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第十一章 赫の芽吹き・姉妹

  1


 朝の白石廊には、清めの音が静かに響いていた。




 白石廊――それは邪馬統神勅の聖域にあって、もっとも静謐(せいひつ)なる場所のひとつであった。




 礼拝堂の外縁をぐるりと囲むように設けられたこの回廊は、全面が、穢れを知らぬ白大理石で造られており、壁も床も天井も、やわらかな灰白の光を帯びていた。




 柱と柱のあいだには、等間隔で磨かれた格子窓が並び、朝の斜光が差し込んでは、廊下の一部をほのかに金に染めていた。




 気温の低い朝には、石肌がほんのりと結露を帯び、履き物の音が吸い込まれるように小さく響く。




 その静けさは、ただの建築的な静寂ではない。神の領域に近づけた者だけが、感じることが可能な、極めて霊的な静寂であった。




 そこでは、数人の巫女見習いの少女たちが、手にした箒を静かに動かしていた。




 長い柄の先を、音を立てぬように石の継ぎ目に添わせ、細かな塵を集めては、布巾で拭い、また整える。




 陣幕卯月じんまくうづきもまた、そのひとりだった。




 深藍の髪を肩の前に垂らし、白と藍の礼装の袖を汚さぬよう気をつけながら、石床を丁寧に掃き清めていた。




「ここは、神様の御息がお通りになられる場所だから」




 姉、弥生が教えてくれたときの言葉だった。




 ただ単に掃除をするのではない。霊場を整え、神気を澄ませるという行いそのものが、邪馬統神勅の巫女にとっての初歩はじまりなのだ。




 箒の先が、白く磨かれた石床を撫でるたびに、ほのかに湿った砂の音が耳に心地よく響いた。




 その細やかで優雅な所作を担っているのは、邪馬統神勅の巫女見習いの一人――卯月だった。




 黒に近い深藍の長髪が、小さく揺れるたびに、和やわらな光を帯びる。




 白と藍の礼装は端整で、凛とした線を描きつつも、まだ未熟な巫女の幼さと、どこか儚げなる神性を帯びた、余りにも可憐な愛おしさを同時に漂わせていた。




 朱の袴の裾がわずかに翻るたび、軽やかな草履の音が石の回廊にやさしく響く。




 卯月は十五歳。




 齢の割に言葉少なく、表情も薄いと評されることが多いが、実際は感情を深く内に秘める質だった。




 仲間の巫女見習いたちにも分け隔てなく接し、掃除や祈祷の習礼には一切の手抜きを許さなかった。




「卯月様、もうそんなに丁寧に……。誰もそこまで見てませんわよ」




 同輩のひとりがからかうように笑いかける。




 卯月はふと手を止め、顔を向けた。小さく微笑んだが、答えは返さなかった。




「もしかして、またお姉様のことを考えていたんでしょう?」




 その言葉に、箒を持つ手がほんの一瞬だけ止まった。




「……考えて、いたの……、かもしれませんね」




「本当にお慕いしてるのですね、蒼刄姫様のこと」




 その言葉に、卯月はただ、静かに頷いた。




 弥生は、自分とは異なる聖域サンクチュアリに立つ闘いの女神ディーヴァだった。




 剣を振るい、人の世の闇を斬る。




 戦場に立つことはない。




 刃を振るう資格もない。




 自分は癒しの言霊を学ぶだけの、蔭で仕える者……。




 その決して辿り着けない距離が、ただ、余りにも遠くて、ただ、ただ眩しかった。




「――卯月様」




 ひときわ低い声が、廊の入口から届いた。




 振り返ると、黒衣の信徒が一人、廊下の端に立っていた。




 表情がない。あるいは、沈痛そのものだった。




 ただ、その佇まいがすべてを語っていた。




 卯月の胸がざわついた。




 箒を握る手に力が入る。




「……何か、あったのですか」




 問いながら、すでに答えは半ば理解していた。




「蒼刄姫様が――」




 その言葉が発されるよりも前に、卯月は箒を取り落としていた。




「ど、何処……ですか……お姉様は」




 声が震えている。




 巫女たちの視線が集まる中、卯月は歩み寄り、その答えを待った。




「地下聖堂。制裁の間です。大変な深傷ふかで――とのことです」




 儀礼の言葉ではなかった。




 信徒の声が、それだけで事態の重さを告げていた。




 卯月は、一歩、二歩と、無意識に後退った。




 視界が揺れる。息が浅くなる。




「お姉様が……」




 自分の声が、まるで他人のように遠く感じられた。




 巫女たちが騒ぎ始める。誰かが手を伸ばそうとした。




 だが、卯月はそれを振り払い、踵を返し、走り出した。




 草履のまま、白石廊を駆ける。




 いつもなら歩を整え、音を立てぬように運ぶその足が、




 いまは激しく、焦りのままに、早鐘のように石床を叩いていた。




 巫女としての所作も、心得も、このときばかりは頭から完全に抜け落ちていた。




 胸の中には、ただ一つの言葉しかなかった。




 ――お姉様を、助けなくては!




 草履の音が、白石廊を震わせて響きつづける。




 巫女としてあってはならぬほどの勢いで、卯月は礼拝殿の回廊を駆け抜ける。




 いつもは慎み深く歩くこの回廊も、今日は冷たい石畳がやけに遠く、険しい。




 地下聖堂への階段は、西棟の影に隠されるように続いていた。




 大理石の段を一段ずつ踏みしめながら、息は浅く、呼吸は乱れている。




 体力がないわけではない。だが、胸が重く、考えが追いつかない。




 頭の中でただひとつの言葉が何度も渦巻いていた。




 ――お姉様が、倒れた。




 信徒の声が冗談や錯覚であるはずがなかった。




 誰よりも強く、誰よりも冷徹で、そして誇り高い、あのお姉様が――。




 (ありえない……)




 だが、そう願う自分の心こそが、現実を受け入れつつある証拠だった。




 聖堂へ降りる階段の中程で、卯月はふと足を止めた。




 手すりを握る指が震えている。視界の端がわずかに霞む。




 頭に浮かぶのは、幼いころの記憶だった。




 まだ物心もおぼつかない自分に、弥生は手を差し伸べてくれた。




 鍛錬で失敗し、泣きそうになったときも、笑わず、責めず、ただ隣に立っていてくれた。




 あの澄んだ声で言ってくれた。




 ――おまえは、私の妹だ。胸を張れ。




 誰からか「血は(つな)がっていない」と言われたことがある。




 あの猛々しい弥生様と、弱々しい卯月様の間に、血の繋がりがあろうわけがない……。




 卯月はそんな噂は信じない。




 あの眼差しを、あの背中を、妹として慕ったのは卯月自身だ。




 (私が、今……行かなくて、誰が行くの……)




 唇を噛みしめ、涙をひとつ呑み込んで、再び階段を下る。




 やがて、地下聖堂への最後の鉄扉が見えてきた。




 両開きのその扉は、異様なほど静かだった。




 まるで彼女が来るのを拒んでいるかのように、そこに"気"が沈殿している。




 足を止める。




 手が伸びない。




 ――見たくない。




 弥生が、傷ついた姿で横たわっているのを。




 あの誇り高い姉が、誰にも見せたことのない弱さを見せているのを。




 でも。




 ――行かなければ。




 物心ついた時から、父、源治からの慈愛が自分だけに注がれていたことに、卯月はずっと引け目を感じていた。




 弥生は誰よりも健気に戦い、邪馬統のために貢献してきた。




 それなのに、父からは、何故かいつも冷たく、突き放されていた。




 それでも――




 お姉様は、自分を妹と呼んでくれた。




 卯月は、両手で扉を押した。




 冷たい鋼の感触が、掌に重くのしかかる。




 軋むような音とともに、聖堂の空気が彼女を包んだ。




 薄暗い聖堂の奥。




 石畳の中央に、誰かが倒れている。




 白い礼装の背が、ゆるやかに呼吸をしているのが見えた。




「……お姉様……」




 その名を呼んだ瞬間、喉が詰まった。




 それでも、卯月の足は止まらなかった。




 床を蹴るように走り出す。




 装束の裾がひるがえり、髪が風に舞う。




 涙が、もう抑えられない。




「お姉様あっ……!」




 叫びにも近い声が、冷たい空間に響いた。




 それは悲鳴にも、祈りにも聞こえた。




 その場に膝をついたとき、弥生の顔は蒼白で、唇に色がなかった。




 胸の帯に結ばれた癒しの呪帯が、かすかに震えている。




 ひときわ深い血の色が、彼女の脇腹から床へと流れていた。




「……お姉様……どうして……どうして、こんな……」




 卯月は弥生の名を呼びながら、その額にそっと手を当てた。




 その手は震え、冷えていた。




 けれど、(くずお)れた姉に伝えたかった。




 ――卯月は、ここにいます。決して、卯月はお姉様のおそばをはなれません。




 涙で滲んだ視界の向こうで、弥生のまぶたがわずかに揺れた。

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