13話 均衡のほころびに立つ少女
狼はもうここにはいない。
にも関わらず、村人たちはまだ弓を構えていた。
「撃つな!」
張りつめた空気を切り裂くように、怒鳴り声が響いた。
浅瀬側、木々の間から更に数人の男たちが現れる。弓を引き絞り、槍を構え、半円を描くように広がる。その中心から息を荒げて前に出てきたのはレナの父だった。
「待て、おいお前ら、武器を下ろせ……!」
「だが獣人族が──」
「娘がいるだろ!まだ撃つな!」
若い男の腕を掴み、無理やり弓を下げさせる。だが緊張は消えない。別の男がすぐに次の矢を番える。
彼らの視線は、すべてミアに向けられていた。
ミアは森の浅瀬側に立ち、太ももから血を流している。さきほど狼を奥へ追い返す途中、村人の矢がかすめたのだ。それでも牙を剥かず、武器も抜いていない。敵意がないことを示すように、ただまっすぐ立っている。
レナはその前に立ち、両手を広げてる。
心臓がうるさい。足が震えている。でも、退かない。
退いた瞬間、矢が飛ぶとわかっているから。
「違うの……!狼は押し出されただけなの!森の奥で何かが起きてる!ミ…この子は境界線を越えた狼を奥に戻そうとしただけ!」
ざわめきが広がる。
「誰がそんなこと信じられるか!」
「境界線を越えた時点で敵だろ!」
怒声が飛ぶ中、父が低い声で問う。
「どういうことだ、レナ。はっきり言え」
怒っているというより、混乱している顔だった。
レナは息を吸う。
「狼はさっきの一匹だけ。さっき矢に撃たれて奥へ逃げたからもう大丈夫。でもいつもなら浅瀬まで来ないの。獣人族たちが匂いで散らすし、巡回もしてる。でも今日は違った。多分奥で何かが起きてる」
「お前、なんでそんなこと知って…いやそれは今はいい。それで何か、とは何だ」
レナは一瞬迷い、それでも言った。
「…魔獣かもしれない」
空気が凍る。
魔獣。それは村人達からすると伝承の中の脅威だ。実在すると知ってはいても、村で実際に見た者はいない。
「だから狼は縄張りから押し出されたの。ただ逃げてきただけ。この子は止めようとしてくれたんだよ?狼が浅瀬に出ないように、ただ奥へ返そうとしてただけ。獣人族が攻めてきたわけじゃない!」
沈黙が落ちる。
その時、森の奥から低い振動のような遠吠えが響いた。狼の声ではない。もっと重く、腹の底に響く音だ。
地面が、かすかに震える。
「奥で縄張りが崩れている。このままだと境界線を越える狼はあれだけじゃ済まない。もっと出る」
「獣人の仕業じゃないと証明できるのか」
「森の奥まで来るか。自分の目で見ろ。嘘なら、そこで私を撃てばいい」
父への問いにミアは冷静に返す。
その言葉は挑発ではない。本気だ。
父は歯を食いしばる。森の奥に入るということは、命を賭けるということだ。
その時、群衆の後ろから声がした。
「わしが行く」
道を開けて現れたのは薬草屋の店主バイルだった。
冷静で落ち着いた目をしている。緊張はあるが、動揺はない。
「境目の変化を見てきたのはわしだ。均衡が崩れているなら、確かめねばならん。知らぬまま矢を放つほうが、よほど危険だ」
父が振り返る。
「本気か、バイル。奥だぞ」
「だからこそだ。魔獣なら、今止めなければ村も森も関係なくなる」
ミアがレナにだけ聞こえるくらいの声で
「レナは来ないで。これは森の問題だし、人間を2人も連れて奥へ入れば、余計にややこしくなる。それに…危険な目に合わせたくない」
レナは首を振る。
「違う。もう森だけの問題じゃない。浅瀬まで来るはずのない狼がここまで来た。ミアは境界線を越えちゃったし、村人は獣人族に矢を放った。どっちも一線を越えてる」
遠くで、木々が大きく揺れる音がする。先ほどより近い。
その時、低く重い咆哮が森の奥から響いた。
今度ははっきりと、何か巨大なものが動いている気配がある。
バイルの顔色が変わる。
「……本当に出たのか」
──魔獣。
その言葉を誰も口にしないが、全員が同じものを想像している。
怖い。
自分はただの村娘だ。戦えるわけでもない。
でも──
「私も行く」
いかなければならない。皆の間に立つものとして行く義務がある。
その言葉に父が息を呑む。
「レナ、お前は残——」
「ここで何も知らないまま争いになるほうが怖い!ちゃんと見て何が起きてるのか確かめないと!」
沈黙が落ちる。
森と村、今その間に立っているのは私だ。
それはまだ変わっていない。
村と森の関係にこれ以上亀裂が入らないように間に立ち続けられる人が絶対に必要だ。それに、村人達が落ち着きを取り戻すための時間も必要だが────
「グオォォォォ!!!」
再び、本能のままに重い咆哮を響かせる。
奥で唸るそれには私たちの事情なんか関係ない。
その咆哮は、1度目の咆哮よりも近かった。




