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第十話「裂都事変」後編

 暗い海に、沈んでいた。

 遥か頭上で水面が揺らめいている。海越しの銀河から星光が降り、蛍のような燐光が宙を漂っている。恭介は海底に倒れ伏し、星空をぼんやりと眺めていた。水中のはずなのに空気があり、冷たいはずなのに温かい。夢にしては鮮明で、現実にしては美しすぎる。


 ……ついに死んだのか、僕は。


 終わってしまった無念に打ちひしがれた。天穹の下、胸の奥で言い損ねた言葉たちがひしめく。


〈〈……遅かったじゃねぇか〉〉


 傍に、知らない人物が佇んでいた。

 自分と似た顔に、含み笑いを湛えている。金色の瞳に、肩まで伸びて右側で結えた黒髪。厳かな漆黒の紋付袴に身を包む、冷たい存在感の男である。


「……君は、あの祠の神……なのか?」


 口にしてすぐに、心の内で否定する。彼とは初対面だが、何年も一緒にいたような馴染みがあるから。彼も首を横に振る。


〈〈いいや。あいつはあいつで、俺はお前だ〉〉


 答えになっているようでなっていない。だが、距離の近さが既に“答え”だった。男は微笑む。


〈〈お前って本当に甘えん坊だよな。女を抱く時も俺を呼ぶのかよ〉〉


 女?

 どういう意味だろう。

 疑問は生まれた側からぬるく溶かされていく。

 彼の声は穏やかで、どこか妖しいから。


〈〈まあ、叶えてやるよ。お前の望みなら何でも……な〉〉


 意識がゆっくりと浮上する。水泡が弾け、闇が晴れる。あやふやな認識の中で、一つだけはっきりと理解できた。


 ――ああ。この男こそが、“彼”の本体だ。


「恭介さんっ!」


 はっと目を覚ました。

 白い蛍光灯が視界を刺し、耳鳴りに襲われた。口内は乾いて苦い。綾子が泣きながら手を握っていた。指は冷えているのに、涙は熱かった。


「……ここは……?」


 恭介は辺りを見渡す。地下鉄を探索していたはずが、いつの間にか無機質な商業施設のバックヤードにいた。シャッターの向こうから崩落音と遠い叫びが断続的に響き、床が微細に振動する。


「エスタル仙台です。あなたが道路で倒れているところを、通りすがりの方と助けたんですよ」


 仙台駅直結、イービルンズ仙台に程近いデパートのことだ。自分の手足には包帯が巻かれている。擦過傷の痛みが遅れて走った。

 救助の途中で落としたのか、《潮断》は懐になかった。周囲に人影はなく、恭介と綾子の二人きり。徐々に胸の奥から感情が溢れ出した。


「綾子さん……!」


 恭介は彼女の身体を抱き締めた。崩れ落ちる瓦礫の陰で、二人は生きている確かさを求め合う。唇同士が触れ、抱擁が熱を帯びた。


「あぁぁ……無事でよかった……!」

「怖かった……あなたが、死んでしまいそうで……!」


 綾子は涙を滲ませ、震える声で漏らした。彼女の温もりに触れるたび、愛おしさが込み上げる。恭介は何度も何度も名前を呼んだ。


「綾子さん……、綾子さん……!」


 今こそ想いを伝えたい。現在(いま)を逃せば、永遠に言えない。


「この異変が終わったら、僕と……」


 僕と結婚しよう。

 その告白を、別の声が上書きした。


「――俺“達”と結婚しよう」


 “彼”だ。

 “彼”が恭介の肉体を乗っ取ったのだ。

 一瞬で背筋が凍り付く。


「あなた……誰……?」


 綾子は後ずさる。だが手はほどけない。

 戸惑う彼女に“彼”は囁く。声が密着し、空気がとろめいた。


「お前は結ばれたかったんだろう? この――()()と」


 ――おい、やめろ!!


 恭介の視界が引き剥がされた。瞬く間に『座敷牢』へ閉じ込められ、綾子に触れる“彼”を眺めさせられた。闇は濃く、逃げ場はない。


「来いよ。うんと優しくしてやるから」


 “彼”の微笑みは、恭介の目から見てもたまらなく蠱惑的だった。ゆっくり、温度を確かめるように白い頬を撫でる。その指が自分の指であることに、吐き気を催した。


 ――やめろ! やめろ! やめろ!!


 恭介は鉄格子に飛び掛かり、叫ぶ。

 だが格子はびくともしない。絶叫しようが、体当たりしようが、二人はこちらを一瞥もしない。


 ――頼む! 拒め! 拒んでくれ!!


 必死の願いも虚しく、綾子は頷いた。


「……は、い……」


 瞳を潤ませ、“彼”の口づけを受け入れる綾子。そのまま、彼女は愛撫する指へ身を預けた。息が乱れ、恭介の世界は黒く点滅する。


 ――暴力に留まらず、こんな真似までっ……!


 恭介の絶望は届かない。届かない。届かない。

 代わりに、“彼”の思念が流れ込んだ。脳髄へ水飴を垂らすように、甘く、冷たく……。


〈〈お前の願いは、全部俺が叶えてやる〉〉


〈〈この女を、俺からお前へ捧げてやろう〉〉


〈〈全ては、俺とお前のものだ〉〉


 ――やめろおおおおおおぉぉぉぉ!!


 叫びが鉄格子に吸われる。

 “彼”は、あまりにも悍ましい存在だった。

 恭介はあの時、内なる神を受け入れたことを心の底から後悔した。



***



「うっ、……ぅっ……」


 事が終わった後、恭介は嗚咽していた。肺の奥が攣れ、息が薄く途切れる。

 最中の出来事は、全て“彼”と感覚を()()していた。自分の知らなかった声、死にたいほどの羞恥。指先には、まだ綾子の温もりが残っている。


 ――彼女を奪われた。


 涙が止まらない。

 抑えていた欲望を“彼”に見抜かれた。

 ずっとしたかったことを、取って代わられた。

 心の奥底にあった願いが、最悪の形で実ったのである。

 綾子は既に避難所を立ち去っていた。行き先は知らない。知る権利はない、と自分で断つ。


 ――“彼”はもう、僕の手には負えない。


 このままでは“彼”はあらゆるものを奪ってしまう。「恭介の望みだから」と称して……。外からの瓦礫の音が、鼓膜を叩き続けた。

 仙台の街が、再び沈み始めている。

 崩壊の音色が嗚咽を止めた。ここで折れれば、街の悲鳴も“彼”の餌になる。


「僕が……僕“達”がやらなければ」


 仙台が、日本が滅ぶ。

 バックヤードを出ると、亮と俊哉が駆け寄ってきた。地下で逃げ遅れた人を引き上げ、恭介を探し回ってここへ辿り着いたのだ。二人とも煤で顔を汚し、息が荒い。


「先生、助けてください! ボクらではもう無理です……!」


 眼前、イービルンズ仙台から光の柱が聳え上がっていた。水神の怒りは今や霊力の奔流と化し、街を呑み込もうとしている。裂け目の先から海の匂いが吹き、金の燐光が泡立った。


「恭ちゃん! これの力で止めてくれ、頼む!」


 亮は光り輝く短刀《潮断》を恭介へ手渡した。二人に託され、祠へ立ち向かう。柄を固く握り締め、己の内へ呼びかけた。


「……おい。僕の願いは全部叶えるんだろ。だったら止めろよ。この崩壊を」


 答えは、力強かった。


〈〈当然だ〉〉


 刀を振り上げる腕に、紋付袴の手が被さる。温度はなくとも、重みは確かだった。

 恭介は叫び、御神体たる鏡へ刃を突き刺した。金の水泡が爆ぜ、風圧が全身を叩く。

 凄まじい爆風。

 蒼白い霊光が街を洗った。

 世界の断層が、縫い合わされるように閉じていった。


「っ……あぁ、っ……!」


 《潮断》を行使した副作用は激しかった。自我まで揺るがす振動が骨髄に走り、膝が砕けそうになる。それでも這い出すように地上へ戻った。


 外は夕暮れ。

 廃墟の向こうに、綾子がいる。

 そうだ。僕は彼女のために頑張ったんだ。

 身体は“彼”に奪われてしまったけど、心なら引き留められると信じて異変を封じた。

 凍りかけていた口角を上げ、手を伸ばす。


「……綾子。君のために、僕は……」

「来ないで!」


 だが、綾子は恭介の手を跳ねのけた。乾いた音が弾ける。


「覚悟はしてたつもりだった……。でも、“ああなる”とは思ってなかったの!」


 彼女の黒い瞳は怯えきっている。


「私、あなたと結婚したいと考えてた。だけど“二人とも”なんて……と、とても受け入れられない」


 綾子は小さな背を向けた。


「だから……ご、ごめんなさい……」


 最後に一度だけ振り返った顔には、軽蔑と、ほんの僅かな未練が浮かんでいた。


「……あああぁああぁぁぁっっ!!!」


 恭介は地に伏せ、慟哭した。


 ……それでもなお、都市の崩壊は止まった。

 停止した時が少しずつ動き出す。

 亮は人々の救助に加勢した。


「恭ちゃん、泣くのは後! まだ生きてるやつがいる!」


 俊哉は家族の身を案じて帰路に就いた。


「……先生。ボク、帰ります。家が無事かを確かめないと……」


 河本も即日、莫大な復興支援金の寄付を決定したとラジオが報じた。


『河本輝政氏は「損害額は兆単位。だが命あれば希望はある」と述べ……』


 綾子も、きっと近くて遠い空の下で生きている。


 止まっているのは恭介の時間だけだ。

 綾子と別れてから、白夜堂に帰宅するまでの記憶がなかった。

 気づけば夜。

 瓦礫の街路に冷えた風が流れている。

 天の川が煌めく廃都の中央で、恭介はひとり呟いた。


「“彼”を滅す。例え世界を引き換えにしてでも」


 裂都は鎮まったが、心の海では荒波が渦巻いたばかりだ。

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