☆3話:タール侯爵令息の静かな日常
王都の中心部から少し離れた、緑豊かなネルヴー侯爵家の敷地。
その一角にある広大な図書室で、侯爵家の次男、タール・ネルヴーは、一人静かにページをめくっていた。
分厚い法学の専門書。王宮の文官試験に向けた高度な知識が詰め込まれた一冊だ。
窓から差し込む柔らかな午後の日差しと、時折庭から聞こえる小鳥のさえずりだけが、この部屋を満たしている。
(……やっと、一人の時間を作ることができた)
淹れたてのコーヒーの香りを楽しみながら、俺は深く息を吐き出した。
ほんの数週間前まで、俺の隣には常に、やかましい……いや、底抜けに明るい婚約者が陣取っていた。
デリール・インノクト侯爵令嬢。
彼女は、俺が本を読んでいようが、勉強をしていようが、お構いなしに『タール様!』と満面の笑みで話しかけてきたものだ。
思い返せば、デリールはいつもいつもいつも、俺に『完璧な令息』であることを求めていた。
隙のない立ち振る舞い。領地経営への深い理解。貴族としての冷徹な判断力。
彼女が期待する『理想のタール様』を演じるため、俺は幼い頃から血の滲むような努力をしてきた。
彼女が「素晴らしいわ!」と称賛してくれるのが、唯一の救いだったからだ。
だが、俺が貴族令嬢に対しての扱いを学んだ通りに、隙のない模範解答を繰り返すと、デリールは嬉しそうに『模範解答、良し!』とばかりに頷くのだ。
……その生活には、もう疲れた。
彼女が愛しているのは、俺自身ではなく、俺が纏っている『完璧な侯爵令息』という肩書きとメッキだけなのだから。
(これからの俺は、ゆっくり、誰にも気兼ねなく本を読み、王宮に就職して、父上と同じように国を支える大臣を目指すんだ!)
そう決意を新たにし、俺は再び法学書の細かい文字に視線を落とした。
集中だ。今の俺には、勉学と己の鍛錬だけがあればいい。
「タール様! そのご本、難しい顔をして読んでいらっしゃいますけど、面白いの?」
ふと顔を上げると、机の向かい側で、両頬に手を当ててニコニコとこちらを見つめているデリールの姿があった。
いつもの、深紅のドレス。いつもの、少し我が儘そうな、けれど愛嬌のある笑顔。
「いや、これは法学の……って」
俺はハッとして、慌てて頭を強く振った。
バサリと空気が揺れ、目の前にいたはずのデリールの姿は、陽炎のようにかき消える。
幻影だ。
(……何を考えているんだ、俺は!)
図書室には俺一人しかいない。彼女との婚約は、すでに白紙に戻したのだ。
自分の意思で、自分から。
考えて、考えて、悩み抜いて決意したことじゃないか。
それに、デリールは俺じゃなくとも、『貴族として完璧で、領地を任せられる男』なら、どんな優良物件でも好きになる女性だ。彼女にとって、俺は代わりの利く存在でしかない。
(……ほ ん と う に そ う か?)
心の奥底で、もう一人の自分が囁く。
本当に、彼女は俺のことなど、これっぽっちも見ていなかったのか?
いや、そんなはずはない。だって彼女は、あんなにも俺に向かって真っ直ぐに……。
「くそっ……」
俺は苛立ち紛れに、パタン! と乱暴な音を立てて教本を閉じた。
ダメだ。文字が全く頭に入ってこない。
今日はもう座学は諦めて、身体を動かす訓練に変えよう。汗を流せば、この胸の奥にこびりついたモヤモヤも、少しは晴れるはずだ。
(……いや、俺は間違えていない)
立ち上がりながら、俺は自分自身に言い聞かせるように呟いた。
あの時の出来事が、俺の決断が正しかったことを証明している。
◇
それは、まだ婚約期間中だった数ヶ月前のこと。
他領である、クランルーリー公爵家の領地で開かれた大規模な収穫祭に、俺とデリールが二人で視察に訪れた時のことだ。
祭りは活気に満ち溢れ、領民たちは笑顔で屋台を練り歩いていた。
俺は侯爵家に嫁ぎ次期侯爵を期待されている身として、公爵家の領地経営の手腕を学ぼうと周囲を観察していたのだが、デリールの行動は俺の予想を遥かに超えていた。
彼女は、着飾ったドレスの裾が汚れることも厭わず、熱心に市井の人々に声をかけて回っていたのだ。
『ねえ、そこのパン屋の奥さん! その小麦はどこから仕入れているの? 税率は厳しくない?』
『まあ、立派な魔石ね! 採掘場の労働環境はどうなっているのかしら? ちゃんと休日はあるの?』
まるで、獲物を狙う鷹のような鋭い目つきで、領民たちの生の声を集めていくデリール。
侯爵令嬢が平民に直接声をかけるなど、本来なら褒められた行動ではない。
だが、俺がたしなめようと近づくと、彼女はクルリと振り返り、扇子で口元を隠してニコリと澄ました笑みを作った。
(俺に対しては、いつもなら『タール様。平民の意見なんて、まともに聞いては政治は回りませんわ!』と、いかにも冷酷で気位の高い貴族令嬢としての模範解答を口にするデリール。だが、今日は違ったのだ)
『大収穫ですわぁ! さすが公爵様!』
俺はその時、強烈な違和感を覚えた。
彼女の目は、全く笑っていなかった。むしろ、公爵領の豊かな暮らしと、計算し尽くされた物流システムを見て、真剣そのものだった。
そして、極めつけは、祭りの視察を終えて公爵家の屋敷で挨拶をした後のことだ。
俺の隣に並んだデリールは、興奮冷めやらぬ様子で、ずいぶん年の離れたクランルーリー公爵を前にして、目をキラキラと輝かせた。
『なんて素晴らしい領地なんでしょう! この無駄のない税の徴収システムと、領民への還元率……これは是非とも、我が領地にも取り入れたいわ! クランルーリー公爵家は、先の先を見据えていらっしゃるのね!』
そう言って、彼女は婚約者である俺の前で、他の男(公爵)の統治をこれでもかと褒め称えたのだ。
俺の領地経営の知識など、足元にも及ばないと言わんばかりに。
(……ああ、致命的に合わないな)
俺がそう痛感したのは、これだ。
彼女は、より優れた力を持つ者に惹かれる。俺がどれだけ『完璧』を装っても、本物の傑物である公爵を前にしては、ただの子供に過ぎないのだと見せつけられた気がした。
そして、デリールはトドメを刺すように、俺に向かってこう言い放ったのだ。
『タール様。公爵様とより深い縁を結ぶために……私も、クランルーリー公爵家のお屋敷に「見習いメイド」として応募してみたいと思いますわ!』
……耳を疑った。
◇
今でも、あの時の絶望感は鮮明に覚えている。
クランルーリー公爵は、非常に懐の深い人物だ。他家の子女が『他領の政治や屋敷の管理を学ぶため』という名目でメイドとして入り込むことを、気を悪くするどころか歓迎するような御仁である。
だが、俺にとっては違った。
俺は、多忙なスケジュールの合間を縫って、折角デリールと二人きりで過ごせる時間を作ったというのに。
彼女は、俺との時間などそっちのけで、他領の公爵に目移りしたのだ。
わざわざメイドに身をやつしてまで、公爵の傍にいたいと。公爵にアプローチをかけたいと、俺の目の前で宣言したのだ。
分かっている。
彼女が俺を婚約者に選んだのも、単に顔が良くて、侯爵家という身分がある『優良物件』と思われただけだ。
彼女が求める『圧倒的な力と知性』を持った男が現れれば、きっと俺の努力が足りないと、あっけなく捨てられる。
彼女が公爵家へメイドとして入り込む前に。
彼女から「婚約を解消したい」と切り出されて、俺のプライドが完全に粉砕される前に。
俺は、自分から身を引くしかなかった。
「……ははっ」
誰もいない図書室で、自嘲気味な笑いが漏れる。
俺は、前髪を乱暴にかき上げて、頭を強く振って未練を切り替えた。
もう、終わった話だ。
彼女はきっと今頃、あの夜会や見合いの席で、俺なんかよりもずっと優れた、条件の良い『優良物件』に良い顔をして、すぐに婚約しなおすだろう。
彼女の幸せを願うなら、それでいい。
俺みたいな、背伸びして完璧を演じているだけの男より、ずっといいはずだ。
「……俺の、初恋も終わりだ」
ポツリと、誰に聞かせるでもなく呟いたその言葉は、図書室の静寂の中に虚しく吸い込まれていった。
胸の奥が、息ができないほど痛い。
俺は、逃げるように立ち上がると、この惨めな感情を汗と共に流し去るために、修練場へと重い足取りで向かうのだった。
(彼が、デリールの『公爵家のメイドになりたい』という言葉の真意――ただ純粋に、タールとの未来を豊かにするための『産業スパイ(技術盗用)』として潜り込みたかっただけ――という、侯爵令嬢にあるまじき泥臭い野望に気づくのは、もう少し先の話である。)




