第十三章 赫の芽吹き・赫が、赫たる証
1
廊下にただひとり佇んでいた禍眼導師・冥影は、卯月のウタヒの影響以外に、今、この邪馬統の裡で何かが起きている事を感じ取っていた。
直感的な違和感が、異能の気配を読み取る彼の第六感をざわつかせていた。
その時、
「導師っ、導師っ、大変です……!」
白衣姿の科学班主任――歳若い邪馬統神勅の医科学者が、真っ青な顔で廊下を駆けてきた。
額には汗がにじみ、呼吸も乱れている。
いつもは学問にしか興味のない無礼な男が、冥影を「先生」ではなく「導師」と呼んだ。
その事実だけで、何か非常なる事態が発生していることが分かった。
「……何事じゃ、騒がしき」
「どうか、こちらへ。すぐに。これは……ただごとではありません。蒼刃姫の――刀に付着していた血液から――」
「……刀の血だと?」
冥影の片眉がぴくりと動いた。
「そうです。戦闘後に回収された蒼刃刀――その刃に残されていた赫の血を……分析したのです。邪馬統の最新鋭の分子分光器を用いて……。それが……っ」
説明の途中で、科学者は冥影の袖を掴み、半ば引きずるようにして研究棟へと連れていった。
重々しい金属扉の奥、無機質な照明が天井からまぶしく降り注ぐ密閉された実験室。その中央のスクリーンに、今まさに投影されているのは――
「……これは……」
冥影が呟いた瞬間、背後のドアが密閉され、外界の音が遮断された。
スクリーンに拡大表示された、一葉のスライド。
そこには、血液の塗抹標本に特殊染色を施した画像が映し出されていた。
冥影はそれを一目見るなり、目を見開いた。
見間違えようがない。
常識を逸した数のヘムタンパク体、それらが規則正しく対称性を保った“星型の結合体”が、鮮やかに妖しく光っている。
その数、六百四十、それは禁色の構造体、陸珀肆拾量体血色素――。
かつて“赫の始祖”と呼ばれた者だけが持ち得たとされ、神代の記録にすら詳細な記述が残らぬ、“存在しえぬ血”、その存在しえぬ血の証を今、わしは眼の当たりにしている……。
「……ば、化け物め……」
冥影は、言葉を飲んだ。
蒼刃姫の刃に宿っていた血――
それは彼女のものではない。
つまり、戦いの中で蒼刃刀が切り裂いた“赫の一族”の血に他ならない。斎か、遥か?
「赫が赫たる証」、陸珀肆拾量体血色素とは、かつて邪馬統神勅の古くから伝わる、門外不出の邪馬統内での極秘教本のみに記されていた伝説上の物――だったはず。
赫の一族の中でも、神に限りなく近い、ずば抜けた異能力の持ち主こそが体内に宿す、超異能力の源と聞いている。
その伝説のそれが今、眼前に現実として冥影の眼前に曝されたのだ。
冥影は、スクリーンの前でしばし呆然と立ち尽くした。
頬の一筋に汗が伝う。部屋の温度は変わっていないのに、背中が冷え切っていた。
「まさか……これは……。いや、これでは……。これでは、我ら、邪馬統は……赫には……、赫には絶対に勝てぬ」
声にならぬ呻きを漏らすと、冥影は急に背を向け、研究員たちに振り返った。
「――よいか、このことは、わしが許すまで他言無用。たとえ、お館様に対しても、だ」
室内が凍りついたように静まる。
若き科学者は思わず息を呑み、立ち尽くした。
冥影は、右の瞼の下の刺青を一度指先でなぞると、誰にも向けずにぽつりと呟いた。
「……赫が、赫たる理由は、これであったか……。それも……遥、斎……おどれら、赫の一族は、まさか――ば、化け物か……」
その言葉の結びは、誰にも聞こえなかった。
ただ、鮮やかに赫く滲むように光を帯びたそのスライドだけが、スクリーンの中で静かに脈動していた。
2
冥影は、静まり返った地下の通路をひとり進んでいた。
儀式の間の灯火が背後で揺れ、足音のない歩みだけが空間に滲む。
歩きながら、ひとつの記憶が脳裏に甦ってくる。
二週間前に、八傑衆の一角、金狼侯・牙王が報告してきた、あの不可解な事件。
赫の兆候を報す、ひとつの予兆。
「導師。面倒な話がひとつある」
それが牙王の切り出しだった。
冥影がその声音に違和を覚えたのは、報告の内容ではなく、口調の端に滲んだもののせいだった。
怯え。牙王にしては珍しいことだった。
「場所は綾瀬。まだ骨組みの残るマンションの建築現場だ」
牙王は自身が、裏稼業として、資金洗浄を担うアンダーグラウンド経済圏のひとつに所属する新興ヤクザの幹部筋から依頼を受けた。
牙王は、金に目ざとい。
一時期、経済的に窮していた神勅の会に、いきなり五億円の現金と、古びた喫煙具を持って現れたことがあった。
物の価値、目利きにも長けた男であった。
その五億円と共に奪い取ったという一見、無価値な古道具にしか見えぬ喫煙具を、「これは、いいものだから法主様にお届けします」と、陣幕法主にうやうやしく献上した。
法主は、その喫煙具を事の他、気に入り、以来、風呂に入る時と寝床に入る時以外は、片時として、御身体から手離したことはない。
彼は、裏の世界に流れる資材、武器、情報、女……すべてを一瞬で換金できる術を熟知していた。
今や、世界規模の仮想通貨市場を席巻し、アンダーグラウンド経済界の風雲児との異名を持つ、『ウルフ・チップ・コイン』と名付けた仮想通貨プラットフォームは、その「金の出口」の一端にすぎなかった。
その夜、話があったのは“銅”だった。
牙王が支配する裏経済ネットワークのメンバーの一人、“トクリュウ”を使ったシノギを得意とするヤクザの幹部が企画した金稼ぎ。
目的は、現場に仮設で設置された大量の銅線。
電力供給を前提とした建設工区で、あまりにも高純度の銅線が眠っている。
これを狙わぬ者はいない。
仕事を依頼された牙王は、配下の窃盗実行班に盗みを命じ、現場周辺の警備排除のために、特殊部隊を一隊用意した。
「十二騎だ。黒の戦闘バイク部隊。外見は無骨な旧式だが、中身は現代の戦闘用に調整されてる。 重武装、 超加速、高制動、重火器対応、|防犯カメラ用作動妨害不可視化電磁シールドつき。言ってみりゃ、二輪のステルス高速戦車だ。当然ながら、部隊の龍騎兵たちも、ただの走り屋じゃねえ。人間相手なら、一時に、五人を秒殺できる連中だ。拳でも鉄パイプでも銃でもお手のものでな。万が一、警備員や警官が来ても、追い払える手筈だった」
冥影は、その言葉にかすかに眉をひそめていた。
「で、その十二騎がどうした」
「……壊滅した。たった一人の少年のために」
牙王の返答は、信じがたい内容だった。
「白い服を着た少年だ。十五、六に見えた。長身、痩躯、武器は何も持っていない」
だが、その少年は、警備会社が到着する前に現場に“現れた”。
盗みに入っていた実行班の様子を遠巻きに観察し――そして突入した。
「動きは……もう、なんというか、“線が見えない”。
一騎目はタイヤごと吹き飛んだ。二騎目は運転手の首を一撃で折られた。
三騎目は、車体ごと鉄骨に叩きつけられた」
動きにパターンはなかった。
ただ、破壊の連続。
まるで何か、制御を知らぬ生き物のようだったと、牙王は言った。
「三分……。三分ももたずに、十二騎の黒い戦士が、全滅した」
冥影の背に、薄く冷気が走った。
牙王が興奮しているわけでも、恐れているわけでもない。
ただただ、その事実に打ちのめされていた。
「奴が暴れている録画記録もある。だが、妙なんだ。画面が揺れる。白い影がちらつく。……が、何をしてるのかは見えない」
冥影は、その記録を見ていない。だが、牙王の言葉だけで十分だった。
「導師、俺は思うんだ。……あれは赫だよ。赫の一族の、相当深い領域にいる」
冥影は答えなかった。
ただ、心の中で幾つかの線が、ぴたりと結びつくのを感じていた。
十二騎のバイク――鋼板を鋳造したような重厚な外装。
全身を黒塗りし、電子モニタで覆われたフェイスガード。
轟音を撒き散らしながら、超高速で獲物を狩る彼等が、たった一人の少年によって沈黙させられた。
しかも三分ももたずに全滅。回避不能。
「アイツは、燃えてたわけじゃねえ。赫の焔みたいに火を使っていたわけでもない。
でも……“赫かった”。そうとしか言えねえんだ」
牙王の言葉の選び方は荒い。だが、感覚は正確だ。
赫の力が、焔や光といった外形を持たないこともある。
それは、存在そのものが“赫”――場を歪ませ、流れを変える。
この現象も、“赫が赫たる証”。
冥影は、歩を止めた。
帝都の地下を流れる霊脈が、わずかに逆流しているように感じる。
心臓の奥が、微かに熱を帯びていた。
牙王は、狩人の姿は少年だといった。すると、この力の主は、おそらく斎か。
まだ輪郭を持たぬ赫の焔が、この帝都のあちこちに息づいている可能性は確かに否定できぬ。
冥影は瞼を閉じ、深く息を吐いた。
赫の焔は、かつては血筋に沿って、慎重に継承されるものだと伝えられてきた。
だが、現代においては、時に“血”ではなく“呼び声”で覚醒する者がいるらしい、とも聞いている。
赫は単なる血液ではなく“脈動”となり、時代とともにその宿主を研ぎ澄ますというのか。
となれば、古来からの、血脈・血筋こそが、権力の本流と嘯く邪馬統の構造そのものが、今まさに足元から崩れようとしていることになる。




