10話 静かな朝のその前に
深夜、まだ夜明けにも満たない時間。
家の中はようやく静まり返っていた。
今日起きた色々な出来事をグルグルと考えてしまい、なかなか寝付けない。
本当に大変な1日だった。
怒鳴り声で目が覚めて、薬草屋の店主バイルを訪ね、薬草を覚え、森を進み、境界線を越えて森の奥地へ、狼に殺されかけ、敵と言われてきた獣人族の女の子と出会い…
そして母を救った。
ふと母を見る。
母の寝息は穏やかで、さきほど触れた額の熱は確かに下がっている。鍋の底には煎じ終えた銀の葉脈が沈み、淡い匂いだけが部屋に残っていた。それは森の匂いであり、同時に“越えてしまった証”のようでもあった。
「もう大丈夫だよ」
母の言っていた“大丈夫”をやっと返すことができた。
父は椅子に座ったまま眠っている。酒の匂いはまだ消えていないが、その顔には怒りも威圧もなく、ただ疲労だけが刻まれていた。
──守れなかった。
あのかすれた声が、耳の奥に残っている。
父は守ろうとして、守れなかった人だ。だから境界線の向こうとは関わらないと決めた。越えなければ壊れないと信じて生きてきた。それを弱いとは思わない。
──知らないほうが、楽なんだよ。
その言葉は責める響きはなかった。
だからこそ、胸に残る。
レナはゆっくりと窓を開ける。夜気が流れ込み、遠くから森の匂いがかすかに届く。昼間の圧迫するような気配はなく、深く沈んだ呼吸のような静けさだけがある。
──森は壁じゃない。溝だ。簡単に命を落とす
父はそう言った。
けれど今日、自分はその縁に立った。そして落ちなかった。ちゃんと家に戻ってこられた。
溝と言われて一瞬何の事を指してるのか分からなかったが、
「もしミアが助けてくれなかったら、命を落としてた。溝ってそういうことだったんだ」
思い出すのは、猫耳をもつ白銀の髪の少女が狼を裂いた瞬間だ。それに、迷いなく飛び込んできた姿。
見ず知らずの私を守るために、牙を剥いた横顔。
あれは“敵”の顔ではなかった。
守るために戦う姿は、きっと昔の父と同じだっただろう。
村と森…結局、違うのは立っている側だけだ。
レナは窓辺に手をかけたまま、静かに息を吸う。胸の奥に、二つの正しさが並んでいる。
村と父の正しさ、森で出会った少女の正しさ。
どちらも間違いではないと思う。
それに、どちらも自分達の目で見て信じたものだ。
だからこそ、分からなくなる。
父は、自分たちの正しさが通じない世界と言っていたがレナにはそれがあまり腑に落ちない。
線は本当に守るためだけのものなのか。
それとも、怖れを閉じ込めるためのものなのか。
本当に分かり合うことは出来ないのか。
「境界線って結局何なんだろう…」
意味は理解しているが、上手く考えがまとまらない。
「朝なら、森は静か…、か」
小さく呟く。あのときの声がよみがえる。
別に約束をしたわけではない。けれどその言葉は、終わりではないことを示しているようだった。
“また”と言い切れなかった自分が少し悔しい。しかし、また会えるかもと思うと何故が胸が弾む。
レナは母のそばに戻り、椅子に腰を下ろす。寝息は安定している。指先でその手を包むと、ぬくもりがちゃんと返ってきた。
守れた。
ちゃんと、守れた。
その事実が胸に広がると同時に、境界線で立ち止まったミアの姿が浮かぶ。
ダメだと教えられてきたのに私は境界線を越えてしまった。
それでも、越えた先で出会った少女は村で語られるような恐れられる存在には思えなかった。
それに、母を助けるためだった。後悔はしてないない。
父は線の内側で生きると決めた。
自分は、まだ決めていない。
夜はゆっくりと色を薄めていく。東の空がわずかに白みはじめ、世界が息をひそめる時間が近づく。
森が、いちばん静かになる時間。
レナは目を閉じない。
朝が来るのを、ただ待っていた。




