第十四章 赫の芽吹き・獅子の掟
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強固な防弾ガラスに護られたペントハウスのダイニングルームには、朝の光が静かに降りていた。
帝都の上空を包む春の淡い陽射しが、地上から切り離されたこの静寂の空間に、やわらかな重みを添えている。
すべてが磨き抜かれた室内には、人の気配よりも光の律動のほうが先に漂っていた。
南向きに据えられた一面のガラス壁は、まるで都市の境界そのものを拒む結界のように、帝都の風景を静かに封じ込めていた。
そこから注ぎ込む陽光は、純白のテーブルクロスをほのかに透かしながら、銀製のナイフとフォーク、陶器の縁、ナプキンの折り目にさえまでも、繊細で柔らかな陰影を刻んでいく。
誰の声もしないのに、誰かが優しく語りかけてくるような――そんな、静謐で澄んだまばゆさが、そこには確かにあった。
朝の食卓についたのは三人――遥、孟谷、そしてお花茶屋。
斎の姿は……みえない。
孟谷は黒のスーツ姿にわずかに寝癖を残したまま、新聞を広げていた。
ページの一面には「磁気嵐問題、米国と共同対策へ」の見出しが踊っている。
だが彼の視線は記事を読むというより、文字の向こうに何かを睨んでいるようだった。
彼のテーブルの中央には、松阪、長大屋牧場特製の牛ヒレステーキが鎮座していた。
36オンス(約1kg)の厚切りステーキは、外側が香ばしく焼き上げられ、内側は美しい薔薇色を保っている。
その肉質は、まさに「唇で噛める」と称されるほどの柔らかさで、霜降りの脂が織りなす絶妙なバランスが特徴だ。
焼き加減はミディアムレアで、肉の旨味を最大限に引き出している。
孟谷は、コーヒーカップを置くと、肉に荒塩と黒胡椒を無造作に撒き散らして、ナイフとフォークを手に取り、ステーキを切り分け、無言で口に運んだ。
付け合わせの山葵菜を豪快に齧る。
その表情には満足げな色が浮かび、濃厚な肉の味わいを堪能している様子が伺えた。
一方、お花茶屋博士は、スモーキーなシングルモルトウイスキーとステットラーのチョコレート「パヴェ・ド・ジュネーブ」を前にしていた。
あたかもジュネーブの石畳を模したように静かに艶めく、濃密なカカオの香りを解き放つその瑞々しい生チョコレートが六片、均等な角度で並べられていた。
ダブル・スカッチで用意されたウイスキーは、アイラ・モルト、ラフロイグ10年。
その特徴的なピート香とヨード香が、朝の静寂な空間に拡散する。
これも、味のわからぬ者ならば、単に「ウイスキーの燻製」と揶揄するしかないほどの深々しい燻香を解き放っている。
遥は、まだ、用意された朝食に手をつけることなく、斎の不在を気にしていた。
彼女の視線は、空席の椅子に注がれ、心ここにあらずといった様子である。
斎の不在が、彼女の心に小さな不安の種を植え付けていた。
「斎は……?」
遥は、誰にともなく呟いた。
孟谷は新聞から目を離さず、
「奴ならば気遣いは無用だ、一晩寝たら、傷もふさがったそうだ。ぴんぴんしてやがる。飯も食わずに早朝から自室でイメージトレーニングを始めているらしい」
と、ぶっきらぼうに答えた。
お花茶屋博士は、ウイスキーグラスを軽く揺らしながら、
「未明に正気を取り戻した斎君は、孟谷君から、戦の帷の事で『アドバイス』をもらいました。それを踏まえ、自分の中のまだ至らぬ何かと向き合っているのでしょう。自我の確立を目指すというやつです」
と、穏やかに微笑んだ。
孟谷は、ステーキを口に運びながら、
「あいつは強い。簡単には壊れないさ。寧ろ、周囲を壊さないかが心配だ」
と、断言した。
お花茶屋博士は、チョコレートを一粒口に含み、
「強さとは、時に脆さを隠す仮面でもある。彼が本当に必要としているのは、彼の脆さを知り、優しく包んであげる理解者かもしれません」
と、静かに語った。
遥は、斎のことを思いながら、
「彼にとって、私はその理解者になれるのか……」
と、自問した。
ややもすると己の能力を過信して暴走するきらいのある斎である。生来、耳を聳てて群の中に常に居よ、という赫の一族の戒めを当然のように守り続けてきた遥からみれば、彼の立ち居振る舞いは、極めて乱暴にみえる。
能力に早くから目覚め、戦闘経験の豊富な彼の行為を理解しつつ、無謀な暴走にストップをかけられるかと問われたら正直、自信はない。
不安な表情を浮かべた遥に、孟谷が声をかけた。
「気に病むな、百点満点を目指すのはいいが、完璧主義に拘りすぎると、逆に大事なものを失いかねないぞ」
朝の光が、ダイニングルームを優しく包み込んでいた。
その光の中で、三人の思いが静かに交錯していた。
2
ヒレステーキを平らげると、孟谷は、静かに食卓を離れ自室に戻った。
時計は、まだ九時前だ。朝の光は柔らかく窓から差し込み、部屋の中を穏やかに照らしている。
しかし孟谷の心は、そんな穏やかな日差しとは裏腹に、陰りを帯びていた。
ソファに腰を下ろす。
昨夜の未明のことを思い出していた。
孟谷は斎が目を覚ましたと聴いて彼の部屋に行った。
部屋の扉を開けると、斎はベッドに寝転び、天井をぼんやりと見つめていた。
意外と顔色は悪くなかった。
むしろ、妙なほど静かで落ち着いていた。
「……助けてくれたんですね」
そう言って、斎は孟谷の方を見ずに呟いた。
孟谷は答えず、ドアを閉め、部屋の中央に立った。
斎の視線は、どこか別のものを見ていた。
孟谷が口を開けた。
「穴だらけの戦の帷を張ったな、まあいい、最初から完璧なやつはいない。それより聞きたいことがある、綾瀬でバイクギャングを襲い十二人を嬲り殺し、神宮寺学院の田所教師を殺ったのはおまえか」
斎は一瞬だけ目を細め、そして笑った。
あまりにもあっけらかんと答えた。
「ばれたか」
「お前の他にいるか、俺の眼は誤魔化せないぜ」
孟谷は静かに言った。
その口調には怒気はなかった。だが、圧はあった。
斎は身を起こし、ベッドの縁に腰をかける。
足をぶらぶらと揺らした。
沈黙が落ちた。
斎はうなだれるでも、逆上するでもなかった。
ただ、目の奥にある種の"開き直り"の色があった。
孟谷は壁に寄りかかり、腕を組んだ。
「お前、『デクスター』って、知ってるか?」
斎は目をしばたたかせた。
「マイアミメトロ市警に勤めるデクスターって連続殺人鬼が主人公の?」
「ああ。殺人鬼だけど、掟を持ってる。ハリーの戒めってやつだ。彼の殺人衝動を知っている、親父のハリーが息子に教え込む。"殺したいという衝動は止められない。でも、選べ"って」
斎は無言で聞いていた。
孟谷はゆっくりと足を組み替えた。
「俺も、一々、お前の"衝動"を止めようとは思わん。だが、お前が殺していい相手と、殺してはいけない相手ぐらい、選べるようになれ」
「選んださ。バイクギャングもあの教師も……」
「言い訳はするな」
斎の口が閉じた。
孟谷の声には、普段よりわずかに熱があった。
「いいか、この国では、いかなる理由があっても、義憤に駆られての殺人は許されない。許されるのは、正当防衛か、心神喪失状態でやらかしたか、だけだ。バイクギャングはともかく、田所教師は、少なくとも表の貌は『善良な一市民』だったはずだ。正当防衛になんかならない。斎、お前の胸の焔は、確かに強い。誰よりもだ。だがその強い焔は、迷える者の脚元を照らす灯にもなれば、国中に限りない災厄をもたらす原子力発電所の炉心融解の起爆剤にもなりえる」
「……じゃあ、俺は一体、どうすればいいんですか?」
孟谷は答えず、しばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりと口を開いた。
「だから、掟を教えてやる。ハリーの戒めじゃない。獅子の戒めだ」
斎は目を見開いた。
「とにかく――捕まるな」
斎はしばし固まった。
何かを期待していたのか、それとも、何も期待していなかったのか。
しばらくのち、彼は、プッと小さく笑った。
「なるほど。それが"正義"の戒めですか」
「正義の定義は、人それぞれで曖昧だ。だが、お前が"生き延びること"は、お前に与えられた絶対的天命だ、捕まってしまってては生き延びられん。お前が、陰で、これまでやってきたことは、この国の司法では、もはや、万死に値する。死刑台の露に消えるのが望みならともかく、いいな、絶対に、捕まるな……」
孟谷は顔を寄せ、斎の額を人差し指で軽く弾いた。
「それでも、やろうって時は事前に一声かけろ。バレてもなんとかなるぐらいのお膳立てならしといてやる……いいな?」
斎は、しぶしぶと頷いた。
ただ、少々、不貞腐れてはいるようだった。
自分のやって来た事に、けちをつけられて愉快な人間はいない。
孟谷はソファに寝そべった。そっと呟く。
「頼むから、無茶しないでくれよな、斎の旦那……」
孟谷は、ソファに拡げた新聞を手に執った。




