☆5話:お忍び大作戦! 平民の恋と、幼馴染の最終手段
ソキュペ伯爵家の自室。
まだ薄暗い明け方、ミハイル・ソキュペはベッドに腰掛け、手元にある一枚の四角い紙片を、熱を帯びた瞳でじっと見つめていた。
それは、以前デリール・インノクトとその家族と一緒に南方の保養地へ旅行した際、『魔法写し取り機』と呼ばれる高価な魔導具で撮影されたものだ。
色褪せない魔法の紙に写っているのは、太陽のような満面の笑みを浮かべるデリールと、その隣で少し照れくさそうに笑うミハイル自身の姿。
「…………可愛いな、デリール」
指先で、紙片の中の彼女の頬をそっと撫でる。
ミハイルにとって、デリールは幼い頃からの大切な幼馴染だ。泥んこになって遊んだ記憶も、彼女が泣き虫だった頃の姿も、すべてを知っている。
そして、彼女がタール・ネルヴーという侯爵令息と婚約し、彼に夢中になっていく姿も、一番近くで見せつけられてきた。
胸が張り裂けそうだった。
彼女がタールに向けてウットリと微笑むたびに、ミハイルの心には真っ黒な泥のような嫉妬が渦巻いていた。
だが、今は違う。
タールは、自らの意思でデリールを手放したのだ。
「……タールには勿体ないよ。いや、初めからあいつには過ぎた宝だったんだ。……この子は、僕のものだ」
ミハイルは低く甘い声でそう呟くと、魔法写し取り機の紙片を大切にしまい込んだ。
立ち上がり、窓を覆っていた分厚いカーテンを一気に開け放つ。
「あぁ……やっと、僕の番が来たんだ」
冷たい朝の空気を胸いっぱいに吸い込み、ミハイルは優しく、そしてどこか猟奇的な笑みを浮かべた。
外は分厚い雲に覆われているというのに、ミハイルの目に映る空には、曇りのない、青々と輝く世界が広がっていた。
◇
「お嬢様、朝でございます。お目覚めの時間ですわ」
「んぅ……」
メイドの控えめな声で、あたし、デリール・インノクトは重い瞼を開けた。
(もう、何回も言わなくても聞こえてますぅ~!)
頭の中では文句を垂れ流しながらも、体を起こして窓の外を見る。分厚い雲が空を覆っていた。
「あら、今日は曇りね?」
「はい。少し肌寒いかもしれませんので、上着をご用意いたしますね」
言われるがままに、肌触りの良い寝巻きから上質な室内着へと着替えさせてもらい、あたしは振り返って「ありがとう」と満面のスマイルを見せた。
この『無邪気な令嬢スマイル』は、周囲の人間を動かすための最強にして、最もコスパが良い武器だ。
メイドは「もったいないお言葉です」と頭を下げた。
インノクト侯爵家には数え切れないほどの使用人がいるため、正直この子の名前はしっかり覚えていない。だが、右のこめかみにある小さなほくろの特徴から、あたしを起こしに来たのはこれで二度目だな、と瞬時に記憶の引き出しを照合した。
侯爵令嬢たるもの、上に立つ者として人の顔と特徴を把握する能力は必須なのだ。
そのまま食堂へと移動し、専属の料理長が腕を振るった朝食のテーブルに着く。
こんがりと焼けた白パンに、色鮮やかな野菜のポタージュ。それらを優雅に口に運びながら、あたしは頭の中で今日のプランを練り始めた。
(ん〜……。今のあたしに必要なのは『恋のドキドキ』。でも、貴族社会のお見合いや夜会は、マザコンとか筋肉ダルマみたいな変人ばっかりで収穫ゼロだったわ)
かと言って、貴族の友人たちに『どうやって恋を見つけたの?』と相談はできない。弱みをみせてしまうから。
では、どうするか。
(メイドさんたちと仲良くなって、庶民の情熱的な恋愛事情を聞き出すのはどうかしら? ……ううん、ダメね。屋敷の中でそんな迂闊な身の上話をすれば、他家の耳に入ってしまうわ)
少しお行儀が悪いが、あたしは眉間に皺を寄せながらポタージュを飲み込んだ。
(だったら……今日は久しぶりに、視察も兼ねて町を探索してみようかしら!)
名案だ。市井の人々がどのように出会い、恋に落ち、愛を育んでいるのか。その生の声を聞けば、あたしの『恋活』の大きなヒントになるかもしれない。
やるべきことが決まれば行動は早い。
あたしは残りの朝食を必死のスピードで平らげた。
朝食後、あたしは先ほどのメイドを自室に呼び出し、少し無理を言って「裕福な庶民の娘」に見えるような、シンプルだが仕立ての悪くないワンピースを用意させた。
「お嬢様、このようなお召し物でどこへ……?」
「ちょっとお散歩よ。市井に行くけど内緒ね!」
あたしはメイドに口止めをし、屋敷の裏口へとそろりそろりと向かった。
「よし! お忍び大作戦よ! 次の恋に繋がる情報を絶対に仕入れてくるんだから!」
気合を入れて裏口の扉を開ける。
そこには、すでに手配しておいた人物が待機していた。
「……お嬢様。本気で、町に出られるのですか。旦那様にバレたら、私の首が物理的に飛びます……」
「大袈裟ねぇ。大丈夫よ、絶対にバレないから! さあ行くわよ、兵士長!」
あたしの護衛として指名された侯爵領の若き兵士長は、この世の終わりみたいな青い顔をして震えていたが、あたしは彼の背中をバンバンと叩いて、意気揚々と町へ繰り出した。
◇
王都の活気ある市場。
石畳の通りには、新鮮な野菜や果物、香辛料を売る屋台がズラリと並び、商人たちの威勢の良い声が響き渡っている。
裕福な商人の娘と、その護衛という設定で市場調査を行っていると、人混みの向こうから慌てた顔で駆けてくる人物がいた。
「デリール! 酷いじゃないか! 町に出る時は僕も誘うって話だっただろ?」
息を切らしてやってきたのは、少し地味な平民風の服を着たミハイルだった。
あたしは目を線のように細めて、彼をジトッと睨みつけた。
(ははーん。今日の当番であたしを起こしに来たあのメイド……ソキュペ伯爵家の紹介でうちに入った子だったわね。こうなると思ったわ!)
だが、護衛の数が増えるのは悪いことではない。
あたしはすぐに気を取り直し、パァッと笑顔を咲かせて彼を迎え入れた。
「『ハイル』! おはよう! お忍び中なんだから、ここでは『デリー』って呼んでよ!」
「ハイルって……。わかったよ、デリー。全く、君って子は本当に無茶ばかりするんだから」
ミハイルは呆れたように言いながらも、どこか嬉しそうに微笑んだ。
こうして、胃を痛めている兵士長を少し後ろに下がらせ、あたしはミハイルと並んで市場を探索し始めた。
「これ、すごく甘くて美味しいよ。食べるかい?」
「もらうわ! ん~っ、美味しい!」
何が楽しいのかずっとニコニコしているミハイルを横目に、あたしは屋台の値段書きを見つめながら、無意識に思案顔になっていた。
(ん~……。前回視察に来た時より、明らかに小麦と塩の物価が上がっているわね。南方の不作の影響がここまで来てるのかしら。帰ったらパパに相談しないと……)
「デリール? どうしたの、難しい顔をして」
「ううん、なんでもないわ!」
いけないいけない。市場調査も重要だが、今日の本題は『恋を見つけるヒント』を探すことだ。
「あっ、ハイル。言うのを忘れてたけど、今日はただの市場調査じゃないのよ。あたし、市井の人たちがどうやって恋をして、結婚するのか知りたいの。だから、あの広場にいる子供たちに接触するわ!」
あたしが指差した先には、噴水のある広場で遊んでいる子供たちの集団がいた。
ミハイルは「わかったよ」とニコニコしながらついてくる。
(デリールが求めるような『条件の合う完璧な男』なんて、この町にいるわけがない。でも……これでデリールがどんなことにドキドキするのか、ポイントをもっと知れるかもしれないな)
そんなミハイルの腹黒い本音など露知らず、あたしは広場へと足を踏み入れた。
広場には、赤ん坊を抱えながら弟妹の面倒を見ている子供や、その集団を取りまとめている十代半ばの若い年長者の女の子。そして、ギャーギャーと騒ぎながら走り回る元気な子供たちがいた。
あたしは、市場で買い込んでおいた焼きたてのパンが入った紙袋を兵士長から受け取ると、一歩前に踏み出して、透き通るような声で子供たちに声をかけた。
「ねえ、みんな! あたし、最近ここに越してきたの! この町のこと、色々教えてくれない?」
「なんだお前ー!」と警戒してガヤガヤする子供たちに、あたしは有無を言わさぬ笑顔で、パンを一つずつ押し付けていく。
「これはね、情報料よ! 食べながらでいいからさ。色々教えてね?」
いつもの侯爵令嬢の威圧感を完全に消し去り、近所の気さくなお姉さんのように柔らかく微笑んで取り入る。パンの匂いと味に、子供たちはあっという間に陥落した。
「ふんふん……なるほど。普段利用していた安い食堂や、小さな精肉店が最近潰れそうなのね。ふ~ん……大店が大安売りだって言って、不当な価格で客を囲い込んでいると。これは裏を調べた方がいいわね……」
子供たちの無邪気な話を真剣に聞き、持参した手帳に猛烈な勢いでメモを取るあたし。
「……ねえ、デリール。今日の目的はなんだっけ?」
ミハイルに肩をツンツンと突かれ、あたしはハッとして手帳を閉じた。
いけない、また領地経営の脳になっていたわ!
「そ、そうそう! 教えて欲しいことが別にあったんだぁ」
(私たち貴族の結婚は『家と家』の政略結婚が当たり前だけど、平民たちはきっと自由でロマンチックな恋愛をしているはずだわ!)
「みんなのお姉ちゃんやお母さんたちってさ、どうやって『カレピ』とくっ付いたか、知ってる子はいない?」
興味津々で、あけすけに聞いてみる。
市井の恋物語。きっと、お祭りの夜に運命的な出会いをして……みたいな、ロマンチックなドラマがあるに違いないわ!
だが。
あたしの期待とは裏腹に、子供たちはパンをかじる手を止め、周りをキョロキョロと見回しながら、誰も声を上げようとしなかった。
「……どうしたの?」
我慢できずに聞いてみると、赤ん坊を抱えていた年長者の女の子が、ひどく気まずそうに、そして不思議そうに教えてくれた。
「あの……お姉ちゃん。私たち平民は、結婚する相手は『親が決める』ものよ? お店を継ぐためとか、畑の働き手を増やすために。だから、何を聞きたいのかよくわからないの」
「えっ……」
あたしは、雷に打たれたようなショックを受けた。
「じゃ、じゃあ、もし自分に好きな人ができたら……どうするの!?」
あたしが身を乗り出して聞くと、女の子は少し寂しそうに笑って首を振った。
「家と家の結びつきだもの。お互いの家の条件が合わない限りは……そういう気持ちは、諦めるものよ」
自由な恋愛なんて、おとぎ話の中だけ。
それが、この世界で生きる平民たちのリアルな現実だったのだ。
◇
帰り道。
どんよりとした曇り空の下、王都の裏通りを歩きながら、あたしはひどく落ち込んでいた。
「……ねえ、ミハイル」
「うん」
「やっぱり、あたしの旦那様は、あたしが真剣に選びたい。領民たちを飢えさせないためにも、しっかりした力のある人を。……でも、そんな完璧な人で、なおかつあたしが『ドキドキ』できる恋の相手なんて、本当に見つかるのかな。見つかるまで、あたしの命……もつかなぁ」
ポツリとこぼした弱音。
ミハイルは立ち止まり、辛そうな顔をしてあたしを見つめた。
「デリール。君は優しすぎるし、背負いすぎだ。全ての民を救うことも、全てを完璧にこなすことも、一人じゃ無理だよ」
彼は、一歩だけあたしに近づいた。
「……でも、僕なら。僕なら、君のために全力で努力するよ」
「ミハイル……?」
「無理に今すぐ答えなんて出さなくていい。焦らなくていいんだ。ただ……どうしても見つからなかった時の『最終手段』として、僕がずっと傍にいるってこと。それだけは、覚えておいて欲しいな」
ミハイルはそう言って、いつものお兄ちゃんのような優しい顔で、パチンとウインクをして見せた。
彼の真っ直ぐな言葉。
それは、幼馴染からの最大限の愛の告白であり、プロポーズにも等しいものだった。
けれど、今のあたしの頭の中には『領地の未来』と『タール様以上の完璧な恋』という二つの巨大な壁がそびえ立っていて、彼の言葉の重みを正確に受け取る余裕がなかった。
「……ありがとう、ミハイル。いつも優しいね」
あたしは小さく笑って、彼の優しさに感謝した。
「でも、あたしは侯爵家の長子だから。もう少しだけ、自分で頑張ってみたいの」
空を覆っていた分厚い雲の隙間から、一筋の光が差し込んでいた。
あたしは曇り空を見上げ、自分の中にある決して譲れない正義と誇りに、そっと誓いを立てた。
(絶対に妥協はしない。あたしの命を懸けて、領民もあたしも幸せになれる、最高の恋を見つけてみせるわ!)




