人生や生き方すらも変える精神の栄養たるものたち
最近、名古屋は栄の特殊書店ビブリオマニアさんで買い求めた
「最後の異端者 評伝 美輪明宏」
の冒頭いきなり飛び込んでくる一節。
これが枯渇、途絶してしまったら、そりゃ心も病むし体は動かなくなる。
今の世の中では、きっとそれをドカ鬱などと呼ぶだろう。
それは軽く使い勝手の良いアルミの警棒みたいなものだが、しかし内実が空であるように思う。事態はもっと深刻だ。でも、それを他人に慮らせない。
自らのアカウントにドカ鬱という言葉をまとわせることで、それ以上の詮索や心配は無用、自分が激しく凹んでいるだけだ、と交通事故の現場写真を掲げる如く書き記す人が居る。
僕はその人のそういうところも好きだし心配なのだが、自分にも思い当たるフシがあるので今これを書き始めた。
自分の場合は二度あった。多分みんな一度や二度あるんだと思う。それが子供の頃からの夢だとか将来の目標、恋愛、生き方、生き甲斐とか色々で。
私は夢で二度。二度も敗れる夢だけはあった人生かもしれないけど、二度も味わうと苦みも苦しみも二倍なのだ。それは好き好んで味わった苦い苦しみだけど(好々苦々)、しかし決して自分で苦みを選んだわけではない。
そこに他人とか社会という要素が介在する以上どんなことをしたって最後のコントロールは効かない。世間は冷たいし他人は無情だ。
宙に浮き、奈落へと突き落とされてゆく自分の気持ちとか魂が驚くほど軽くて無駄に思える。何をどう喚いても懇願しても如何にもならない。
他人の集まりが社会で、社会は自分と他人で、自分だけが社会からも誰か好きな人からも必要とされない気がして。それは往々にして被害妄想で杞憂で自己中心的な不安の発作でしかなくて、でも目を逸らしたいときほど当たっている。
何がキツイって日頃は〝ああはなりたくないな〟と思ってるような状況が丸ごと自分に降りかかってて、ああ今オレも同じように見えてるんだな、と思うことなんだよな。
この期に及んで(1999 Secret Object)自分を直視できず、他人からの自分を想像して痛がっている。だから本質のズレ、狂い、間違い、反省に行きつかない。自意識がそこに向かないよう目を逸らす。
前述のとおり、そういうときほど当たっている。
漸く掴んだチャンスに向かい夢や理想や生き甲斐で織り上げた錦の御旗を掲げ突っ走ってきたのに、気が付けば刀折れ矢は尽き孤独の泥沼に沈む敗残兵。
落ち武者狩りみたいな奴にしか相手されない惨めさが自己嫌悪とドカ鬱に拍車をかける。
精神の栄養失調は予後が悪い。
だけど、そうそう代わりが見つかるものでもない。
それほどの大穴が空いたのだ。心が出血多量で今も瀕死なのだ。
そう簡単に埋まってたまるか。
それほどのものを失いながらも、まだ生きながらえている意味ってなんだろう。
死んだほうが早いのに、まだ生きている理由ってなんだろう。
テリーとドリー(白バックのコントのほう)みたいなこと言ってるけど、割とマジでわからないまま放り出されるように生きている。
呆けた頭と、空っぽの心と、虚無の顔をして。
自傷行為のように時間とお金を浪費し、体をすり減らし、観念を穢し、それでも今日まだ生きている。感謝も、有難みも覚えない。
車に轢かれそうになっても「危ねえな!」じゃなく「惜しかったな」と思うくらいには。
自分のせいじゃなくさっさと幕を下ろしたいのに、まだそれが叶わないことに、それを実行しない自分に、失望と茫然を半笑いで胡麻化しながら。
どうすればいいんだろうな。精神の栄養失調は予後が悪い。




