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#対人依存症。和哉くんは生きづらい!  作者: 佐野和哉


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日曜日の夜は空っぽの街角

19時過ぎなのに、まだ辺りが青く薄暗かったから夏の間の記憶なんだと思う。

すぐ近所に住んでた祖父母宅からの帰り道。

暗渠の上に立つ細長い水上ビルの一番奥、5階建ての団地がA棟からE棟まで並んだ大手ビル。中部電力の前の一方通行イッツーの、まいづるってお寿司屋さんの前の信号で折り返して家に帰る。


大きめの国道を跨ぐだけ。この短い距離で信号3つは多いと思うが、あっという間。それだけの距離に祖父母が済んでいたのは僥倖であった。が、それだけの距離に精神的な地雷原が今も残っている。

僕にとって大手ビルは思い出の場所であり戦禍の爪痕だ。


月に1回、多い時は2回、近所の祖父母宅に泊まりに行ってた。夏休みや春の連休、年末年始は2泊3泊することもあった。

祖父母は大変に可愛がってくれて、眼に入れても痛くないという言葉を子供ながらに覚えたくらいだった。同じ団地の下には喫茶店があって、そこで飲み食いしても良かった(あとで祖父が清算してくれていた)し、近所のココストアで買い物もしてよかった。

当時ココストアで買い物すると切手ぐらいの大きさのシールをくれて、ココストアスタンプっていうやつ。それを店頭にある専用シートに貼って20枚ぐらい貯まると商品券として仕えた。1枚で500円ぐらいだったかな?

30年以上前の記憶だから曖昧だ。祖母が酒飲みでビールの500mlをよく買うんで、すぐ貯まる。でそれを取っといてくれて、私が行くと持たせてくれる。何でも好きなもの買ってこい、って。で私は私でバタピーだのさきいかだの子供にしちゃシブいもの買い込んで、そいつを食べながら夜通しファミコンしたり、プロレス中継を見たりしていた。


楽しいし、すぐ近所なのに普段と全然違う生活をしているので不思議な感覚だったな。

石油ストーブとか、縦型の窓に直接取り付けたエアコンとか、ダイヤル式のジリリリンて鳴る昭和の電話とか。

あの電話機は結局、その団地を引き払うまで現役だった。


こうして過ごしている間は良いのだが、例によって家に帰れば暴力と暴言が待っている。それどころか、こっちの祖父母宅は向こうにしたら実家なのでホームグラウンドだ。

たまに呼んでも居ないのにやって来て、足腰だの首肩だのを散々に揉まされ、酒が入って寝着くまでやったと思ったらむっくり起き出して「眠い」という理由だけで不機嫌に子供相手に睨んですごんで舌打ちをする。

しまいには日ごろの行いが悪い義実家には余程居心地が悪いのか夜まで長居したり、日曜の昼間から来て帰るまでずっと居座ったりするようになった。

自分のせいで義実家に居場所が無いのに、子供が自分の実家で楽にしているのが本当に気に食わないのだろう。あんな器の小さい、素焼きのチャイカップ以下の男は見たことが無い。自分にその血が入ってるのが今でも嫌で仕方がない。


そうやって、楽しくもしかし居心地の良さを奪われつつあった祖父母宅から自分の家に帰るのに、物凄く憂鬱で寂しかった。日曜日、晩御飯を食べたら迎えの車に乗って帰る。

その時の光景と心情が今でも忘れられない。

迎えに来た母の趣味だったクレイジーケンバンドの「空っぽの街角」って歌が流れていて、それと結びついている。あれは恋愛の歌だけど、こっちは結構な生活問題で、あとで切なくも良い思い出になったりなんかしないんだけどもね。


しまいに離婚して我が家を追い出されても、祖保母宅への泊りは続けていた。

私にとって殺意と嫌悪と軽蔑の対象は実父アレだけであって、血筋の元まで絶とうとは思わない。育ちが悪かったといえばそれまでだが、もしかしたら私を可愛がってくれたのはその贖罪も含んでいたのかもしれない。


中学生になったかならないか。

その日も何故かやって来て食事と酒をタカり、揚げ句に当時発売されてた高価な育毛剤まで買わせていた(しかも自分で買いにもいかず、祖父が買いに行っていた)アレが何かで激怒し…もうそんな原因なんか有って無いようなものだし、いちいち覚えていられない。

狭い部屋の中では飽き足らず、団地の下の通路に降りろと言い出した。どっちみちボコボコにされるのだからと、処刑台へ続く地獄への階段をトボトボ降りていった。

あの時の気分、最悪なんてものじゃない、自分の意志でズタボロにされるためだけに歩いて行く。なんだったんだろう。

ただ私も体がデカくなってきて、少林寺で初段も取って、まあ同年代の子供の中では大柄な方だった。178センチを超えた大の大人にどれだけ敵うか知らないが、いい加減やり返そうと密かに決めた。

降りていくといきなり蹴りが飛んできた。自然とそれをちゃんと受けた。稽古の成果が出たのだ。驚いてよろめいたアレの顔面にパンチをぶち込んで、またよろめいた脇腹を蹴り上げた。が、反撃もここまでだった。力任せに抑え込まれ馬乗りで顔面を左右から殴られた。どれぐらいそうされてたか、頭をアスファルトにガンガンぶつけられもした。


当時そのビルは商店街としては殆ど死んでいて、問屋さんと幾つかの小さな事務所や倉庫があるだけだった。だから日曜の夜なんて車すら通らず、歩いている人なんて皆無だった。自分たち以外は無人の路上で私は殴り殺される寸前だった。

「オイ!」

と鋭い声がして、途端にアレが殴るのをやめた。

半分も開かない目で見上げるとYさんが居て

「お前、子供相手に何やってるんだ!そんなもんにしとけ!!」

と叱責し、アレは素直にハイ、ハイと体を縮めていた。

Yさんはアレの同級生のお兄さんで、要するにその筋の人だった。

その同級生の人も、お兄さんにも私は可愛がってもらっていたし、子供の頃よく遊んでくれていた。

その人の前で死ぬ寸前の姿をさらしているのは惨めだった。


でもそれ以上に、自分の親とか子供は平気で蹂躙出来るのに、Yさんの一言でピタっとそれをやめるアレの姿がブザマで、そんな奴が親である自分がやっぱり惨めで。

あのまま死んでいたら良かったと思う。今でも、殺すか死ぬかしておくべきだったと後悔していることの一つだ。


近頃の水上ビルは多くの人々の努力や志のおかげで活気を取り戻しつつある。あと何年、あの場所が水上ビルとして存在してくれるかわからないけど、それまで平和で楽しい場所であってほしい。

あそこで死ぬ寸前までボコられた人間は私が最初で最後であってほしい。


もし今、家庭のことやそれこそ暴力で苛まれ、辛い記憶で苦しんでいる人が居たら、ここにも同じような奴がいると思ってほしい。私は別に日々楽しく過ごせても居ないし、ずっとこれを抱えている。同じだから大丈夫だなんて言えない。

ひとり一人、辛さの加減は全部違う。

何も出来ること、してもらえることってないかもしれない。私も、みんな辛いんだよ、なんて言われると頭にくる。お前もみんなも辛くって、なんで自分の辛いのが楽になるんだ!と…。


でも、他人を貶めて楽になろうとしたら、暴力なり暴言なりを吐き散らかす生き物に成り下がるしかない。それは御免だと思いこそすれ、じゃあ頑張って生きようという気もない。死んだほうが早かったものを生かされて、休みの日の朝からこんなことを書いている。それだけだ。


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