第13話 行き先を変えるだけの魔法
鉤竿が小袋の索を引っ掛けた。船員は袋を甲板へ置かず、空の桶へ直接落とし、蓋を押さえた。隙間から、生臭さの中に甘い油を混ぜたような匂いが漏れる。
水面にはまだ黄色い筋が残っている。小型海魔はその跡を追い、船尾で何度も向きを変えていた。
「取ったのに、まだ来るのかよ」
ジュールは手摺の外へ片手を出した。掌を下へ向け、息をゆっくり吐く。船腹へ寄りかけた二つの影が、同時に沖へ折れた。
ハーディは水面と彼の手を交互に見た。
「今の、君の魔法?」
「うん。あっち行けってやると、時々、そっちに行くんだ」
「全部、動かせる?」
「全部は無理だよ。餌があると、全然こっちの言うこと聞かないし」
ジュールは額の汗を袖で拭った。呪文も魔法陣もなく、船縁に刻まれた術式の光にも変化がない。本人の資質で使う固有魔術なのだろう。
同じ方向に揃うだけでも、ずいぶん違うんだな。
ハーディは自分の固有魔術で水面を細く押し、船尾から海魔の間へ流れを作った。尾を叩き付けられた水が手摺まで跳ねる。無理に弾けば、舵の方へ追い込んでしまう。ジュールが向きを変えた影から順に、流れの外へ逃がした。
「左は空けて。船長が戻すから」
「分かった」
ジュールの声は短い。二人が海魔を離した隙に、船尾の船員が索を巻き上げた。
沖の小船から、鈎の付いた綱が飛んできた。
白鷗号の右の手摺へ掛かる寸前、船員が柄の長い斧で叩き落とす。相手の船首には盾を持つ男が立ち、その後ろで別の男が弩を起こしている。
「伏せろ!」
ハーディはジュールの袖を引いて樽の陰へしゃがんだ。矢が甲板を打ち、跳ねた木片が手に当たる。
「海賊だ。右へ寄せるな!」
船長が怒鳴る。白鷗号の船員も盾を運び、手摺の内側へ立てている。舵取りは腰を落とし、風を受け直す帆を見上げていた。
海魔に足を止めさせて、横から乗り込むつもりだったのか。
袋を誰が結んだかは、まだ分からない。だが、今綱を投げてくる連中と、話し合う余裕はなさそうだった。
「俺たちは下がっていよう。船から離れたのまで戻さなくていい」
ハーディが言うと、ジュールは樽の隙間から水面を見た。
「あっちの船の方なら、いけるかも。ちょっと、やってみる」
沖側では、散った海魔がまだ群れている。ジュールが掌を外へ向けた。先頭の一匹が弧を描き、残る影も小船の船尾へ続く。小船の男たちが振り返り、綱を投げる手を止めた。
その時、白鷗号の下が暗くなった。
帆の影よりも広いものが、深い所を通っている。
ジュールの指が強張った。小型海魔がばらばらに散り、黄色い筋からも離れていく。船底をこする低い音が、靴裏から膝へ伝わった。
「駄目だ。あのでかいの、全然聞かない!」
「手を引いて」
ハーディは彼の肘を押し戻し、手摺の内側へ立った。
右舷の先で、褐色の背が海を割った。貝殻のような板が重なり、その間を短い棘が縁取っている。船長が何かを叫んだ。聞き慣れない海魔の名らしい。
「普通は、あんなのが来るのか!」
ハーディは声を張った。
「もっと沖だ! この湾では見たことがない!」
船長が返す。大型海魔は白鷗号の側面へ向き直った。鼻先が水を押し、甲板の端が傾く。ハーディは短杖の銀環へ指を添えた。
殻の硬さを試してる場合じゃないな。
「舵はそのまま。船から押し離します!」
固有魔術で船と海魔の間に水を盛り上げた。最初の波は低く、褐色の背をわずかに持ち上げただけだった。押し返す重さに、杖を握る手が沈む。腕を上げ直し、海魔の頭を沖へ向けるよう、流れを斜めに走らせた。
足元で樽が軋む。船員が留め綱を握り、ジュールが滑りかけた桶を押さえた。
水をまとめて押すだけでは、船も同じ波に持ち上げられる。ハーディは一度に動かす幅を狭め、海魔の鼻先から肩へ流れを移した。板のような背が水を割る度、押す力の掛かり方が変わる。殻の間をのぞこうとして、すぐに視線を先へ戻した。
今、気になってる場合じゃない。曲がってくれれば、それでいい。
ジュールが桶を押さえたまま、船尾の方を指した。
「おい、小さいのが戻ってくるぞ!」
「船から離れる方へ向けられる? 遠くまで連れていかなくていい」
ジュールは片膝を床に置き、空いた手を低く伸ばした。散った影のうち、船のすぐ後ろにいた二匹が横へ流れる。その間に船員が足を踏み替え、帆を受ける綱を引いた。誰か一人の手が止まれば、次の動きも止まる距離だった。
ハーディは奥歯を噛み、船から遠い側の水へ力を集めた。風に持っていかれた飛沫が顔へ掛かり、片目が開けづらい。袖で拭く代わりに瞬きを繰り返す。大型海魔の背が沈んだ直後、船首見張りが手摺をつかんだ。
「もう一度、来る!」
船首見張りの声に、ハーディは押す位置を変えた。大きな背が近づく手前で、水中に短い光を走らせる。目の前の閃光に海魔が首を振り、沖へ向いた腹を、もう一段強い流れで押した。
仕留める必要はない。港と、あの小船からも離す。
短杖の先を下げ、白鷗号に沿う流れを切った。海魔は大きく尾を振り、白い泡の向こうへ沈んだ。ハーディはその背の向きが外海へ変わるまで見届けた。
袖の中が汗で冷えている。指を開くと、銀環の跡が掌に残っていた。
「離れた。戻ってくるかは分かりません」
「十分だ。全員、持ち場へ戻れ!」
船長は返事と同時に帆を指した。白鷗号が速度を上げる。小船では海魔を追い払うために竿が振られ、こちらを追える様子はない。
防波堤の上には、旗を振る港の見張りが見えた。そこから巡視船が出てくる。ようやく手摺を離すと、ジュールが座り込んだ。
「……向きを変えただけだぞ。何だよ、まだ震えてる」
膝へ落とした手が、まだ震えている。
「それで船を離せた。俺だけなら、小さいのまで見てなきゃいけなかったよ」
ハーディも樽に背を預けた。足の裏には、海魔が擦った時の感触が残っている。
船を見るだけって、岸からにしとけばよかったか。……いや、あの巻き上げ具は面白かったんだけど。
ジュールが顔を上げた。頬には塩の白い跡が付いている。
「なら明日も工房に来いよ。まだ見せてないのがあるんだ」
「明日は、揺れない所がいいな」
白鷗号が防波堤の内側へ入ると、船長も初めて大きく息を吐いた。
桟橋の人々がこちらへ走ってくる。綱を受け取る手が見え、岸の声が聞き取れる距離になっても、ハーディはすぐには立てなかった。ジュールが先に膝へ手をつき、彼の分まで手摺を空ける。
「まだ立たなくていいって。ほら、板も来てないしさ」
ハーディは頷いた。海の上では半刻に満たなかったはずなのに、朝に渡った板が、ひどく遠く感じられた。




