第九話「影の檻」後編
また喉が乾いてきた。
舌が紙やすりみたいに粘つき、唾を飲んでも飲んでも焦燥が収まらない。
ペットボトルを傾けてもスポーツドリンクは一滴しか落ちない。底に残る甘い匂いだけが鼻を刺し、空の容器が情けなく鳴った。
……このまま死んでしまうのだろうか。
口腔の渇きは、恐怖をいたずらに増幅する。埃を吸う痛みが追い討ちをかけた。壁の染みが獣の顔に見え、遠い配管音は人間の嘲笑に似る。早くこの建物から脱出しなければ……。
もつれかける足を整え、手すりへ爪を立てるようにして一階へ降りた。踏み外したら終わり、という確信だけが背中を押す。
その時、壁をすり抜けて“彼”が現れた。
冷気が、嘲りを帯びて立ち上がる。恭介と同じ輪郭、同じ服。違うのはやはり金色の瞳だけだ。
「……どうだ、気は変わったか?」
余裕の笑み。当然こちらが屈するだろうと高を括っている。恭介は深く息を吸い、声を張った。
「いいや。この身体は譲らない!」
どんなに苦しくとも、自我までは明け渡したくない。吐いた言葉の熱で喉が焼けかけた。
「僕は僕だけのものだ!」
“彼”の表情が凍りつく。次の瞬間、距離が消えた。
瞬きより先に殴り飛ばされていた。
「がっ……!」
星が散る。視界が白く弾け、頬の裏に鉄の味が広がる。それでも恭介は立ち上がった。拳を握ろうとしたが、指が痺れて言うことをきかない。
「一発じゃ足りねぇみたいだな」
低い声が至近距離で囁く。
ついに“彼”は馬乗りになって殴りかかった。拳が顔面にめり込み、鼻梁を砕く。殴打のたびに魂が浮き、意識が遠のいた。
「が、はっ……!」
恭介は血を吐く。
渇きに鉄臭い液が混ざる。
金眼の男は、明らかにこちらを弄んでいた。
――今まで怪異を一撃で葬ってきた“彼”が、僕を殺せない訳がない。
拳より、その事実の方が痛かった。殴られた拍子に鉄格子が視界に入る。廊下の向こう、どこにも通じない格子。
頭に流れ込んだのは、『座敷牢』の光景だった。四畳半の空間。湿った畳。出口なき闇。遠のきかけた意識の淵ではっと思い至る。
――まさか“彼”は……いや、“彼”も――。
「ずっと『座敷牢』の中にいたのか!?」
「……今さら気づいたかよ」
“彼”は舌打ちする。馬乗りの体重が、ほんのわずかに増した。
「お前が起きてる間、俺は闇で腐ってた。檻には何もなくて、どこにも行けなかった」
己と全く同じ声が、怒りだけでない感情で沈んでいる。
閉所に閉じ込められる恐怖。手も差し伸べられない無力感。自分が体験した苦しみを、“彼”は何十倍も何百倍も長く味わっていたのだとしたら……。
想像が膨らみ、目の奥が熱くなる。涙じゃないと言い訳する暇もない。
「……ごめん。ごめん、なさい……」
「謝っても遅い」
冷笑。だが、裏側の虚無に似た欠けを隠せていなかった。
「だったら俺を殺せ。俺を楽にしてみろよ」
“彼”の言葉が、刃みたいに突き刺さる。
次の瞬間、“彼”の姿が霧散した。馬乗りになっていた体重が消える。背中が床の冷たさを思い出し、恭介は呻きながら起き上がった。
自分は今まで、“彼”を得体の知れない化け物だと決めつけていた。恐れ、拒絶し、抑制することばかりに躍起だった。だが、先に触れた悲しみは、紛れもなく“人間”のものだった。視界が再び滲む。
……それでも。
身体を譲りたくない。“死ぬ”と“乗っ取られる”は違う。
海難事故の後、死にたいと願ったことは確かにある。しかし、それは終わらせたい願望であり、誰かへ委ねる許可ではない。
自分で考え、自分で選び、自分で失敗したい。人生の主体だけは奪われたくなかった。
――僕は『恭介』でいたい。
“彼”に身を任せれば楽になるのは知っている。
だがどれだけ痛くても、歪んでも、行動の責任は最期まで手放したくなかった。
……生きたい。
生きて、ここから出たい。
思考を、自我を保ててる内に脱出しなければ。
恭介は壁に手をつき、呼吸を刻んだ。血の味に眩暈を覚えつつも廊下を進む。
やがて一階の大広間に到達した。
静止した空間の中、埃だけが舞っている。
壁の案内図が薄闇に浮かんだ。指でなぞると紙がざらつき、古い糊の匂いが立った。
――「県立北奥精神病院」。
粘る唾を飲み込む。
ここは今回の祓い屋業務、本来の目的地だった。
***
一体いつ辿り着いたのか。
それを考える余裕はもうなかった。
恭介はロビーへ駆ける。靴底が欠けたタイルを叩き、反響が追いすがった。
出口が見えた瞬間――“彼”が立ちふさがった。
暗闇に、金色の瞳が静かに灯っている。
「覚悟はできたか」
瓦礫の破片が投げ渡される。
掌に収まったそれは、ナイフのように手へ馴染んだ。指先が切れ、温い血が滲む。
「それで俺を刺せよ」
恭介は、瓦礫片を構える。
命令に従うのは簡単だ。暴力に走れば、何も考えずに済む。だが――その選択は逃げだ。
「……本当の望みは違うだろう?」
その言葉は“彼”だけではなく、自分にも向いた。
「何?」
「君はずっと、誰かに認めてほしかったんだ」
口にしてしまえばあまりに単純なことだった。恭介は破片を捨て、微笑む。
「僕らは身体を共有しているんだ。苦しい時も、『座敷牢』でお互いを見ている」
戸惑う“彼”へ手を差し伸べた。
「君がどう在ろうとも、僕は――そばにいるよ」
金色の瞳が、初めて人間的な熱で揺れた。
“彼”はそっと手を差し出した。指先が静かに触れ合う。温もりが伝わる。長い永い時を経て、ようやく“彼”とわかりあえた気がした。
……僕も本当は、誰かにこうしてほしかったんだ。
眩しい光が視界を呑み、世界が裏返った。
……。
…………。
いつの間にか、真新しい病室で寝ていた。腕には点滴。音を刻む心電図。消毒薬の匂いが鼻を掠める。
綾子の細い指が、自分の手を握っていた。
「よかった! 目が覚めて……!」
綾子は涙を落とした。恭介は状況が飲み込めず、ただ視線を泳がせる。
その時、勢いよく病室のドアが開いた。
河本輝政だ。
「流石だ恭介くん! 想定以上の数値だよ!」
彼は書類の束を手にし、物凄く上機嫌だった。
「実験大成功! 『祓い屋』実働モデルの完成だ!」
「……実験、だって……!?」
恭介は青ざめる。腕に刺さった点滴の針が、遅れて痛みを運んだ。
「今回の案件、実は祟り神を出すテストだったんですわ。噂は常々お伺いしてたんですけど、中々見る機会がなかったもんでね」
信じられない言葉に、恭介の掌がわなわなと震えた。だが思い返せば、確かに、河本へ直接“彼”の力を披露したことは皆無だった。
頭に血が登る。起き上がった勢いでベッド脇の点滴棒が倒れかける。
「お前は、人の心を弄んで……!」
傍らの綾子も涙ながらに河本を責めた。
「恭介さんを酷い目に遭わせて、何が楽しかったんですか!?」
二人の怒りとは裏腹に、河本の語り口はビジネスみを帯びる。
「誤解せんといてください。これはイジメじゃなくて適応訓練ですよ。祟り神を制御できなければ『祓い屋』を長期継続するのは難しい。それに肉体の主はあくまで北条恭介。己の一部を否定し続ければ、精神は必ず破綻する。だから彼自身に折り合いをつけてもらう必要があったんですわ」
恭介も綾子も反論できず、ただ唇を噛む。
「でもこの調子なら大丈夫でしょう。今後ともよろしく頼むよ。恭介くん!」
河本は手を振り、でっぷりとした背中を向けた。
「一つだけ聞かせてくれ!」
恭介は震える声で問いかけた。
「私は……実験で人を殺したのか!?」
「いいや。君の中の神は、もう人間相手じゃ満足できんよ」
河本はニヤつきながら病室から去った。
恭介は拳を握る。爪の隙間には僅かに血の跡が残っていた。
それが誰のものか、今や確かめる術はない。
「私はあなたを……信じてますから……」
綾子の慰めがひどく空疎に聞こえる。
〈〈どんな時でも、俺がついている〉〉
対して“彼”の言葉は、胸の底から力強く響いていた。
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