第413話 癒しの力
フランスは、耳をふさがれでもしているような、不快な音のしない霧のなかを、そろりそろりと歩いた。
あたりはすべて紫がかった霧に包まれていた。
まるで、つかみどころのない場所を歩いている。
夢の中のようだった。
すべての感覚が遠いような感じがする。
なぜ、ここにいるんだっけ。
何を、しようとしていたかしら。
頭の中にまで、霧が立ち込める。
目の前の霧が、窓にかけられた布を取り去るように、ひらかれた。
視線の先に、イギリスがいた。
イギリスが、笑っている。明るい笑顔だった。朗らかに、笑っている。兄王子の、かげりのない笑顔。
フランスは、イギリスのその表情を見ると、心が満たされた。
満足して、ゆったりとした気持ちになる。
イギリスは、何か話したようだった。
笑顔で話している。フランスに向かってではない。こちらには、どんな音も聞こえなかった。
イギリスの笑顔は、見知らぬ人に向けられている。
見知らぬ美しい女性が、イギリスの視線の先にいた。
フランスの心に、おそろしい気持ちが覆いかぶさるようだった。
イギリスと、見知らぬ女性は、まるで親密にうちとけて、仲が良さそうに見える。イギリスと、フランスが、そうであるように。
足元から、冷えと一緒に、嫌な気持ちが這い寄ろうとしている。
フランスは、ヘビのようにうねって近づくその感情を、冷めた気持ちで感じていた。
ふたりの男女が、微笑み合う。お似合いのふたりに見える。親密な空気があった。イギリスと見知らぬ女性は、何か、楽しそうに話した後、じっとお互いを見つめ合う。
ふたりの瞳に、ゆらいで輝く炎のようなものが見える気がした。それは、美しく踊るように燃える。なぜか、フランスには、それが、ふたりがお互いに傾ける強い思いのようなものだと分かった。
イギリスが顔をよせると、見知らぬ美しい女性は、それを笑顔で受け入れる。
自然で、美しいキス。
ふたりはぴったりとくっついて、お互いに身をゆだねあっている。
それを見ていると、フランスの心から強い感情のうねりが、どろどろと流れ出す。身体がだるく、一日中働きつづけたあとのように、重くなる。
見ちゃだめだ。
でも、目が離せない。
イギリスと見知らぬ女性の求めあうようによりそう姿は、フランスの心にはっきりとしたおそれを呼び起こした。
イギリスの心が、フランスから離れてしまったら……。
百年も待たせて、ずっと好きでいてもらえるなんて……。
つらい。
ひどい。
苦しい。
あの女が、ねたましい。
そこまで考えて、ハッとする。
いいえ。
なぜ、そんなことをおそれる必要があるの。
イギリスがもし、本当の愛を、フランスとは別の場所で見つけたのなら……、そのおかげで、あの笑顔を取り戻せるのなら……。
それは、喜ばしいことじゃない。
たとえ、フランスの心は、切り裂かれるようにつらくても、フランスが心から求めるのは——、イギリスの幸せだ。
イギリスが永遠に、フランスのとなりにいることを望んでくれたなら、嬉しい。でも、その心を決めるのは、フランスじゃない。イギリスにとっての、幸せのありどころを決めるのは、彼自信だ。
ずっと、彼にとっての幸せに見合う相手でありたい。
でも、自分は……、彼にとって完璧な相手じゃない。
欠点だらけなのは分かっている。
大切にしたいものも、したいことも、たくさんある自分を、イギリスは煩わしく思うこともあるかもしれない。
それに、性格も、難ありかもしれないし……。
あんまり、自信ない……。
目つきだって、きついし……。
……。
自分の側でなくても、そこに彼の笑顔があるのなら。
「あなたのよろこびは、わたしのよろこび。イギリス、あなたの道に祝福がありますように」
フランスがそう口にすると、イギリスと、見知らぬ女性の姿が、ゆらいだ。
まるで、水面に風が吹き付けたときのようだった。
これは……。
もしや、幻?
なにか、幻を見ているのね。
フランスは、ぼんやりとした感覚をはっきりさせようと頭をふった。
あの幻に集中しちゃダメな気がするわ。
なにか、違うことに集中してみましょう。
何か、別のこと……。
イギリス以外のこと。
イギリス以外……‼
フランスの頭に、シャルトルのいじわるな顔が浮かんだ。
ああ、聖下!
いじわるなお顔まで、なぜあんなに尊いの!
好き!
やっぱり、好き!
どうしても、あのお顔も何もかも、だめだ、好きだ、本当に! あのいじわるな顔を、なんとか姿絵としていただくことはできないのかしら。ああ、大天使様! あのお美しさ! 聡明さ! 力強さ!
生身のひとりの人だとは分かっても、どうしてもぬぐいされない、強い憧れと、特大の『好き』の気持ち。
フランスは、思い出してはいけない、あの場面を、はっきりと心に刻まれたあの瞬間を、思い出してしまった。
美しいシャルトルブルーを、まっすぐに向けて、ささやくように言われた、あの言葉。
『あなたのことが好きです、フランス』
尊いが過ぎる‼
過剰なご褒美‼
フランスは、思わず、何も分からなくなって、大声で叫んだ。
「癒されたーーーッ‼ アーメーーーーーーンッ‼」
底抜けに明るい光が心の内をなでる。
あれ⁉
今のって⁉︎
フランスが、久しぶりの感覚に、首をかしげていると、あたりの霧がはれて、上から、陽の光がさしこんだ。
気づくと、フランスは、森の中に、倒れていた。
おお?
「フランス!」
すぐそばで、こちらをのぞき込んでいたのは、シャルトルだった。
「おお⁉︎」
フランスは、混乱しながら、シャルトルの姿を見た。
え?
幻?
現実?
フランスが、構えていると、シャルトルが、うかがうような表情で言った。
「フランス、急に大声で叫んで、心配しました。それに、癒しの力が戻ったのですか?」
「え、やっぱり、今、わたし、癒しの力を使いましたよね」
「ええ。なんだか、妙に明るい光が心の内に見えました」
妙に明るい……。
「幻を見ました。シャルトル、あなたは、幻じゃあないですよね?」
「触れてみますか?」
これは、確認のためだから。
アーメン。
フランスは、必要以上に、シャルトルの身体に触れた。
しっかり満足するまで触れてから言う。
「幻じゃあなさそうです」
シャルトルが、あたりを見渡して言う。
「もしや、癒しの力で、霧が晴れるんでしょうか」
「ここだけ晴れていますね」
フランスとシャルトルのまわりだけ、紫がかった霧は消えて、はっきりと森が見える。だが、すぐに先は霧でつつまれたままだ。
シャルトルの声があたりにひびく。
「すべては、癒された」
強烈な光が、フランスの心のうちを焼き尽くすように照らす。
ざあっと、風がふいた。
森に、光が降り注ぐ。
霧が晴れた。




