11話 予感
母の寝息は穏やかだった。昨夜まで胸を締めつけていた熱はもうなく、薬草の青い匂いだけが部屋に静かに残っている。その匂いを吸い込むたびに、レナは思い出す。あの湿った森の空気と、土を踏み越えた瞬間の感触を。
境界を越えた。
それはもう取り消せない事実だった。恐怖も、後悔も、不思議な高揚も、すべて含めて自分の中に沈んでいる。
本来なら、これで終わるはずだった。母は助かった。父の言葉は重かったが、怒りよりも恐れが滲んでいたのを思い出す。森と…獣人族と関われば、また血が流れる。だから境界線は守れ、と。
それでもレナの足は、朝の光に導かれるように境界へ向かっていた。
理由はない。少なくとも昨日のような、誰かの命に直結する理由は。
でも、ただもう一度会って話してみたかった。
森の奥地へ近づくにつれ、空気がゆっくりと変わっていく。乾いた風に混じる湿り気。土の匂いに重なる葉の匂い。目に見える線はないのに、ここから先は違う、と本能でわかる。
レナはその手前で止まった。
昨日は越えた。母を助けるために、覚悟を決めて踏み込んだ。
でも今日は違う。
越えなくてもいい。少なくとも今の私に越える理由はない。
「来たのか」
木々の影から現れたのは、朝の光を受けて淡く輝くホワイトシルバーの髪を揺らすミアだった。森の深い緑の中で、彼女だけが静かな光を帯びている。
「うん、来ちゃった」
「母親の様子は?」
「熱は下がった。薬草、ちゃんと効いたよ……昨日、ミアが居なかったらお母さんに届けることは出来なかったと思う。ありがとう」
ミアは耳をぴくりと動かしながら、小さな笑みを浮かべて頷く。
「それならいい」
しばらく、何も言わずに向かい合う。昨日とはまた違った沈黙だった。敵意でも警戒でもない。ただ、互いに何を話したらいいのか分からなかった。
──うぅ、何か話さなきゃ…あ、そういえば
「昨日のこと、お父さんに話した」
レナが言うと、ミアの耳がまたぴくりと動く。
「怒ってた?」
「うん、怒ってた。でも……どっちかっていうと怖がってた…かな。森と関わると、また壊れるって」
ミアは小さく顎を引く。
「昔、壊れたことがある。と父から聞いた事がある」
どちらかが悪いわけではない。お互いに大切なものを守ろうとして、傷つけた過去がある。
レナは見えない線が見えるような気がして視線を落とした。昨日、自分はそこを越えた。だから分かる。あの向こうはただの“敵”ではない。
「境界線は1人が越えたからといって、なくなるものではない」
ミアが静かに言う。
責めるでも、拒むでもない。ただの事実に
レナは「そうだね」と頷く。
それでも、昨日と今日では確かに違う。
昨日は、森の奥で命を救われた。
今日は森の奥地と浅瀬に立って、本来関わることのなかった2人がこうして言葉を交わしている。
種族間の対立や境界線からしてみれば、ほんのわずかな違いかもしれない。
けれど確実に、昨日の延長線上に今がある。
「ん?」
ミアの透き通るような水色の瞳の先が森の奥へ向く。
「どうしたの?」
「……何かがおかしい」
「なにが?」
「森の奥、群れの動きが変。普段より浅瀬に寄りすぎてる」
「え…?」
レナは森の奥を見つめた。木々は静かに揺れていて、見える範囲では何も変わった様子はない。
だが、ミアの言葉を聞いてなんだかモヤモヤする。
何かがこれから起こるような、そんな予感がして胸がぎゅっと締め付けられるようなそんな感覚。
──こういう時の予感はだいたい当たる。
その瞬間、静まり返っていた森に低く長い音が響いた。
角笛だ。しかも村の方角から。
あの角笛は警戒を知らせる合図だ。普段は滅多に鳴らない音。
レナの鼓動が強く跳ねる。
──あぁ、やっぱり。
嫌な予感が、形になった。




