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第十二話「境界」後編

 僕に情が残っているとでもいうのか。

 同じ『きょうすけ』だから斬れないとでも?


 違う。

 この拒絶は情動ではない。

 脳髄が、自分と似た『顔』の持ち主への敵対行動を自傷行為と誤認し、筋肉へ強制停止を命じていた。

 認識の焦点が狂う。航海による疲労で判断力が泥の底へと沈んでいた。均衡が、足元から崩れていく。

 その致死的な乖離を、目の前の怪異が見逃すはずもなかった。


 座り込む恭介へ、鏡介は勝ち誇る。


「ククッ……そうだ。俺とお前に、最早境目なんざ必要ない」


 死人じみた白い手が伸びる。

 反射的に霊刀を振るおうとした。が、重力が数倍になったかのように腕が上がらない。悠々と待ち構えていた神と、満身創痍の人間。その残酷なまでの力量差が、絶望となって可視化する。


「俺はお前となり、お前は俺となって、永遠に生きるんだよ」


 万力のような握力が恭介の首根っこを掴み上げる。間近で覗き込む金色の瞳が、うっとりと細められた。


〈〈沈め〉〉


 (かみ)は禍々しいまでに艶やかな声で唱えた。


〈〈侵蝕呪法――私界(しかい)〉〉


 世界から色彩が剥落した。

 自他の境界を消し去る最大最悪の呪術が恭介を侵す。

 無定形の影と化した鏡介が、物理法則を超えて肉体を蹂躙した。全身を繭のように包み込んだかと思えば、触手の如く毛穴という毛穴から潜り込み、内臓を棘で食い破る。

 闇が墨汁の如く辺りに滴った。意識の襞を一本一本、彼の手指が愛撫する。忌まわしき感覚に胃が裏返った。その嘔気すら心地よさに変わる。五感、思考、神経……“恭介”の全てが彼の色に染まる。


 拒絶が受容へ。

 苦痛が快楽へ。

 恐怖が安らぎへ。

 何もかもが鏡介に都合よく改変されていく。


 ――僕が、消える……。


 自己が塵となりかける。

 だが、指先の感覚はまだ生きていた。

 恭介は消えそうな意識を総動員し、《潮断》の刃を逆の掌へと押し当てた。


「がっ……ああぁぁっ!」


 引き裂く。

 肉を、神経を、ためらいなく断ち切った。

 白黒の世界に鮮烈な『赤』が走る。

 激痛。

 この灼熱だけは、鏡介が決して持ち得ぬ生命の証だ。


「お前に“僕”は渡さない!」


 激烈な痛覚信号で脳を焼き、甘き『私界』の麻酔を強制的に解除する。術の拘束が緩んだ。自我を取り戻した恭介は、真っ直ぐに鏡介を睨み据えた。


「ありえん! 俺の世界を塗り替えただと!?」


 鏡介が激しく狼狽する。

 神である彼には到底理解などできないだろう。生身の肉体が発する痛みの鮮明さが、時に絶対の理さえ凌駕するという事実を。恭介はそれを今、魂の底から確信していた。

 止めを刺すなら今だ。

 恭介は掌からどくどくと溢れ出す血を《潮断》の刀身に滑らせる。霊力が血液を媒体に増幅し、白銀の刃が紅蓮に輝いた。

 全霊の力で自らを覆う影を一刀両断に処す。


「断て――《潮断》ッ!!」

「バ……バカなああぁぁぁっ!!」


 一閃。

 果てしなき闇が裂け、晴天の如き光が恭介を照らす。

 人と神との境界線が今ここに敷かれた。

 裂け目から噴いた水飛沫に薄い虹が掛かり、洞窟内に神聖なまでの静寂が訪れた。



 ***



 肉体が地面を打つ音が反響する。

 神威を剥ぎ取られた鏡介は、ただの肉塊として倒れ伏した。


「や……やった……」


 肺が焼ける。恭介は膝の震えをねじ伏せ、上体を起こした。

 終わった。

 これでもう、奴の粘着質な悪意が牙を剥くことはない。

 切り裂いた掌が痺れた。失血で身体がぐらつく。朦朧とし始めた意識を、突如現れた“異物”が引き起こす。


「大輔!? 死んだはずじゃ!?」


 背後に佇んでいたのは、黄泉路へ消えたはずの親友だった。

 暗黒の地下洞窟で、倉持大輔が在りし日の逞しいスーツ姿で佇んでいる。全く理解が追い付かなかった。


「説明は後だ、早く脱出するぞ!」


 声は切迫していた。大輔の手が恭介の手首を掴む。硬質で乾いた冷たさが皮膚に食い込んだ。

 連れられるがまま小舟へ戻ろうとしたその時。背後で空気がどろりと蠢いた。


「……逃がさない……。俺から逃げるなど許さないッ!」


 鏡介が上体を起こし、充血した眼で睨みつける。

 彼は絶叫し、再び『私界』の術を放った。だが標的は恭介ではなく――空間そのものだった。影が岩を侵食し、固形の地面が液体へと変質する。

 洞窟内が忽ち大嵐の海に変じた。

 塞がっているはずの空に黒雲が立ち込め、雷鳴が轟いた。鏡介であった闇が溶け落ち、荒れ狂う海水と混じり合う。彼は破れかぶれで己と海神の境界を消し去り、融合したのだ。


「拒むならその男ごと道連れだッ!!」


 恭介と大輔に向けて、ねじれた波の壁が迫る。二人は小舟に飛び乗り、必死で櫂を操った。

 波間から巨影がせり上がる。

 それは、無数の触手を携えた異形だった。濡れた皮膚に開いた幾百の鰓が、瘴気を求めて開閉する。かつて甘美な誘惑を囁いた唇は、軟骨が溶解し、くぐもった呻き声と潮の腐敗臭を撒き散らすだけの器官に成り果てていた。正視に耐えぬ悍ましき姿は、人智の及ばぬ冒涜的な神格そのものだった。


 衝撃。

 小舟が木の葉のように舞い上がり、転覆する。

 恭介の身体が虚空へ投げ出され、冷たい海面へと叩きつけられた。


 ――あの時と同じだ。


 鼻腔に侵入した塩水の痛みが、四年前の記憶を呼び起こす。

 光が遠のき、水圧が鼓膜を圧迫した。

 死ぬ。

 今度こそ本当に死んでしまう。

 四肢が鉛のように重くて動かない。意識が黒く塗りつぶされそうになった、その刹那。

 強烈な力が、腕を掴んだ。


「生きろ! 恭介!」


 大輔だった。

 彼は力強く恭介を引き上げた。眼前に白い光が弾ける。たちまち身体が浮上し、そして――。


 ……。

 …………。


 夜明けの海辺にて。

 恭介は頬に触れる砂の感触で覚醒した。

 薄紫色の空に、穏やかな凪。いつの間にか見知らぬ砂浜に漂着し、身を横たえていた。あの大嵐が嘘のように世界は静寂に包まれている。

 全てが夢のような出来事だった。あの洞窟の正体は、常世と現世の境界だったのかもしれない。

 今、五体満足で自分がここに在れるのは、大輔が向こう側から救い出してくれたお陰だった。そして怪物と化した鏡介の奥底にも、もしかしたら――。


 ……君は、僕を助けてくれたのか?


 胸の内に問いかける。だが、返事はない。

 切り裂いたはずの掌も確かに動く。


 身体が、ひどく軽かった。


 長年恭介に纏わりつき、蝕みながらも支えてきた”彼”の気配は綺麗に消え失せていた。その大きすぎる空白を埋めるように、大洋の彼方から優しい声が響く。


『俺は遠くから、お前を見守るよ』


 ――そうか。

 ――君は先に()()()んだね。


『恭介。お前は、ゆっくり来るんだぞ……』


 “彼”の声色に今や怨嗟や執着は無かった。

 熱いものが目頭に込み上げる。あれだけ執念深く同化を迫った男が、最後には自分を一人の人間として認めてくれた。

 人殺しの罪と拭えぬ孤独は、この先もずっと自分を苛み続けるだろう。けれど、海となった彼が向こうで待っていてくれるのなら。


「……もう、怖くないよ」


 間もなく救助隊が駆け付ける。雑踏の先で、海が一瞬凪いだ。男の大きな手のような優しい風が吹き、恭介の長い髪をさらりと撫でた。


 Fin.

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