☆12話:恋のハンター狩られる
「……ああんっ、タール様。……はっ! ちょっと待って、なんでアラガント様の顔が過ぎるのよっ!?」
朝の登校風景。
ガタゴトと揺れるインノクト侯爵家の馬車の中で、あたし――デリール・インノクトは、ドレスの隠しポケットから取り出したお薬完全妄想ノートを片手に、一人で盛大に悶絶していた。
昨日の夕方、あたしの馬車の中に勝手に侵入してきたアラガント王子の、あの無駄に整った顔面と「俺を選ぶなら大歓迎だよ」という低音ボイスが、脳裏から離れてくれないのだ。
おかげで、タール様を妄想して事前チャージ予防接種を行おうとしても、脳内のタール様の横にチラチラと眩い黄金の髪が割り込んできて集中できない!
(ああもうっ! 顔が良いだけのナルシスト王子なんて絶対にお断りなのに! ドキミンが無駄に分泌されて、心臓にいいのか悪いのか分からないわよ!)
頭を抱えて一人でジタバタと悶えていた、まさにその時だった。
ヒヒィィィンッ!!
唐突に激しいいななきが響き、ガタリと大きな衝撃とともに馬車が急停止した。
あたしは危うくシートから転げ落ちそうになりながら、乱れた髪を直して窓の外へ声を張った。
「きゃっ!? な、なに事かしら!? 御者や、事故でも起きたの!?」
御者台から、震えの混じった慌ただしい声が返ってくる。
「お、お嬢様! 前方の街道を塞ぐように、身なりの卑しい集団が立ち塞がっておりまして……っ! 我らの馬車を改めさせろと不躾な要求をしてきております!」
「……はぁ? あたしの馬車を改めろですって?」
あたしはパッと扇子を広げると、優雅に、しかし圧倒的な威圧感を込めて窓のカーテンを少しだけ開け、外の集団へ向かって声を放った。
「あら。この馬車に刻まれた、歴史あるインノクト侯爵家の紋章が見えないのかしら? この家紋を知りながら狼藉を働くというのであれば、こちらにも相応の考えがあってよ?」
あたしの毅然とした一言に、馬車を取り囲んでいた不審な男たちの間でざわざわと動揺が広がった。
『インノクト家……おい、侯爵家だぞ!』
『だが……数値の反応が……いや、しかしっ!』
(数値……? 何のことかしら?)
男たちは小声で顔を見合わせ、ヒソヒソと密談を交わしている。
やがて、集団の代表者と思われる黒い外套を羽織った男が前に一歩出ると、深々と頭を下げて尋ねてきた。
「……失礼いたしました。馬車に乗っておられるのは、インノクト侯爵家のご長女、デリール様でお間違いはないでしょうか?」
「ええ、そうよ。あたしは学園への登校で忙しいの。用がないなら、さっさと道をあけてくださるかしら?」
あたしが冷たく言い放つと、男たちは怪しく目を光らせながら、サッと左右に散って道を譲った。
「大変失礼いたしました。どうぞ、お通りください」
「まったく、失礼しちゃうわね」
パタンと窓のカーテンを閉め、あたしは再びシートに腰を下ろした。
(学園へ向かう良家の馬車を狙った、タチの悪い物乞いか何かかしら?)
あたしはそれを「不愉快な些細な事件」として一瞬で頭から切り捨て、忘れ去ってしまった。
この時、馬車の窓から男たちの服装や特徴をもっと細かく観察しておけばよかったと、後になって激しく後悔することになるとは知らずに。
◇
その後は特に問題もなく、馬車は無事に王立学園へと到着した。
あたしは重厚な教室のドアをくぐり、席に着いていた悪友のミッシェルへ優雅に挨拶を交わす。
「ごきげんよう、ミッシェル」
「ごきげんよう、デリール。今日は朝からずいぶんと晴れやかなお顔をしておられるのね?」
ミッシェルは勝ち気な目を細め、相変わらずお腹の中に一癖も二癖もありそうな笑みを浮かべている。あたしは彼女の隣に腰を下ろし、扇子の陰で内緒話をするように囁いた。
「ねえ、ミッシェル。今日の放課後、一緒に街へ買い物にでも行かないかしら? 最近は何をやっても上手くいかなくて、気分転換がしたいのよ」
「はぁ……。あんたは相変わらずねぇ」
ミッシェルは「やれやれ」と呆れたように首を振ってみせたが、嫌そうな顔はしていない。
「まあいいわ。ちょうど私も見たい新刊の書籍があったところだし、付き合ってあげるわよ」
「ふふ、持つべきものは良き悪友ね!」
そう言って笑いあった。
ランチの時間になり、あたしは取り巻きたちを従えて第一食堂へと向かった。
しかし――食堂の入り口付近に差し掛かった瞬間、あたしの足がピタリと止まった。
(……またいるわ)
食堂の大きな扉の脇で、腕を組んで佇んでいる銀髪の美しい青年。タール様だ。
(もうっ! どこのご令嬢を待っているのか知らないけれど、あたしの前でウロウロされると気まずいのよ! 少しはあたしの複雑な乙女心を察して距離を置いて頂戴!)
「皆様、前言撤回よ。今日も中庭で静かにランチをいただきましょう」
あたしは軍隊並みの綺麗な回れ右をして、タール様の視界に入る前に素早く退散した。
日差しの心地よい中庭のベンチで、リリーやアンたち取り巻きと一緒に色鮮やかなサンドイッチを頬張っていると、妄想小説愛好家のアンが恐る恐る声をかけてきた。
「……あの、デリール様。差し出がましいことを申し上げますが……そろそろタール様と直接お話しされてもよろしいのではないでしょうか?」
あたしがサンドイッチを噛み切る手がピタリと止まる。
間髪入れず、隣にいたリリーが「このバカ!」と言わんばかりにアンの太ももをギュッと強く抓った。
「あだっ!?」
「失礼いたしましたデリール様! アンは頭の回転が少し滑ってしまっただけでございますの! ……ですが、もしデリール様がお望みならば、私たちがタール様との対話の場を完璧にセッティングいたしますわ! デリール様の幸福を叶えることこそ、私たちの総意ですもの!」
必死にフォローを入れるリリーと、太ももを押さえて泣きそうになっているアン。
二人の温かいお気持ちを受け止めながら、あたしは一人で静かに思考を巡らせた。
(んー……。なんだろ。今すぐタール様に会うのは、なんだか気が乗らないのよね……)
それに、こちらからノコノコと出向いていったら、「やっぱり俺に未練があるんだな」と思われて、あたしのプライドが許さないわ!
あたしは優雅にナプキンで口元を拭うと、二人に微笑みかけた。
「アン、リリー。お気持ちはとても嬉しいわ。けれど……あたしは今、星と星が再び惹かれ合う運命のタイミングを慎重に測っているところなの」
要約すると、『今すぐ会うのは絶対に嫌よ!』という拒絶である。
あたしの意志を察した取り巻きたちは「さすがデリール様……」「奥深いお考えでございますわ」と納得し、それ以上触れてくることはなかった。
◇
何事もなく午後の授業も全て終わり、放課後。
あたしは約束通りミッシェルを連れて、インノクト侯爵家の豪華な馬車へと乗り込んだ。
ふかふかのシートに腰を下ろしたミッシェルが、足を組んで尋ねてくる。
「それで? どこへ行くの?」
「んーとね! まずは王都の東通りにオープンしたお店で、新作の高級香水を買いに行きたいの! それと……そのついでに、東の外れで新しく建設中の大橋の現場も見に行きたいかしら!」
「は? 大橋の現場?」
ミッシェルが怪訝そうに眉をひそめた。あたしは扇子をパッと広げて、へへっと悪戯っぽく笑ってみせた。
「あの橋の進捗率を見ておけば、我がインノクト領の街道から新しい商路を繋げようとパパに進言するタイミングが計れるでしょう? 領地の発展のためには、こういう日頃の現場視察が大事なのよ!」
「またあんたは……。買い物のついでに領地経営の企みを挟むんじゃないわよ」
ミッシェルは呆れ果てたように息を吐き、その口元にはかすかな苦笑が浮かんでいた。
馬車は王都の喧騒を抜け、流行りの化粧品や香水店が立ち並ぶ高級貴族街のメインストリートへと向かった。
目的の香水店まであと少し、というところで――事件は起きた。
ヒヒィィーーン!!
突然、馬車が激しい摩擦音を立てて急ブレーキをかけた。あたしたちの体が前に大きく揺さぶられる。
「きゃっ!? なに事よ!?」
「ちょっと、御者! 行儀が悪いわよ!」
ミッシェルが怒りに満ちた声で窓の外へ叫ぼうとした、その時だった。
どすん、と馬車の外で重いものが地面に倒れ込む不穏な音が聞こえた。
続いて、周囲の通行人たちの短い悲鳴と、騒がしい足音が馬車を取り囲む。
あたしは嫌な予感がして、そっと窓のカーテンを少しだけめくった。
……そこにいたのは、全身を黒い不気味な衣装で包み、顔を布で隠した無数の男たちだった。
「……っ!? 御者が……降ろされているわ!」
あたしの言葉に、ミッシェルの顔色が瞬時にサッと引きつっていった。
「な、なんですって……!? ここは王都のど真ん中よ!? 人通りもある日中帯に、貴族の馬車を襲撃するなんて……治安はどうなっているのよ!」
ガタガタと打ち震え、青ざめるミッシェル。
無理もない。彼女はドトールス侯爵家の令嬢であり、このような野蛮で暴力的な事件に巻き込まれた経験など一度もないのだから。
(まずいわ……! 完全に包囲されているわ!)
御者が倒された以上、馬車を走らせて逃げることはできない。
鍵をかけて立て籠もろうにも、相手は凶器を持った集団だ。扉を壊されるのも時間の問題だった。
あたしは震えるミッシェルの手をぎゅっと強く握りしめた。
けれど、彼女を安心させてあげるような気の利いた言葉は、あたしの口から一つも出てこなかった。あたしだって、心臓が口から飛び出そうなほど怖いのだから!
バコンッ!!
暴力的で荒々しい音が響き、馬車の扉の鍵が外側から破壊された。
勢いよく扉が開かれ、不快な外気が車内になだれ込んでくる。
「なんだ! 二人いるぞ! どっちが侯爵令嬢だ!?」
覆面の男が車内を覗き込み、ダミ声で怒鳴り散らした。
(どちらもです!!)
心の中で叫んだが、あたしの喉は完全に引きつれていて、声なんて欠片も出てこない。
黒づくめの男たちは、車内に座るあたしたち二人を交互に見比べ、苛立ったように舌打ちをした。
「おい、デリール・インノクトはどっちだ!? 吐け!」
問いただされたミッシェルは、恐怖のあまり完全に硬直しており、あたしの方を向くことすらできない。
あたしも、自分の反応から正体がバレないよう、必死で無表情を装って黙り込んだ。
(お願い、誰か気づいて! 衛兵でも、通りすがりの騎士でも誰でもいいから助けて!!)
だが、あたしたちの必死の抵抗も虚しく、外から無情な声が響いた。
「あ、あちらの……深紅のドレスを着ておられるお方が、デリール様です……っ!」
地面に押さえつけられていた御者の、命乞いのような叫び声だった。
(ちょっと御者ーーーっ!? インノクト家の忠義はどこいったのよ! 主人をあっさり売るんじゃないわよ!! まあ、遅かれ早かれバレてただろうけどさぁぁぁっ!!)
「よし、あっちだ! 持ち上げろ!」
男たちの手が車内へと伸びてくる。
あたしが悲鳴をあげる暇すら与えられず、両腕を強固な力で拘束された。
「嫌っ! 離しなさい! あたしを誰だと思っているの……んぐっ!?」
頭から、すっぽりと大きな布袋を被せられた。
視界が完全な闇に包まれる。
続いて、あたしの体は抱え上げられ、ゴツゴツとした頑丈で大きな木箱の中へと乱暴に押し込まれた。
パタンッ!!
「んぐぅぅっ!? んんーっ!?」
頭上で重い木製のかんぬきが下ろされる音が響く。
あたしは大きな箱の中に閉じ込められ、完全な暗闇と密閉された空間に取り残された。
箱が持ち上げられ、激しく上下に揺れ始める。どこか別の馬車か荷車へ積み込まれようとしているのだ。
(うそ……嘘でしょ!? あたし、本当に誘拐されちゃったの……!?)
暗闇の中で、心臓が早鐘のように激しく脈打つ。
(いやだ……! 怖い! 怖い! 誰か……誰か助けてタール様っ! ミハイルっ! パパーーーッ!!)
恋の狩人ハンターを自称していたデリール・インノクトは、新しい恋を見つける前に、まんまと黒づくめの男たちに『狩られて』しまったのである。




