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第十一話「祟り神の孤島」後編

 ――嫌だっ、嫌なのに……!


 腰が抜けた恭介へ、鏡介の白い手が伸びる。

 息が詰まった。彼の指は、死人の如く冷えきっていた。心臓が凍りつく。すると、耳元へまた囁きが吹き込まれた。


〈〈力を抜け〉〉


 あまりにも甘い響きで下腹部が疼く。吐息だけが人間の温度だった。言葉の意味は、遅れてついてきた。

 眼前に迫る金色の瞳。虹彩の輝きに吸い寄せられて、身体が言うことを聞かない。逆らえない。意思や思考は最早役に立たなかった。肉体だけが底なし沼に引きずり込まれる心地だった。

 鏡介の手がシャツの下に滑り入る。触れられた箇所が、氷温と微熱のあわいで恐慌する。身を捩った拍子に眼鏡がずれた。視界がぼやけて、より他の感覚へ没入してしまう。


〈〈そう……全部俺に委ねちまえ〉〉


 首筋に柔らかいものが触れる。仄かに生肌が香った。脳裏に自身の尊厳が蹂躙される“最悪”の光景が浮かぶ。だが身体は、そうなることを望んでいた。思考を放棄し、この蜜のような声に溺れ、己の全てを捧げてしまいたい……。


 ――もう、ダメだ。


 瞼を閉じたその刹那。

 湿った空気を、泥臭い音色が裂いた。


「……誰かいるのか!?」


 聞き間違えるはずがない。ひどく懐かしくて、二度と聞けないはずの声だった。


「だ、大輔!?」


 ぱっと目を見開くと、鏡介は消え失せていた。

 恭介は乱れた服を整え、立ち上がる。幸いにも施錠は内側からだった。扉を乱暴に開け放ち、廊下へ飛び出した。

 等間隔に並ぶ牢の一つ。格子の隙間から、痩せ細った人影がこちらを凝視している。


「大輔! 生きてたんだね!」

「……恭介、恭介なのか!?」


 松明の明かりに照らされた頬はこけ、眼窩は窪んでいる。だが、顔と背丈は紛れもなく倉持大輔だった。


「お前……まさか、あのメモをマジにしたんじゃないだろうな?」

「ううん。でも君が無事で本当によかった……!」


 涙腺が熱くなるのを堪え、恭介は檻の錠前に手をかけた。


「君こそなぜ、ここにいるんだい?」

「あの事故の後、俺はこの島に流れ着いたんだよ。そのまま石見って奴に監禁された。『お前は倉持家の血筋、お前こそ神婿に相応しい』って……意味わかんねぇよな」


 大輔の乾いた笑いが、恭介の脳内で不穏な断片を繋ぎ合わせる。

 かつて、倉持家は海の祭祀を担う一族だと聞いた。ならば彼の中に流れる血こそが、禍澗島の因習が求める“正当な生贄”ということか。本人がそれを知らずに育ったのは、親族によるせめてもの防衛策だったのかもしれない。


「何でもいい、早くここから脱出しよう!」


 恭介は鞄から針金を取り出し、鍵穴へ滑り込ませた。初めてのピッキングに悪戦苦闘する。

 ようやく鉄格子が軋みを上げて開いた。大輔は一瞬だけ目を伏せ、淡く苦く、弱々しげに笑う。


「この島を出たらさ。……旅行、やり直そうぜ」


 言葉の裏にある思いを察した。知らないままでいることが、双方のためだと感じた。

 大輔の腕を引き、一歩を踏み出したその時。

 ドタドタと、無数の足音が頭上の階段から雪崩落ちてきた。


「掟を破ったな」


 石見を先頭に、松明と農具を手にした島民たちが地下通路を埋め尽くす。揺らめく炎が、彼らの無表情な顔を不気味に浮かび上がらせていた。


「余所者と結託して脱走を試みるとは何と愚かな。お前は神婿に相応しくない」


 石見の声には個人の憤怒よりも、(ことわり)を乱す異物への忌避反応があった。

 抵抗する間もなく、二人は屈強な男たちに拘束される。

 地下から引き立てられ、夜の広場へと連行された。周囲を松明の火の環が囲む。熱気と煙が酸素を奪い、視界を歪ませる。


 大輔が広場の中央に突き飛ばされた。


「やめろ! 彼は関係ないだろう!」


 恭介の叫びは、夜風にかき消えた。

 石見が静かに右手を挙げる。

 執行の合図だった。

 村人の一人が構えた槍が、何のためらいもなく大輔の胸郭へ突き出される。


 ドスッ、と湿った音がした。


「ぐあぁっ……!」


 鮮血が噴き上がり、地に吸い込まれていく。

 思考が白く弾け飛んだ。

 大輔が、刺された。

 なぜ。どうして。


「そん、な……」


 膝から力が抜け、地面に崩れ落ちそうになる。

 その瞬間、脳裏にあの声が忍び寄った。


〈〈いい怒りだ。俺だって胸糞悪いよ〉〉


 鏡介だ。

 恋人のような距離感で囁きかけてくる彼。


〈〈憎いなら、俺がこいつらを殺してやる〉〉


 視界の端に、紋付袴の袖が見えた。背後から抱き寄せるように、白い腕が伸びてくる。


〈〈お前の痛みは、俺が抱く。その憎しみも、絶望も、全部俺に寄越せ〉〉


 そうだ。彼に身を委ねれば楽になれる。理性を手放し、破壊衝動をもって、この耐え難い喪失感を肩代わりしてもらえばいいのだ。

 だが。

 恭介は奥歯を噛み締める。

 ……こいつはどこまで僕を奪う気なんだ。

 自分と他人の境界線すら曖昧にして、僕の人生を、僕の感情を、何もかも食い潰すつもりか。

 全身の血液が沸騰し、血管を焼き尽くす。


「違う……!」


 恭介は隣にいた村人の手首を捻った。そのまま骨を折り、彼が悲鳴を上げる前に槍を奪い取る。


「これは僕の怒りだ!!」


 叫びと共に、恭介の肉体が加速する。

 長く鏡介を宿し続けた身体は、正気のまま常人を超えていた。凄まじい速度で得物を振るう。


 石見が何かを叫ぼうとして、その喉元を槍の切っ先が貫通した。


「僕は正気! 僕は正気だ! 僕は正気なんだッ!!」


 血飛沫を浴びながら、恭介は呪文のごとく繰り返す。

 暴走ではない。唆された結果でもない。自分が自分であるための最後の確認。自我を飲み込もうとする鏡介への、決死の呪い返しだ。


「僕の怒り! 僕の怒りだ! 僕のっ……!」


 槍が折れれば鉈で、鉈が潰れれば素手で。

 精密機械のような正確さで、急所だけを破壊する。恭介はただひたすら、全自動的に、目の前の有機物を屠り続けた。


「……は、ぁっ、はぁっ……」


 やがて、広場から動くものが消えた。

 火の粉だけが微かに舞う。

 気付けば、儀式に集まった島民全員の死体が転がっていた。


 恭介は肩で息をしながら、よろめく足取りで中央へ戻る。

 大輔は――もう、動かない。

 駆け寄ってその身体を抱き起す。体温が急速に失われ、心音は微弱な雑音になりかけていた。


「……ごめん」


 彼は虚ろな目で恭介を捉え、笑おうとして、ゴボリと血を吐いた。


「本当は……もっとお前と、一緒に……」


 最期の一言は、形を成す前に空気へ溶けた。

 友の瞳から光が消える。

 恭介の腕の中で、首ががくりと落ちた。



***



 広場に乾いた風が吹き抜けた。砂埃が舞い、濃密な血の臭いを攫っていく。

 止まっていた思考が、ようやく動き出した。


「……ぁ、あ……」


 終わった。何もかも。

 僕は人を殺した。

 あの比留野村での惨劇とは違う。当時は“彼”が肉体を乗っ取り、自分は内側からその殺戮を傍観していた。飛び散る赤も、肉が裂ける不快な音も、制御不能な悪夢の景色だった。

 けれど今回は、紛れもない自分の意思で刃を振るった。

 掌に残る脂の滑りも、骨を断った硬い衝撃も。全ては自分が選び、自分が執行した現実である。


 二十人以上を殺してまで守りたかった”僕”とは、一体何だったのだろう。


 横たわる大輔は今や、四年前の海より冷たい。

 彼は死んだ。

 今度こそ本当に、物言わぬ肉塊となった。

 何もかも失った。

 例え本土へ帰れたとして、罪の重さと孤独が待つだけ。生きていける自信がない。


 呆然と立ち尽くしていると、広場の向こうから紋付袴の男が歩み出てきた。漆黒の袂を揺らし、足音もなく近づく彼。辺りに広がる死屍累々を、まるで我が子の“成長”でも採点するかのごとく、じろりと眺めた。


「……ふぅん。俺がいなくてもやるようになったじゃねえか」


 人の心を持たぬ神の目線だった。

 再び血液が沸騰し、視界が赤く明滅する。


 その時、石見の死体の懐から《潮断》が滑り落ちた。

 黒い鞘が乾いた音を立てる。

 恭介は刀を拾い、柄を強く握り締めた。指の関節が白く浮き、爪が掌に食い込む。


「この手がどれほど汚れても、お前と決着を付けてやる」


 恭介は鏡介を睨みつける。

 切っ先越しに殺意を突きつけても、彼は悠然と微笑んでいた。

 鏡介の声が厳かな神の色を纏う。


〈〈来い〉〉


 闇色の背中は鳥居の向こう側、禁足地「子島」への道に消えた。

 恭介は後を追う。

 彼に命じられたからではない。

 自分と彼との境界線を取り戻すために――。

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