第九話「影の檻」前編
闇の“座敷牢”で見た金色の瞳は、夢じゃなかった。
目覚めた先は記憶に無い廃病院。監視カメラだけが生きている。
脱出の過程で、恭介は初めて“彼”と対話する。
狭く、重い闇だった。
漆黒そのものが湿って背中に貼りついている。鼻を刺すのはひたすら陰鬱な匂い。ここがどこかは断言できない。けれど、なんとなく察していた。
――『座敷牢』だ。
己の内側にある牢獄。“彼”の人格が顕れている時、自分をいつも閉じ込めている牢。
恭介は緩慢に身体を起こした。
身じろぎに合わせてざらりと埃が舞う。軽く咳が出た。太い鉄格子、四畳半の畳、厳めしい鍵。閉塞感で、呼吸が苦しかった。
檻を隔てた先で、何者が戦っていた。
暗がりの奥で閃光が弾け、火花が散る。刃がぶつかるような音が遠くから響き続けた。敵の姿はわからない。人間か怪異かもわからない。なのに、死闘を繰り広げる“誰か”の輪郭は鮮明だった。
……あいつは、誰なんだ。
不利に見えるのに奮戦する背中。ためらいのない踏み込み。肘の角度まで、見慣れている気がする。
恭介は格子に手を伸ばそうとした。だが、四肢が重すぎる。牢に沈殿する闇はあまりにも濃く、全身を掴んで離さなかった。仮に動けたとしても、鉄格子を突破する手立てはなかった。自分には彼を助けられない。何もできない。悔しさで再び畳へ身を沈めかけた。
戦う“誰か”がこちらを振り向く。
彼の瞳は、金色だった。
その輝きは光ではなく、刃のようで――。
「……はっ!?」
目覚めても、また闇だった。
今回は匂いが違う。埃と黴の中に、薬品じみた酸っぱさが溶けていた。
「ここは……」
声が近い。
反響は短く、部屋の狭さを告げていた。
恭介は辺りを見渡した。といっても、今度は正真正銘の真っ暗闇。場所も、時刻も、まるで見当がつかなかった。
身体が軋む。腕に触れると傷があり、瘡蓋が乾いていた。肋骨や腰にも痛みが滲みだす。
すぐに事態を悟り、血の気が引いた。
――“彼”が暴れた後だ。
しかしこの空間がどこかも、何をしたのかも思い出せない。記憶の本棚が丸ごと抜け落ちていた。無理に探ろうとすると、激しくこめかみの奥を締めつけられる。
時計も窓も見当たらない、ただただ冷たい一室。夢の牢と違って、ここには名前も手がかりもない。
……本当にどこなんだ!?
焦燥が遅れて襲ってきた。
場所の判断材料が一切ない。家から遠いのか、近いのかすらも判別する術がなかった。
恭介は深く息を吸い、吐いた。少しずつ目を暗闇に慣らす。黒の中から、黒より薄い線が出る。手探りで闇から立ち上がり、壁伝いに歩き始めた。“誰か”の金色を、瞼の裏に残したまま……。
***
喉が焼けた。
いつの間にか身体が渇ききっていた。ショルダーバッグを漁る。ペットボトルを探り当て、スポーツドリンクを一気に飲み干した。バッグから転げ落ちた懐中電灯を拾い、灯す。中身を確認すると、財布の他、持ち物は全て無事だった。
……ここは、病院なのか?
朽ちたシーツ。金属のベッド柵。鼻を突く消毒薬の匂い。だが窓は分厚い板で塞がれていた。壁際には案内板の跡だけが残存している。表示は削られ、糊の筋が乾いて白く光っていた。
へたりと床へ座り込む。床材は冷え、踵がじんと痺れた。上階特有の、空気が薄い感覚がする。根拠はない。それでも直感が囁いた。今いるのは高所。三階……そのあたりだと思う。
水分補給のお陰で幾分、思考力が回復した。恭介は一つ一つ、ここに来るまでの記憶を辿る。
自分はいつものように、河本の指令で『祓い屋』業務に向かっていた。
次の現場は青森の廃病院跡。「また長距離移動だよ」とうんざりしながら、自家用車を運転していた。仙台ICから高速道路入りし、岩手との県境を越えて……。
そこからの記憶がない。
車を走らせて、ここに辿り着くまで道のりが丸ごと抜け落ちていた。どれだけ脳を掘り起こしても、最早頭痛すらしない。まるで何者かの手で断絶されたかのように……。
これ以上の回想は無益だと、身体が先に判断していた。恭介は懐中電灯を頼りに廊下へ出る。
……静かだ。
床はワックスの艶を失い、足音だけが響く。人どころか、虫の声一つしない。出発から何ヶ月も昏睡していたのでなければ、今は九月中旬のはず。なのに鈴虫一匹鳴いていなかった。第一、窓がない。外界との繋がりを示すものが、周囲に存在しなかった。
恭介は耳を研ぎ澄ます。
ようやく僅かな異音を拾えた。天井を電灯で照らすと、真新しい監視カメラが付いていた。レンズがジィィ……とこちらに焦点を合わせる。
怖気が走った。
もしや、誰かが自分を陥れようとしているのか?
心当たりがありすぎる。比留野村事件の遺族、獄中の久世からの刺客。少なくとも強盗ではないのは確かである。金目当てなら、今頃バッグごと奪われていたはずだから。
廊下の角、扉脇の金属プレートに目が留まった。剥がされかけ、文字の大半が削れている。残っているのは『三階』の二文字だけ。
見た瞬間、頭がすうっと冷える。現在地が日本語圏であると初めて理解した。
……よかった。海を渡ってなくて。
治安の悪い海外にでも運び出されていたら、あらゆる意味で終わっていた。
恭介は階段室を発見し、鉄扉を押した。軋む音が腹に響く。段差を数え、踊り場を一つ越える。壁の表示は『二』。確かに降りた。ごくりと生唾を飲み込んだ。
下の廊下へ踏み出す。床の色も照明も三階と同じだ。診察室らしい扉、処置室のような扉、どれも淡いテープで封じてある。試しに引くと、取っ手が妙にぬるりと滑り、開かない。
背中が汗ばんだその時、暗闇の底から人影が現れた。
「誰っ!?」
ライトを向けると“自分”がいた。
顔も、体格も、衣服すらも全く同じ。
違うのは金色の瞳と、不敵な表情だけだ。
恭介は直感する。
――“彼”だ。
「いい加減、肉体を寄越せよ。お前より上手く使ってやるからさ」
手招きする男へ、首を横に振る。
「嫌だ……!」
「嫌、だと?」
“彼”が襟首を捕えた。爪が布地を噛み、喉仏が跳ねる。殴られる予感で目を瞑る。
「生意気な。散々俺に頼っておいてさぁ?」
だが、握力は唐突に霧散する。
瞼を開けると“彼”は消えていた。
まるで幻だったかのように。
……掴まれた感覚、確かにあったのに……。
シャツの襟元も“彼”が握って乱れたままだ。
何が何だか、わからない。
これは夢なのか、現実なのか。
怪異との戦い続きで、ついに気が狂ったんだろうか。
恭介はたまらず伸びっぱなしの髪を掻きむしった。
ふと壁を見ると、掲示に『三階病棟』とある。先ほど見た廊下と同じ角度、同じ高さの天井、同じ監視カメラが同じ場所で唸っている。二階へ降りたはずなのに、戻っていた。段差の感触は確かにあるのに、結果だけが書き換わっている。この建物は時間も空間も捻れていた。喉がまた乾きだす。
手がかりを求め、診察室……だったかもしれない部屋へ足を踏み入れた。机の上に、手記が散らばっている。紙面は黄ばみ、染みが血に似ていた。
《一九■四年 ■■月■四日 患者に神憑きの兆候有》
恭介は目を見開く。背筋が硬直し、手首が震えた。
――神憑きって、病なのか!?
《治療を試みるも改善せず。安楽死を提案する》
身が凍った。書面の三文字が、冷たい刃と化して喉元へ当たる。
自分も“彼”に頼り続ければ、いずれは……。
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