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6. 名を呼ぶ人


「——さて、諸々話してもらおうか」


「もう寝るから無理」


 部屋に戻ると同時に姿を現したズィが言ったことを、マレはにべもなく断った。


 ぎゃんぎゃんと叫ぶズィを放置して、マレはネグリジェに着替えてしまう。


(さて、今日はどのくらい入れたのかしらね……)


 自室まで歩いてくる過程で体中に回ったのか、すでに体温が下がり頭が朦朧としている。


 若干あからさますぎる気がしないでもないが、察しの悪い姫を演じてきた甲斐があって、最近はこのようなものだ。


 そもそも通常時からマレの部屋に届けられる水差しには時折不純物が紛れ込んでおり、その時も体調は崩すわけだから、今日が特別というわけでもない。


 着替え終わって顔を出したマレに再び質問を試みようとしたところで、ズィはマレの顔色の悪さに気がついたようであった。


「……そなた、どうしたのだ」


「別に、疲れただけ。ああそうだ、寝る前に話があるわね。願いが一つ思いついたの」


「あ、ああ。願いは聞くが、今は休んだ方が」


「座ってちょうだい」


 席につくよう促すが、ズィは苦い顔で「後にしろ。今は休め」と繰り返して寝室に連れて行こうとする。


 手を引くズィに抵抗しながら彼の体温を感じ、その温かさに思考がさらに曖昧になる。


(あら……もしかして私は今、心配されているのかしらね)


 求めていないが、昔を思い出して単純に懐かしい気持ちにはなる。


「いいから話を聞いて」


「分かったから。ほら、歩けるか?歩けないなら運んでやる。特別だぞ?」


 駄々をこねる赤子を相手するかのような発言に体調不良も相まって、マレは無意識に意地を張ってしまった。


 抱き上げようとしてくるズィを押しのけながら、言いたいことを言ってしまう。


「晩餐での話を聞いていたでしょう? 従者が必要なの。あなた、なって」


「はいはい。分かったから寝るぞ」


「……」


 本当に分かっているのだろうか。


 神に従者をやれと言うことが不敬であることくらいはマレの朦朧とした頭でも理解できているので、ズィはおそらく話を聞いていないのだろう。


 とはいえ、マレももう限界だ。


 ふわふわと意識が遠のき、ズィが自分を持ち上げて運んでいるのを随分と遠くに感じる。


「——安寧の夜と祝福の朝を」


 現在まで残った数少ない古い言葉の一つである夜の別れの挨拶が聞こえる。


 マレはずっと昔に亡くしたものを少し、思い出した気がした。




 ***




「ねえお兄様……マレって呼んでください」


「んん? どうしたのさマレ。あ、もしかして今日は一日王城にいたからマレって呼ばれなくて寂しかったとか?」


 部屋の中は薄暗かったが、寝台の上でマレにくっついて寝転んでいる少年が穏やかに微笑んでいるのはよく分かった。


 彼が外では「冷徹な美貌に違わず中身も氷のようである」などと評価されているのは知っているが、マレと二人きりのときはいつも笑顔だったからだ。


「私はマレ・フィランですもの。エメリアって呼ばれるのが嫌というわけじゃないけれど、お兄様たちにマレって呼ばれるのが一等好きだわ」


「ふふ、そうかいマレ、僕たちの宝……さあ、そろそろ眠る時間だよ」


「まだ嫌です……今夜はお父様とお母様が、お部屋までおやすみのご挨拶に来てくださると仰っていたもの」


「そうは言っても眠そうじゃない」


「眠くなんてないわ!」


「おやおや、フィランの姫君は我儘でいらっしゃる」


「まあ! お兄様は意地悪だわ…!」


 幼い妹の主張に笑い声を上げながら頭を撫でてくれる少年に、マレはくふくふと笑いながら身を寄せた。


 そのとき、マレの耳にノック音が聞こえ、部屋の扉が開けられた。


「お父様! お母様!」


「まだ起きていたのかい、フィランの宝たちよ」


「マレ、冷えてしまうからきちんとデュべに包まらなきゃ」


 寝台のそばまで来た男女に抱きつこうと身を起こしたマレはしかし、腹に回された少年の手によって温かい上掛けの中に引き戻される。


 きゃあきゃあ叫ぶマレを微笑ましく思いながら眺める男女に、少年が「マレは、今日エメリアとばかり呼ばれていたから寂しいそうですよ。父上と母上にも名前を呼んでほしいそうです」と言った。


「まあ、お姫様に寂しい思いをさせていたなんて! マレ、私たちのマレ()。外の人がいるときにあなたのことをマレと呼ぶことはできないけれど、そうでないときにあなたが私たちに名前を呼んでほしければいつでも言っていいのよ」


「その通りだ。いつでも、何回でも。僕たちは君のことをマレと呼んであげよう」


「本当? ずっと?」


「ああ、ずっとだ」


「約束よ?」


「ええ、約束」


 歓声を上げて喜ぶマレだが、すぐに眠気が訪れた。普段であればとうに夢の中にいる時間なのだ。


「ほらマレ。もう眠る時間だ」


「また明日、たくさんお話ししましょうね」


「……僕の小さな妹に、安寧の夜が訪れますように。その向こうに待つ祝福の朝、あなたと言葉が交わせますように……おやすみ、愛してるよ」


「わたしも、お兄様と、お父様と、お母様のこと、愛してます……ずっと、ずっとよ…………」


 マレを囲む3人が小さく笑い、順番に額に口付けしてくれたのを遠のく意識の中で感じた。


 何からも守られて大切にされていたマレの世界は、幸せに満ちていた。




 ***




(ずっと名前を呼んでくれるって、約束したのに………)


 一人暗闇の中で目が覚めて、うっすらと覚えている夢を心の中で反芻した。


 そうやってどれだけ忘れないようにと努力しても、繰り返す夢の中の家族の顔は、靄がかかったように思い出せなくなっている。


 彼らがマレと同じく人々に賞賛される美貌を持っていたのは知っているが、それだってもう、ろくに覚えていないのだ。


 マレをマレ()と呼んで愛してくれたあの人たちは、もういない。


「マレ」


「っ! うぁっ……!」


 静寂の中に突然響いたその呼びかけに、マレは自分でも驚くほどに体を震わせた。


 同時に頭を締め付けられたような激痛が走って、寝台の上で体を丸める。


「すまない! 驚かせるつもりはなかったのだが!」


 駆け寄ってきた男を薄目で確認すると、当たり前のようにズィがいた。


「ほら、そなたの部屋には水差しがなかったから、適当に取ってきたのだ。人間は水がなければ死ぬのだろう? きちんと常備しておけ」


「……」


 毒を与えた後に水が部屋からなくなっているのはできるだけ長く苦しませるためで、誰の命によるものかは知らないがいつものことである。


 マレが晩餐会に出ている間に何者かが水差しを取っていったのだろう。

 ついでに何か不都合なことを企んでいないかと散らかった部屋を漁られているはずだ。


 ズィは何も持っていなかったはずの手の中から美しい玻璃のグラスを生み出し、どこからか手に入れてきたらしい水を注いだ。


 一人で身を起こすこともできないマレの背を支え、少しずつ水を含ませる。


「まだ体調は優れぬか」


 小さく首を振ると、ズィは「そうか」と呟いた。


 そうして再びマレの体を横に倒し、捲れた上掛けを肩まで掛け直す。


「まだ朝は遠い。そなたには聞きたいことがたくさんあるからな。元通り元気になるが良い。ああいや、そなたは普段からそう元気溌剌という感じではないか」


「余計な……お世話……」


「はいはい、いい子だから。もう一度眠れ……」


(束の間だったはずの意識の浮上の中、私の名を呼んで驚かせたのはあなたではないか)


 マレを呼んだのは兄ではない。

 父でも、母でもない。


 つい先日出会ったばかりの変な人だ。


 それでも、遠い記憶の中の名を呼ばれたことがあまりにも嬉しくて。


(頭いたい……)


 目の奥が熱くなって、頭が痛くて。


 二度目の眠りで、夢はみなかった。


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