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第十二話「境界」前編

引き潮の海を渡り、禁足地の最深部へ。

自他を溶かす神の呪法に対し、恭介は生身の“痛み”で抗う。

人と神、二人の『きょうすけ』の結末は……。

 月なき秋空は、血に沈む広場よりもなお暗い。

 二〇二六年十月、新月の深夜。隠岐の海は今、年内でも最大級の引き際を迎えていた。

 恭介は鳥居をくぐる。

 禁足地・禍澗島(まがみじま)「子島」へと続く砂州に辿り着いた時、海は死者の吐息さえ聞こえぬほど凪いでいた。ざあ、と波が引くたび、漆黒の海面から白い道が背骨のように突き出していく。

 散々自分を苛んだ水への恐怖は、もうない。掌にひりつく鏖殺の熱に比べれば、足元を濡らす冷たい海水など、微細なノイズに過ぎない。

 迷わず、その泥濘に足を踏み出した。


「……鏡介(きょうすけ)。決着を付けてやる」


 子島の森は昼も夜も曖昧な場所だった。光源が存在しないのに、周囲を問題なく視認できる。大地や木々自体が光り輝いている印象を受けた。

 さしたる障害もなく、かつて暴いた祠を見つける。隣には、漂着当時は存在しなかったはずの巨大な亀裂があった。その昏さはまるで、唐突に開いた冥府への入り口。だが畏怖なんてものはすぐに掻き消えた。――洞内に、忌まわしき漆黒の背中が揺れるのを見てしまったから。

 洞窟を下るにつれ潮騒は遠のき、代わりに重苦しい水音が耳底を這い始める。最深部。そこには崩れ落ちた社殿が、地底湖のほとりに骸を晒していた。

 石碑には風化しかけた『海神(わたつみ)』の文字。湿り気を帯びた腐朽臭が鼻をつく。柱の陰には黒ずんだ土器の破片と、黄ばんで朽ちた白装束が泥まみれで遺されていた。


 ……かつて島の神婿たちも、ここで暮らしていたのだろうか。


 そんな感傷を頭の隅へ追い払う。

 過去の犠牲や因習など、今の自分には仇敵を屠る動機にさえなり得ないのだから。


 湖面は鏡のように静まり返り、恭介を誘うかのように一艘の小舟が揺れている。


 ……いいじゃないか。乗ってやるよ。


 恭介は吸い寄せられるように船縁を跨ぐ。懐には約一尺の霊刀《潮断(しおだち)》を収め、櫂を握った。

 ひとたび漕ぎ出せばもう戻ることはできない。上げ潮が始まれば道は再び海に沈み、この洞窟は水没する。

 退路なき暗黒の航海が、幕を開けた。



 ***



 漆黒の湖面を、櫂で裂く。

 重たい水音だけが鼓膜を打ち、世界が自分と、この小舟だけになったかのような錯覚を覚える。だが、不意に視界の隅へ橙色が滲んだ。

 灯篭だ。

 この島に死者を弔う人間など残っていないはず。なのに角塔婆を模したそれは一つ、また一つと数を増し、恭介の小舟を取り囲んだ。ゆらめく火影は熱を持たず、虚無的な明るさで水面を埋め尽くす。


〈〈お前、今までどれだけ俺に救われたと思っている?〉〉


 鏡介の声は脳幹を直接抉った。

 拒絶する間もなく、彼の意志が視神経を強奪する。

 ――倒壊する本棚で圧死する自分。

 ――因習の村で狂った村人に手足を縛られ、泉の底へ沈められる自分。

 ――暴走族を追跡した果て、道路に叩きつけられて絶命する自分。

 吐き気を催すほど鮮明な「死」の博覧会だった。それらは全て、裏人格“彼”としての鏡介が介入しなかった世界線の結末だ。


「……黙れ」


 奥歯が軋む音が頭蓋に響く。所詮は結果論だ。生存バイアスによる恫喝に過ぎない。恭介は乱れた呼吸のまま、ただ機械的に櫂を動かした。


〈〈俺とひとつになれ。そうすれば苦しみは消える〉〉


 甘美な囁きと共に、今度は“素晴らしき未来”を網膜に焼き付けてきた。

 誰もが恭介を愛し、称賛する世界。だが、その中心に立っているのは恭介であって恭介ではなかった。空虚な笑みを貼り付け、周囲の願望をただ反射するだけの美しい鏡。そこには恭介としての喜びも、悲しみも、苦痛さえもなかった。


〈〈つまらない意地にしがみつくのはやめろ〉〉


「うるさい! 黙れ! 黙れ!」


 獣じみた咆哮を上げ、櫂を水面に叩きつけた。

 だが、抗うほど腕の実像が薄れてゆく。指先が透ける。握りしめた櫂の木目が、皮膚の下に生々しく浮き上がっていた。実体が希薄化する。灯篭の群れは今や大河となり、彼岸へと続く光の道を形成していた。


 ――連れていかれる。


 懐の《潮断》がずしりと重い。このまま進めば、自分もまた、あの弔いの火の一つとして溶けてしまうのではないか。


〈〈やめろ。俺を殺せばお前も死ぬぞ〉〉


 鏡介の声色が冷える。命乞いではなく、ただ事実を宣告している調子だった。

 だが、今更引くわけにはいかない。恭介は半ばパニック状態で水を掻き毟った。末端から実在が損なわれていく恐怖を、動作の反復で強引にねじ伏せる。


 やがて、闇の奥に陸地が見えた。

 船底が砂利を擦る。恭介は転がり出るように上陸し、《潮断》を構えて洞窟の最深部へと走った。

 湿った冷気が肌を刺す。岩肌が途切れ、開けた空間に出たその時、異様な光景に足を止めた。

 蝋燭の炎が揺れる中、豪奢な紋付袴に身を包んだ男が、正座で待ち構えている。

 鏡介だ。

 まるで祝言の席、あるいは切腹の立会人のような厳粛さで彼はそこに在る。


「……よく来れたな」


 その落ち着き払った態度が、恭介の神経を逆撫でする。

 自分は傷だらけになりながら己の存在を賭してここまで来たのだ。なのに、この男は最初から未来を見通していたかのように、涼しい顔で座している。

 頭に血が上り、視界が赤く明滅した。


〈〈やれよ〉〉


 鏡介が、口元だけで悠然と微笑む。

 恭介は喉奥から絞り出すように絶叫し、《潮断》を振り上げた。


「――あああぁぁっ!」


 間合いは十分。一気に踏み込む。

 だが。

 刃が鏡介の額に触れる寸前、腕が空中で凝固した。


 ――斬れ。


 脳は命令しているのだ。

 殺せ。殺さなければ全てが無駄になる。

 恋人との決別も、親友の喪失も、この手で屠った島民たちの断末魔も、全てが徒労に終わる。


 ――動け、動け!


 血管が切れそうなほど力を込めても、筋肉は微動だにしない。切っ先が小刻みに震えるだけだ。

 どうして。

 彼こそが全ての元凶、諸悪の根源だ。

 なのに、なぜ腕が動かない。どうして刃を振り下ろせない?


〈〈できねぇよなぁ? だって……〉〉


 膝から力が抜け、ついにその場へ崩れ落ちる。

 荒い息を吐く恭介を、鏡介は慈愛に満ちた、とろけるような眼差しで見下ろした。


〈〈お前は優しい子、だもんな〉〉

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