のように遠ざかっていく。


 よかった——本当に、無事に終わってよかったと、心の底からそう思えた。


 三人は肩を並べ、ゆっくりと歩み出す。帰りを首を長くして待っている、村の人々の元へ向かって。


 そのとき——。


 ズキリ、と刃物で突かれたような鋭い激痛が、レナのこめかみを深々と刺し穿った。


「っ……!?」


 視界がわずかに歪んで揺れ、膝が激しく震える。

 消えたはずのあの“線”は、もうどこにも見えない。それなのに、世界の表面に目に見えない薄い違和感の膜がぴんと張られたような、不気味な余韻だけが空間に残っていた。


 だからこそ——直感的に、感じ取れてしまったのだろうか。


 この広大な森の、いま立っている場所よりも、さらに、さらに深く暗い奥底。


 ──何かが、底知れぬ悪意をもって、こちらをじっと見つめている。


 バイルも、感性の鋭いはずのミアも、何も感じていない。


 まだ、誰もその存在に気づいてはいない。


 魔獣を討ち取り、すべてがめでたく終わったはずのこの一日が。


 ─────本当は、ただの序章に過ぎず、今この瞬間から本格的に始まろうとしているのだということ

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