第401話 来てくれた、会いたかったひと
フランスの耳に、広場全体から、ひそやかな囁き声が、ざわざわと、まるで風が森をなでつけるときのように聞こえ始めた。
戸惑うような、ひそひそと話す声があたりに満ちている。
フランスも、群衆にまじって、一緒にひそひそやりたい気持ちだった。
花嫁?
花嫁って、なんのこと?
フランスが、ダラム卿に目をやると、彼は、すみません、みたいなちょっと申し訳なさそうな雰囲気でにこっとした。
どういう表情⁉︎
ブールジュが、フランスのとなりで、腕組みして言った。
「花嫁って、あんた、いつのまに、そんなことになってたの?」
フランスは、縄でしばられたままの手の先だけなんとかふって否定しながら答えた。
「し、知らない! 知らない! わたしも初耳よ!」
「まあ、でも、こう言われたら、もうあの男は、あんたには絶対手出しできないわね」
ブールジュがあごで指し示すようにした先にいるのは、完全に青ざめた顔の現教皇の男だった。
なんか……、かわいそうね……。
ブールジュが、にやっとして言う。
「それに、皇帝の花嫁のことをかばったのなら、わたしたちは褒められこそすれ、処罰はされなさそう」
「そうかな……」
「そうよ。雰囲気ゴリ押しで、大体のことはいけんのよ。花嫁作戦は、なかなか気に入ったわ。色々便乗できそうだもの。もう聖女の力もないんだし、花嫁にしたって問題なしね!」
ブールジュが、すごいにんまり顔をした。
まあ、たしかに、皇帝の花嫁が、近しい場所にいるとなれば、聖女たちにはなかなか誰も手出しはしにくいだろう。
みんな、赤い竜をおそれている。
どんな報復ももらいたくはないだろう。
ダラム卿が、青ざめている現教皇の男に向かって言った。
「聖下、そしてここで見聞きしておられるすべてのみなさまも、今まであった色々なうわさでお聞き及びのことと思われますが、イギリス皇帝陛下は、それはもう——、目も当てられないほど! フランス女公陛下に、首ったけでございます! 彼女のためにすべての軍勢を動かすほどに。花嫁と申し上げましたが、フランス陛下の意向はまだお聞きしてはおりません。イギリス皇帝陛下のお心の上では、そうあってほしいというお気持ちのようです。つまり、もし、色よいお返事をいただければ、フランス陛下は帝国の皇后となられる可能性もあります」
「……」
現教皇の男は、とんでもない話に口をつぐんでいる。
ダラム卿は気にせず続けた。
「教国が、フランス陛下に害をなすようであれば、停戦協定は即時破棄し、徹底抗戦する。それが、帝国の主張でございます」
そう言って、ダラム卿はうやうやしく礼をした。
現教皇の男は、精一杯の感じで、苦しそうに言った。
「聖女フランスが、アキテーヌの公女であるという証拠はない」
「ここにございます」
ダラム卿がそう言って視線をやると、シトーが、馬をダラム卿のとなりに進める。
シトーは、銀色に光るものを掲げて持った。
「こちらは、フランス陛下が幼少のころから肌身離さず身につけていた、彼女の肖像を入れたロケットです。このロケットには、彼女の幼いころの姿とともに、こう刻まれています」
ダラム卿の説明は、用意されていたのか、よどみない。
「アキテーヌ公国、公女フランス。そして、ロケットの裏には、アキテーヌの正統なる後継者のみ持つことがゆるされる紋章が刻まれています。彼女は、まぎれもない、アキテーヌの姫君です」
現教皇の男が、まだ、一応しっかりとした様子で言う。
「では、これについて協議する時間が要る。帝国には今すぐ、軍を引いていただこう」
ダラム卿が、にっこりと笑顔で言い放った。
「もうずいぶん待たされているので、そろそろ待てないかと思います」
アミアンが大きな帝国旗を、軽々と左右に、ゆっくりと振る。
帝国旗にある赤い竜の姿が、右に、左に、ゆらめきながら、ひるがえる。
そのとき、上空から、おそろしい竜の吼える声が聞こえた。
広場に悲鳴が広がった。
空の青に、赤い竜の翼がひかる。陽の光をうけて、美しく輝く赤い鱗をしならせるように、まっすぐこちらに飛んでくる姿があった。
フランスは、思わずその姿に向かって叫んだ。
「イギリス!」
会いたかった人。
来てくれた。
広場にどよめきが広がる。
赤い竜は、優雅に舞い降りて、現教皇の男のすぐ近くで、人に姿をかえながら着地した。
現教皇の男の回りを騎士たちが守りかためる。
一方、イギリスは、たったひとりで、剣も帯びてはいない。
イギリスは、ゆっくりと現教皇の男の前に向かい、尊大な雰囲気で、一言だけ言った。
「答えは、決まったか?」
それだけだった。
それだけ言って、あとは、もう答えを出せ、と言わんばかりに黙っている。
しばらく、その場の空気は凍りついたようだった。
現教皇の男は、もはや、見ていられないくらい動揺を隠せなくなっているようだった。震える声で教皇が言う。
「き、教国は、聖なる力を失った元聖女フランスを破門とする。だが、アキテーヌの公女については……、知らない」
イギリスが、よく通る声で言った。
「ダラム、全軍に報せろ。まだ、教国は帝国のおともだちでいてくれるらしい。軍事演習は終わりだ」
「かしこまりました」
ダラム卿がそう返事をすると、アミアンもシトーも含めて、一行は一目散にどこかへと駆けて行った。
手分けして報せに行くんだわ。
アミアン、大きな旗を持っているのに、あんなに余裕で……。
すごすぎる……。
イギリスが、フランスのほうに来ようとしてかすこし歩みを進めてから、現教皇の男を振り向いて言った。
「わたしの大切な人の友人である聖女たちを、まさか罰したりはしないだろうな? 彼女たちは、友だち思いなだけだ。主の愛は、われわれの友愛にも通じる。そうだな?」
現教皇の男は、あきらめたように言った。
「……はい、皇帝陛下」
なんだか、本当に、かわいそう。
イギリスは、現教皇の男の返事を聞くと満足したのか、あとはまっすぐにフランスのもとまで来た。
軽々と城壁から飛び降りて、なんてことない感じで歩いてくる。
そうしてフランスのそばまでやってきて、フランスの腕にある縄をほどきながら、ブールジュや他の聖女たちに向かって言った。
「あなたがたの友人を、お借りしても?」
ブールジュが笑顔で答える。
「ええ、もちろん」
「感謝する。もし、あなたがたに困ったことがあれば、すぐに言ってくれ。帝国の皇帝は、あなたがた聖女を支援すると約束する」
「そりゃ、もったいないほどの、お駄賃です」
こんな時にまでふざけるブールジュに、フランスは笑いそうになりながら言った。
「ブールジュ。やめて、笑っちゃう」
ブールジュは、そのままふざけてうやうやしい態度で言った。
「行ってらっしゃいませ、フランス女公陛下」
「行ってきます」
ブールジュの笑顔を見てから、近くにいる人を振り返る。
会いたかった人の、優しい微笑みがそこにあった。




