第十二章 赫の芽吹き・愛づる
1
癒しの間には、夜の帳が静かに降りていた。
天井の欄間から吊られた銀の灯火が、柔らかく揺れる。
その淡い光に照らされた寝台の上で、弥生は目を閉じていた。
癒しの呪帯はすでに取り外され、今は薄い絹の包帯が肋を巻いている。
痛みが引いたわけではない。
だが、弥生の呼吸はわずかに深く、整っていた。
その横に侍る、卯月。
白と藍の礼装を脱ぎ棄て、今は薄衣に身を包んでいた。
深藍の長髪が櫛けずられたまま結ばれず、肩にふわりと落ちた。
ふたりの間には言葉がなかった。
もはや、言葉は必要がなかった。
長い沈黙の後に、弥生が先に口を開いた。
不意に吹いた風が外の小枝を鳴らした時だった。
「……どうして、来たの」
声はかすれていた。が、冷たくはなかった。
「お姉様に呼ばれた気がしたのです」
卯月は膝を折り、弥生の横に腰を下ろした。
「なれば、勝手に……駆けつけました。巫女としては、仕置きを受けることだと思います」
「馬鹿ね……」
弥生は目を閉じたまま言った。
しかし、声には微かな揺れがあった。
「でも……来てくれて、嬉しい……」
卯月の指先が、弥生の手の甲に重なった。
小さな、温かな、かすかなぬくもり。
「お姉様。……傷は、痛みますか」
「うん。まだ、息をするたびに」
「じゃあ……今夜は、私、眠らないで、お姉様のお身体をおさすりしましょうか」
その提案に、弥生は小さく笑った。
「駄目よ。眠らないと、卯月まで倒れる」
「……それでも」
卯月の声は真剣だった。
その瞳には、深い愛情と、何かを背負う決意が宿っていた。
やがて、弥生が静かに身体を横向きにし、空いている片腕を開いた。
「入りなさい。……冷えるでしょう」
卯月は、驚いたように瞬いた。
だが、何も言わず、そっと布団の中に身を滑らせた。
肩と肩が触れた。
弥生の呼吸が近くで感じられた。
張り詰めていた空気が、少しだけ緩んだ。
長い沈黙が、今は心地よい。
「お姉様は……私のこと、どう思ってますか」
卯月の声は、ごく小さく、震えていた。
弥生は、しばらく黙っていた。
その沈黙が、卯月の心をじわりと締め付ける。
だが、やがて返ってきた声は、思いがけず優しかった。
「私が初めて、あなたを見たとき。……こんなに小さな子が、と思った。そのとき、感じたの。……私が一生涯、この子を護らなくちゃって」
卯月は目を伏せた。
視界が滲む。
「でも、私……護ってもらってばかりで」
「いいのよ。そういうものよ、姉妹って」
弥生の手が、そっと卯月の髪を撫でた。
その手のぬくもりに、卯月の身体がわずかに震えた。
そして、喉の奥から、ことばにならない言葉が漏れた。
「お姉様……すき、です」
それは、姉妹の愛情だった。
それは、孤独を埋める祈りであった。
それは、小さな命が震えるほどの、言霊だった。
卯月の声が、想いが、無意識のうちに愛のウタヒとなって放たれていく。
その響きが、空気を震わせ、弥生の痛みを、少しずつ、包み込んでいく。
「……変な子ね」
弥生は、そう言って微笑んだ。
ふたりは、布団の中でそっと身体を寄せた。
指先が、手の甲に滑る。
頬が触れ合い、鼻先がかすめる。
弥生が小さく息を飲んだ。
「ごめんなさい、お姉様。私、いま……どうしても、こうしていたいのです」
「……いいのよ」
卯月の額が、そっと弥生の胸に当たる。
弥生の腕が、柔らかく妹を包み込む。
沈黙が、長く続いた。
そしてその沈黙の中で、ふたりの胸の鼓動が、ゆっくりと重なっていく。
「眠れそう……?」
「うん……」
「じゃあ、寝なさい」
「お姉様は?」
「……一緒に、眠るから」
その言葉に、卯月はようやく目を閉じた。
寝台の上で、姉妹はひとつの影のように寄り添っていた。
戦いに傷ついた姉と、癒しの想いをその身に宿した妹。
そしてその部屋の外では、夜が静かに満ちていった。
2
夜は更けていた。
癒しの間の障子の外では、誰も声を発していなかった。
月の光すら届かぬ廊下に、ただ微かな灯火と、見張りの巫女たちの気配だけが在った。
それでも、気の流れは確かに変わりつつあった。
静かだった部屋の中で、姉妹は静かに寄り添っていた。
弥生は深くは眠っていない。
だが、まぶたの裏で何かがほどけていくような、そんな柔らかな感覚に身を預けていた。
体の奥の痛みが、遠のいていた。
卯月の小さな掌が、自分の胸のあたりに触れている。
熱くはない。
だが、その温もりが、痛みに呼ばれた心臓の鼓動を和らげる。
言葉ではない声が、空間に満ちていた。
それは直接耳には聞こえない。
されど、自ずと、それは伝わってくる
肌に感じる。
骨に沁みる。
心に触れる。
“愛”という名の、深く、静かな波動。
それはまるで、目に見えぬ風のように、部屋の四隅を満たし始めていた。
廊下を歩いていた巫女のひとりが、歩みを止めて、ふと胸元に手を当てた。
「……あら……?」
動悸を感じたわけではない。哀しいことがあったわけでもない。
しかし、なぜか涙がこぼれそうになった。
理由はなかった。
誰かの温もりが、だれかの胸の奥に流れ込んできたような、不思議な感覚。
もうひとりの巫女が顔をしかめた。
「……妙ですね。気の流れが、変です」
普段なら気づきもしない程度の違和感。
されど、ここは聖域である。
場の“気”のわずかな変化さえ、霊感を有する者ならば、すぐに察知できる。
さらなる奥、回廊の影に立っていた信徒の男が、ひとつ息を吐いた。
「懐かしい……」
ふと漏らしたその言葉に、傍らの者が怪訝な顔を向ける。
「何がです?」
「いや……昔、病に倒れた時に、妻にそっと手を握られたときの、あのぬくもりを、何故か、俺は今、感じている……」
「……?」
それ以上は語らなかった。だが、その場にいた誰もが、同じように“何か”を感じていた。
一方で、冥影は書斎の書見台の前にいた。
乾いた羊皮紙の古書に目を落としながらも、視線は動かない。
しかし、その“気”には明らかに反応していた。
――ただの癒しのウタヒではない。
彼は静かに立ち上がり、廊下に出た。
癒しの間の、障子のほうへと目を向けた。
「愛のウタヒ……か」
低く呟いた声には、驚きよりも納得があった。
力とは、常に拳や剣だけに宿るわけではない。
それは、心にも宿る。
人の心を揺らすもの。
人の心を包むもの。
そして、抗いがたく、人の心を“惹き寄せるもの”。
おのずと中から溢れ出すものがある。
名前をつけるとするならば、ただ一つ、“愛の力”としか言えなかった。
弥生が、微かに瞼を開けた。
その瞳が、静かに卯月を見つめている。
「……不思議ね」
その言葉が、かすかな息とともにこぼれる。
「何もしていないのに……痛みが、遠くなってきているの」
卯月は、目を細めた。
自分のウタヒが、愛の言霊が、確かに弥生に届いていることを悟った。
「……お姉様。私は、ここにいます。どこにも、行きません」
冥影は、廊下の奥に立ち止まり、その光景をそっと見守っていた。
異能を宿した彼の禍眼は、癒しの間を廊下から隔てる障子を透かして、室内を覗うことができる。
寝台で抱き合う、二人の影。
卯月が、ひとつ、ゆっくりと息を吐く。
卯月はただの癒し手ではない。
卯月のウタヒは、場を変え、人を動かす。
ひょっとすると、赫と邪馬統の垣根をも、あるいは越えていくやもしれぬ。
もっと苛烈な、現世の中の悍ましい争いをも、乗り越えるやもしれぬ。
禍眼導師・冥影の目に、ある種の“怖れ”が揺れた。
夜は、なおも静かだった。
だが、確かに何かが変わり始めていた。




