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第七話「倉持屋敷」後編

 廊下側できしり、と新たな音が響き、恭介は身構えた。現れたのは、帰宅したはずのこだまであった。

 時刻は二十一時。成人男性が女子高生を連れ歩くには危険な時間だ。安全確保義務違反にも繋がる。廊下の窓ガラスには夜の海がねばつき、異臭が昇り始めていた。


「君、帰りなさい。怒られるのは我々なんだよ」

「でも! まだ『ずるずる』の正体がわかってないもん!」


 こだまの頬肌は紅潮し、瞳は妙に冴えていた。怖いのか楽しいのか、若い呼吸は落ち着きなく上下している。

 彼女と口論になりかけたその時、井戸が粉々に割れた。

 湯水が沸騰するがごとく、真っ黒な異形が溢れ出す。

 現れた怪物は“海”を凝縮し、腐臭を放っていた。見上げる程の巨躯。鱗に、蠢く鰓。吸盤を備えた無数の触手。ぬめる皮膚の間から泡が破裂し、冷たい飛沫が頬を刺す。人智の及ばぬ深海の悪夢が、そのまま這い出てきたような悍ましさだった。


「なぎさ……ちゃん……」


 こだまが異形へ呼応する。虚ろな目で吸い寄せられ、触腕に捕まった。制服の裾がぶら下がり、足が床から浮く。


「こだまちゃんを離せ!!」


 亮が角材の破片を手に戦うが、全く歯が立たない。叩きつけるたびにぬるりとした肉が変形し、逆に武器を弾き飛ばす。


 恭介は“なぎさちゃん”の一言でひるんでいた。

 こいつは元人間だ。


 だから――倒せない。


 その結論に至った瞬間、別の論理が背後から突き刺さった。

 ならば、助けることもできないのか。

 触腕がこだまを抱え、地階へ運ぶ。スカートが宙で揺れ、足先が空を蹴った。

 恭介は悟る。

 迷いは、第三者を殺す。

 “敵”の定義を、ここで決めねばならない。

 人であった過去ではなく、今この場で加害する事実。


 ――それだけで十分だ。


 河本の言葉が倫理に線引きした。


『我々に牙を剥いたら“敵”なんだからね』


 恭介は線を踏み越え、封じていた名前を呼ぶ。


 ――出てこい!


 頭蓋に雷光が走った。零秒で肉体が“彼”へ乗り替わった。


「遅ぇよ。バカ」


 からかい半分で嗤う、内なる祟り神。異形へ飛びかかるなり、こだまを捕えた触腕を引き千切った。ぎちぎちと繊維が裂ける感触が掌に絡みつく。少女の身体が宙に浮いた。落下直前のところで亮が受け止める。


「“敵”なら……殺っていいんだよなぁッ!!」


 高揚のまま異形の鰭を掴み、梁へ叩きつけ、ふやけた骨をへし折る。家が悲鳴を上げて軋み、体液が天井にまで噴出した。足元を濡らす黒水は冷たいのに、握った拳は熱い。息継ぎの瞬間、目を覚ましたこだまが地面を見て叫んだ。


「待って! もう一人いる!」


 床の隙間から暗色の液体が溢れ出る。液は瞬く間に隆起し、怪物と全く同じ形を成した。亮が尻餅をつく。


「神は……二柱いた!」


 “なぎさちゃん”は双子だった。

 真に見捨てられた片割れが咆哮する。

 屋敷全体が波打ち、床板が沈み、柱が捻れる。障子紙が震え、塩辛い風が廊下を駆け抜けた。


「丁度いい。一人じゃ足りなかったところだぜ」


 異形の双子が同時に迫る。“彼”は全身の力で受け止め、触腕を抱え込んだ。吸盤が皮膚に食いつき、筋肉ごと引き剝がそうとする。


「うらあああぁぁっ!!」


 “彼”はジャイアントスイングの如く何度も巨体を柱へ打ち据えて、ついには天井高く放り投げた。

 異形の肉体が屋根を破る。外気が怨念を浄化し、巨躯が夥しい量の海水となって屋敷に降り注いだ。潮の匂いが膨張し、水飛沫が全身に叩きつける。


 ――これだ……ずっと欲しかったのは、この瞬間だ。


 暴れ、壊し、征服するための夜。

 法の名目で禁じられてきた衝動を、ようやく解放しきった。

 “彼”は両腕を大きく広げ、天を仰ぎながら潮水を浴びた。背に貼りついたシャツが冷え、火照った皮膚に心地よい。


「……恭ちゃん、もう大丈夫だよ……!」


 だが、愉悦に水を差す者がいた。

 亮だ。

 無邪気に肩へ触れ、揺さぶる。


「黙れよ」


 金の瞳がすうっと縮んだ。勝ったのに。“俺”は最初から無事だったのに。胸中で焦燥と烈怒が混濁する。高揚が、ざらついた憤りへ反転した。


「せっかく“沈めきった”んだ……この余韻を濁すなら……」


 亮は返答に窮する。その間に、“彼”は首根を捕まえて宙吊りにした。


「お前も“敵”だ」


 祟り神は容赦なく首を締め上げる。浮いた足先が床を探して虚空を蹴った。酸素が絶たれ、頬がみるみるうちに紅潮してゆく。


「あ、ぐ……、恭、ちゃん……」


 ひゅう、と漏れた声が――恭介と重なった。


 (ダメだ! そいつだけは殺さないでくれ!)


 意識の奥で、恭介は叫ぶ。

 切なる願いが殺意の指先へ走った。


 握力がわずかに緩んだ。

 亮の身体が、つ、と下がる。


「……チッ」


 “彼”は拘束を解き、赤い頬へ優しく触れる。

 冷えかけた肌の温度を確かめる内に――

 瞳が黒色に戻った。


 降り注ぐ潮水が、ようやく止んだ。



***



「よかっ、た……」


 恭介はぼろぼろと泣いた。”彼”が鎮まってくれた。亮も気を失っているだけであった。

 双子が変じた海水は畳と柱の根を洗い、静かに海の方角へ流れていく。


「海神さまだ……」


 一部始終を目撃していたこだまがぽつりと呟いた。


 ……自分を見て言ったのか?


 恭介は困惑する。濡れた眼鏡で、少女に黒い瞳の焦点を合わせた。


「ねぇ、おじさんは海神さまだったの!?」


 やはり自分――いや、”彼”を指していた。戸惑いを、喉がうまく飲み込めない。


「教えてくれ! 僕の力は海神のものなのか!?」


 鼓動が早まる。思わず眼前の少女へまくしたててしまった。こだまは目を丸くしつつも、確かな口調で語り出す。


「……古い言い伝えがあるの。『潮の主を宿す者、神性を発現せし時、瞳が金色に輝く』って。そして力は、奇跡にも災いにも転ずるって……」


 身体からどっと力が抜けた。かつて比留子村で聞いた伝説に酷似している。“彼”の正体は海神だったのか?

 想像以上に大きな名前で震える。喉が乾き、指先が冷えていく。更にこだまを問い詰めた。


「もっと教えてくれ! 海神の、この地域の伝承のことを……!」

「ごめん! あたしもこれ以上は知らないんだ。詳しくはま……まがみじま?に行けばわかるんじゃないかな」


 また禍澗島の名が浮上した。

 確信は、渡航する決意に変わる。

 ……冷静になると、怒りが込み上げてきた。


「こだまさん! なぜ屋敷に戻ってきたんだ!」


 思わず声を荒げた。こだまの肩がびくりと跳ねる。


「ごめんなさい、ごめんなさい……!」

「僕らがいたから助かったけど、あのままなら君は死んでたぞ!」


 崩れた廊下を振り返る。海底のような暗がりに、まだ冷たい気配が張り付いていた。説教に熱が入る。こだまは何度も頭を下げ、ショートヘアから雫を落とした。泣き出しそうになる彼女を見て、ようやく舌の力を抜く。


「……もういい。これから大人が沢山来る。騒ぎになる前に帰るんだ。いいね?」

「……はい……」


 こだまは袖で顔を拭く。最後に井戸跡を一瞥し、今度こそ屋敷を去った。


 数十分後、恭介の連絡を受け、大京ホテルグループのモニタリング調査班が到着した。夜の敷地へ、作業着の男たちがワンボックスカーと計測機器を運び込む。作業員は梁や焦げ跡を淡々と撮影し、やがて瓦礫から骨壷を発見する。壺に刻まれた名は『倉持渚』。隣にはもう一人書かれるべき空欄があった。

 その空白が、片割れの不在をいつまでも告発していた。


 業務を完遂、事件は解決。目覚めた亮は、恭介に殺されかけたことを黙秘した。“彼”の飢えも満たしたはずだ。

 ……なのに、やるせないのは何故だろう。


 現場検証を終えると、河本が現れ、恭介と亮に休養を命じた。半ば強引に傘下のビジネスホテルへ押し込み、風呂の鍵を渡してきた。

 シャワーを浴びると、血と潮の匂いがみるみる肌から剥がれ落ちた。だが、新鮮な湯に浸かっても、胸中の靄は消えない。


 撤収の車中、大京の人間が運転する後部座席。

 窓の外で、薄明の海岸線が後方へと退いていた。屋敷に溢れていた潮水が、あるべき場所へ還ってゆく。


「……帰れなかっただけ、か」


 自嘲とも溜息ともつかない声が零れる。百年前の双子は海へ至れなかった。それだけで、祟りと扱われた。


 隣に座る亮がそっと肩に触れる。


「亮。どうして私を赦すんだ。君を殺しかけたんだぞ」

「だって“戦ってた”のは……恭ちゃんじゃないから」


 弱かった指先の力が、わずかに強まる。

 眼の奥がじゅんと潤んだ。視界が滲み、車窓の景色と夜明けの光が溶け合う。


 悪夢の残滓も、罪の匂いも、海原に眠る大いなるものが拭ってゆく。


 だが、内なる昂ぶりは収まらない。


 ――もっと、もっと、更なる戦いを寄越せ。


 拳に残る異形の感触。

 手応えを反芻して、再び鼓動が高鳴る。

 その渇望は“彼”のものか、恭介自身のものか。

 境界が静かに崩れ出していた。

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