5.夫婦、我が家を建てる
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三日目の朝は、千尋が夜の終わりを見つめていた。
夜半を過ぎたころに真琴と見張りを交代してから、もう何時間か経っている。焚火はすっかり小さくなって来ていたので、枝を足しつつ消えてしまわないように管理していた。焚火の周りには灰が積み重なり、灰の下に残った熾火だけが、時折赤く明滅していた。
森はまだ薄暗い。それでも頭上を覆う枝葉の隙間は少しずつ青みを帯び、夜の黒とは違う色へ変わり始めている。近くを流れる小川の音も、夜の間は妙に大きく聞こえていたのに、鳥らしい鳴き声が混じり始めると、いつもの景色の一部へと変貌していった。
千尋はどこを見るともなしに、草地の縁を眺めていた。
昨夜も遠くで獣らしい声はした。枝が折れる音も、葉の間をなにかが移動する気配もあった。それでも、この草地まで何かが入ってくることはなかった。
二晩続けて。
毎夜、夜を迎えるとこの考えが頭をよぎるが、ここは安全すぎる。偶然なのか、それとも、この場所そのものに理由があるのかは分からない。ただ、少なくとも今の二人にとっては、ここは森の中で見つけた唯一の落ち着ける場所になりつつあった。
背後で葉が擦れる。
振り返ると、簡易シェルターの中で真琴が体を起こしかけていた。後半の見張りを千尋に任せてから眠ったのだから、まだ少し寝ぼけているらしい。三日目は眠る順番を変えてみた。夜に起きる方が得意ではあるのだが、こうやって交代で替わってくのも気分が変わっていいかもしれない。上体を起こしたところで、動きが止まり片手が腰へ伸びた。
「おはよう。背中痛めた?」
「いや~、さすがに二十五歳でもこの寝床じゃ痛めるよ……。千尋は?」
「俺はちょっと首をね。寝違えたって程じゃないんだけどさ」
千尋は首をもみながら笑って言った。
倒木に枝と葉を掛けただけの簡易シェルターは、雨露をしのぐには役に立っている。初日の夜にはそれだけでも十分ありがたかった。
けれども二晩使えば、足りない部分も嫌というほどわかる。
地面は硬く、夜は思っていたより冷える。すぐ横には森の暗闇があり、見張りを交代して横になっても、何か音がするたびに意識が浮かび上がる。眠れないわけではない。ただ、きちんと休めているとは、到底言えなかった。
「若返ったのに、こういうのは普通に痛いんだね」
「若返りと地面の柔らかさは関係ないよ。でも、もうちょっと耐えられそうな気がしてたけど、ダメだったね」
真琴が外に出てくる。その当たり前すぎる返しがおかしくて、真琴は小さく笑った。
焚火の近くには昨日見つけた赤い実が残してある。大きさも形も地球のリンゴに似ていた。昨日、真琴が自分の筋力を確かめようとして、真っ二つに割ったあの木の実だ。
昨日の時点ではもちろん食べなかった。見た目が似ていて、匂いも近いが、他の部分もまるでリンゴである。それでもここは地球ではないのは確かだ。
むしろ千尋の警戒は植物のほうが高かった。逃げたり襲い掛かっては来ないが、無害とは限らない。ゲーム内でもこりゃ美味しそう!という見てくれでも、じつは毒がある、ということが多々ある。
とはいえ、持ち込んだ食料はもうない。何も口にしないまま動き続けるのはかえって危険になる。決断する時が来たというわけで、昨日の夕方、リンゴもどきを試食することを、二人で決めたのだった。
まず、匂いと断面を確認し、果汁を舌先へ僅かにつける。それで異常がないことを確かめてから、小さく切った果肉を一口づつ噛んだ。そこからしばらく時間を置き、くちのしびれも吐き気も腹痛も怒らないことを確認した。
真琴は「ここまでやる?」と思ったが、千尋がここまで食べ物にこだわるのは、腹が弱いのに食べ物が悪くなっているかについて、とっても疎い真琴のせいでもあった。それが分かっているから、最後までありがたく付き合っていたのだった。
一晩経った今も、二人とも身体に異常はない。
「昨日のリンゴもどき、今のところ平気そうだね」
真琴が残りを手に取ると、千尋もうなずいた。ただし、これで絶対に安全だと決まったわけではない。今日は昨日より少しだけ量を増やし、やはり様子を見る。それくらいが今出来る精一杯だった。
ぱきっと半分にして、真琴は千尋へリンゴもどきを渡した。
酸味は強いが、味も触感もリンゴに近い。もはやリンゴと呼んでもいいかもしれない。空腹の身体には充分美味しく感じられた。もっと欲しいと思う。
「これ、あの木にまだなってるかな?」
「後で見に行こう。同じ木なら、少なくとも昨日の実と比べられるし」
真琴は頷いて、もう一口齧った。
こういう時の千尋は本当に慎重だ。真琴も自分なら勢いで先に進んでしまうところを、千尋が止めてくれると全幅の信頼を置いている。また、その逆もある。慎重すぎて進めなくなってしまうところを、勢いで背中を押してくれる時もあるのだ。長く一緒にいるうちに、それが二人の普通になっていた。
「真琴が腹壊すよりいいでしょ」
千尋が何気なく言う。
「それは千尋も同じだよ」
「俺も嫌だけど、真琴が苦しんでる方がもっと嫌」
何でもないことのように言われ、真琴の咀嚼が一瞬止まった。
十七年一緒にいるが、たまにこういうことがある。大げさな言葉はめったに口にしないくせに、本人にとっては当たり前すぎる気遣いが、不意に言葉になる。
「……朝からうれしいこと言ってくれるよね」
真琴は笑いながら立ち上がった。
外はもう明るい。夜の間は黒い壁にしか見えなかった森も奥行きが戻り、濡れた葉が朝の光を細かく返している。
「で、今日はどうするんだっけ?」
聞かれた千尋は、一度だけ簡易シェルターを振り返った。
「今日は先に、寝るところをちゃんとしたいよな」
真琴の視線も同じ場所へ向かう。
さすがにあれで三晩目はつらい。千尋も背中が痛いし、真琴だってまともに眠れていない。そのことはもう、お互いに隠すほどでもなかった。
「数日ここを使うなら、先にそっちをどうにかしたほうがいいと思う」
千尋がそう続けると、真琴は少し考えるように草地の向こうへ目を向けた。昨日は周囲を少し広く歩いた。だが、人が通った後はない。道も、建物も、煙も見えなかった。どちらへ進めば人里へ近づくのか、その手掛かりすらない。
真琴としては、できれば早く人を探したかった。ここがどんな世界なのか、自分たち以外に人がいるのか、本当に言葉は通じるのか、知りたいことはいくらでもあった。
「人を探しに行った方が早いかなって思ったんだけれども……」
「俺も人を探して、いろいろ聞いてみたいよ」
千尋は真琴の考えを否定しなかった。
ただ、どこにいるかもわからない人を求めて、当てもなくさ迷い歩くより、今は一度ここを拠点にした方がいい。水場が近く、材料もある。昨日見た限りでは、少なくとも今すぐ逃げ出さなければならないような場所でもない。
道具も足らない。食べられるものも探さなければならない。
何もわからないまま、荷物を持って歩きだすより、まず戻ってこられる場所を一つ作る。その方が二人とも落ち着いて次を考えられる気がするのだ。
真琴は黙って聞いていた。千尋が慎重なのは今に始まったことではない。真琴がしたいことを止めたいわけではなく、進むための条件を後々楽になるように整えたいのだ。
「それに、真琴が寝てる横が直ぐに森なのが心配でさ。もう落ち着かなくて」
最後にそう付け足されて、真琴は吹き出した。
真面目な顔のまま話す千尋を見ていると、結局どんな理屈を並べても、その中には必ず自分のことが入っているのだと分かる。
「よし!じゃあ、ちゃんとした家作ろっか」
さっきまで、人探しに行きたがっていたことなど忘れたように、真琴が元気よく立ち上がる。もう草地の平らな場所へ「この辺がいいかな?」などと言って、頭の中で設計図を作ているように見える。
「家ってほどじゃなくていいんじゃない?雨風がしのげて、寝てるときに何かがいきなり入ってこないくらいなら」
「それは十分家だよ。どれくらい素材いるかしら……」
「小屋くらいでしょ」
真琴はどんなサイズが小屋なのか、考え込んでしまった。千尋の中ではその二つはかなり大きな違いがあるらしいが、まぁ建築するというところでは一致しているので、双創の製作候補を確認してみる。
簡易縄。木箱。石刃。水容器。簡易干し台、寝台、木材加工台、皮加工台、作業台。
何をきっかけに増えたのか、まだ完全には分からない。それでも拾った素材や実際に使ったもの、自分たちが構造を理解できるものが候補へ加わっているようには見えた。
千尋は一覧を下まで眺めたが、目的の小屋はない。まだ、小屋に必要な素材を収集していないようだ。ここまでに出ている、双創で作成できる素材を手に入れればまた出てくるかもしれない。
そのことを真琴に話すと、そうかもしれないねと同意する。で、とりあえず何から集めるかと問うような顔をした。
「小屋を作るときに、いつも大量に必要なのは?」
「木よね。しかも丸太なのか、双創にある木材加工台で作成したもの、例えば木材板が必要なのかが今はまだ不明だからなぁ……」
「作業台でも何が作れるか確認しなくちゃいけないしね」
「釘が必要なら、溶鉱炉とかか解除されるまで無理かもね」
「まあ、とりあえず木材から多めに集めよう。その次は石だね」
ゲームでも同じだった。千尋は木材も石材も多めに確保し、真琴が意気揚々と出かけてたんまり拾って帰ってきたものを、千尋がひたすら黙々と倉庫の並べ替えをする。どこに何があるか、分からない状態なのが嫌なのだ。
そんな昔から変わらない癖を笑いながら、二人は森の縁へ向かった。
朝の森は夜とは別の顔をしている。鳥のような声が頭上を渡り、葉の上に乗った水滴が時折肩へ落ちる。湿った土を踏むたびに、腐葉土に似た匂いが立った。草地から少し入るだけで、足元には太い根が増える。昨日も歩いた場所なのに、朝の光で見ると新しく気付くものも多い。
二人はお互いの姿を確認できる距離を保ちながら、使えそうなものを集めていった。太い枝、細い枝、蔓、はがれた樹皮、乾いた植物繊維。ここまでは以前も集めたものがほとんどだ。大小の石、小川の近くでは、粘り気のある土も採った。
草地へ戻ると、千尋は枝の節やでっぱりを落とし、太さと長さごとに分けていく。その間に真琴が次の素材をまとめて運んでくる。
昨日までなら、一度に抱えてくる量を見るたびに驚いていた。今日はもうそこまで大騒ぎはしない。真琴には規格外な筋力がある。この事自体には少しずつ慣れ始めていた。
真琴も、何回も素材を運んでいる間に、力の加減を覚えてきた。いきなり力を込めず、まずはそっと持ち上げる。重さを確かめてから、運ぶようになったのだ。
昨日拾った石が思っていたより遠くまで飛んで行った経験がさすがに効いたようだ。
「太い枝はまだいる?丸太のほうがいい?」
枝の束を下ろして真琴は聞いた。千尋はう~んと考えて言った。
「もう少し必要かな」
必要量が表示されているわけではないので、全て感だといわれたらそれまでなのだが、なんとなくそう思った。聞かれるがままに答えていったが、石も粘土もいたような答えになった。
とうとう真琴は腰に手をあてて、口を尖らせていった。
「今日の千尋の『もう少し』多くない?終わりが見えない~~!!」
「ごめんね、俺も今ちょっと言ってて思ったよ。俺も一緒に行くから」
口を尖らせてはいるが、怒っているわけではない。ただ、額には汗がにじんでいた。力があることと、疲れないことは別だ。
だが、そうすると枝を整える作業が止まる。このあと木材加工台を作成したら、板も作らなくてはならない。なので、こちらは任せてと真琴は言った。
確かに効率を考えるとそうなのだが、少しの時間でも二人で一緒に歩いて、使えそうな素材を千尋が選び、重いものを真琴が運ぶ形で、話しながら行うことで単調だった作業も楽しくこなすことができた。
昼を過ぎるころには、草地の一角がちょっとした資材置き場になっていた。
朝の冷たさはもうなく、湿気を含んだ空気が少し蒸している。真琴が額へ張り付いた髪を手の甲で払った。
歩く速度も朝より少し落ちている。それを見て、千尋は作業を止めた。
「そろそろ休もうか」
「待ってました!!」
真琴は迷いなく、焚火のそばへ座り込んだ。両手を後ろについて身体を支え、大きく息を吐く。二晩まともに寝られていない。食事も十分ではない。それを考えれば、身体能力が高くなったからと言って、無理をさせる気にはなれなかった。
「いや~、力があるからもっと平気なのかな、って思っちゃったよ」
真琴は自分の腕を眺めている。
異世界へきて身体が若返り、今までなら持ち上げられなかったものまで平然と持てる。そんな身体になったのだから、疲労までどこかへ消えたような気がしていたらしい。
「筋力があっても、体力は無限じゃないからね」
「異世界無双ってもっと楽かと思ってたよ~」
これと言って無双してるわけではないが、規格外の筋力は確かに無双できるだろう。水を真琴に渡すと、何口か飲んでから千尋に返してきた。リンゴもどきもある分を自然と二人で分け合った。
周囲には他にも実や野草がある。だが、試したものは今のところこのリンゴしかなかったので、合格したこのリンゴで飢えをしのいでいる。
もう一つくらいコンスタントに採取できる食材が見つけられたらと真琴が言うので、昨日のリンゴの木の近くを後で探そうということになった。
そして真琴の目線は目の前の資材の山へ戻る。朝から集め続けた結果、かなりの量になっている。
「これ、全部使うかな?一気に消えるとか、家になるとはいえ結構ショックかも」
「これでも出ない可能性もあるからね」
真琴は振り返って「嫌」とかぶせ気味に言った。その気持ちはよくわかる。ゲームでの素材集めとは大きく違って、そこに疲労が加わった木材や石材はもはや愛着すらあるような気がしてくる。
「分かった。次で何も出なかったら今日は一回やめよう。加工のほうを重点的にやってみようよ」
千尋の提案に、真琴は意外そうな顔をした。素材を集めることより、真琴を疲れ切らせない方が優先だ。それを説明するまでもなく、表情を見れば伝わったらしい。
「まだへばってないよ?」
「うん、でも疲れてるのは見ればわかるよ」
真琴の口元が少し緩んだ。
「あらよく見てくれてるのね」
「十七年見てるからね」
「あはは、長い長い」
笑いながら立ち上がり、最後にもう一度だけ二人で森に入った。日が傾き、木々の影が草地の奥へ長く伸び始めたころ。
真琴が丸太を何本も抱え、千尋も後ろから石を運んで戻ってきた。最後の丸太を地面へ降ろした真琴は、その場で腰へ手を当てる。
「……これでどうだ!」
朝の声とは明らかに違った。力がなくなったわけではないが、もう十分やったと言いたい気持ちは声だけで分かる。千尋は資材の量を確認するより先に、真琴の顔を見た。
「うん、これで一回様子を見よう。足りなかったとしても、今日はもう増やさないからさ」
その言葉で、真琴の肩から少し力が抜けた。
その直後だった。二人の前に、これまでとは少し違う表示が現れた。
【条件を確認しました】
【特殊共同製作が可能です】
《安息の小屋》
【製作しますか?】
YES / NO
二人とも、一瞬黙った。それから真琴が、素材の山と表示を交互に見る。
「ひゃっほ~!出たね!」
「足りたみたい。よかった」
いつもの製作候補とは違う。《特殊共同制作》という文字も、《安息の小屋》という名前も、これまでには無かった。
必要素材の欄には、今日集めた枝、蔓、石、粘土、樹皮、食物繊維が並んでいる。不足を示すものはない。意外と基礎的な素材で全てがまかなわれている。しかし、数だけは相当数だった。これだけの素材の数を集めた事で条件が整い、ようやく候補に現れたのだろう。
しかし、この《安息》という言葉が気になった。二人が欲しかったのは、まさに安全に眠れる場所だった。単に風雨をしのぐ場所ならもっと普通の名前でもよかったはずだ。
「私たちが安全に寝たいって、ガチ目に願っていたからかしら」
「可能性はあるかもね。でも、本当に気持ちが反映するとしたら、やっぱり普通のクラフトとは違うってことだ」
「とりあえず、作ってみようよ。ベッドも作るんだよ~この後」
「そうだな、やってみよう」
二人はほぼ同時にYESを選んだ。
素材の山が淡く光った。石斧や容器を作った時とは明らかに違った。枝が一本ずつ浮き上がって組み合わさっていくわけではない。建てようと予定している場所で、完成形の家が半透明のかたちで一瞬だけ表示される。それはすぐに消え、数秒後また半透明の家が表示される。家の半分が徐々に組みあがってきて、素材が減り始めた。
完成形が現れては消えるのを何度か繰り返し、いよいよ完成に近くなってきた。
「これって、今までと作成方法が違うのね」
真琴がしゃがみ込み、変化を見つめる。千尋にも確かに違って見えた。物を順番に組み立てているというより、先に完成形を示し、そこへ現実の素材を合わせているような変化だった。
枝がいつの間にか柱や壁になり、蔓や植物繊維が結束へ回っている。粘土は壁の隙間を埋め、石は足元を支えていた。
人が手を動かしていないのに、出来上がりつつあるものには明確な構造がある。時間にすれば一分ほど。長くないはずなのに、何もせずに見ている一分は意外に長かった。
「見てるだけだと長いけど、どうなるのかドキドキするね。最後はポンって家になるのかしら?」
真琴が笑う。目の前で作られていく我が家を見つめて、ワクワクしている顔がとても愛らしかった。
その時、真琴の顔をまじまじと見つめていた千尋はふと違和感を感じた。真琴の黒い瞳がほんの一瞬だけ、いつもより深く見えた。光の加減かもしれない。まるで瞳の中に銀河を閉じ込めたような、そんな風に見えた。
真琴が「なに?」とこちらを向いた時にはいつもの目に戻っていた。真琴の顔を両手ではさみ、目を確かめてみたが、いつもの目に戻っていて、変わったところはなかった。
「なにをするだ~」
「ごめんごめん、一瞬だけ目がいつもと違って見えたんだよね。黒が濃くなったっていうか、銀河を閉じ込めたみたいなっていうか……うまく言えないけど」
「ほんと?私は今もさっきもなんともないよ?なんだろうね」
そんな話をしている間に、家が完成しそうだった。素材を包んでいた光が一度だけ少し強まり、すっと消えた。そこには長方形の小さな小屋が完成していた。
四角い壁に、単純な屋根。装飾らしいものは何もなかった。とにかく必要な物だけを箱型にまとめたような形だった。
真琴は正面から眺め、横へ回り込み、それから一言だけ呟いた。
「……豆腐」
千尋が笑う。ゲームでも千尋が最初に作る拠点は大体こんな形だった。まず壁と屋根。見た目は後回し。必要になったら増築する。
「最初は豆腐でいいんだよ。見た目に凝って、夜までに完成しない方が困るでしょ」
「そうだね、そのうち必要になれば増築するまでがデフォだから気にしてないよ~」
千尋は否定しなかった。どうせ少ししたらチェストを置く部屋が欲しくなってくるに決まっている。これだけの素材があるのだから。
よく見ると、玄関扉が付いていなかった。ひとりが出入りできる開口部が付いているだけだった。
ふたりで中に入ってみた。外から見るより中は少し暗かった。
それでも頭上には屋根があり、四方を壁に囲まれ、二人のベッドを置いて横になり、並べて個人用チェストを置いても少し余裕がありそうだった。
昨日までは寝転がるとすぐそばには森の暗闇があった。今は、その間に一枚の壁がある。たったそれだけなのに、感じる安心感は大きかった。
「これ、いいね。ちゃんと囲われてるだけで、全然違う!」
「でしょ。これなら昨日よりは寝られると思う。しかもベッド付き」
二人で満足げに小屋を見上げた時に、新しい表示が開いた。
《安息の小屋》
特殊効果:《敵意希薄化》
【遠距離から積極的な標的として認識されにくくなります】
【近距離での視認・匂い・音・痕跡を遮断する効果はありません】
真琴は表示を読み終わると、壁を軽くたたいた。「家にまでバフが付いた」と喜んでいる。しかし、壁が丈夫になるとか、雨漏りを起こさないとかいう話ではない。遠距離の生き物の認識にまで影響するバフである。
「これは本当に普通のクラフトじゃないな」
どういう理屈なのかは分からないが、双創というスキルは相当やばいものらしい。しかし、これ以上調べようはなかった。
何と言っても、朝から働き続けた真琴は今にも舟を漕ぎだしそうだった。
今日はここまで。
そう決めると真琴はニコッと笑った。言いはしないが、ほっとしたのだろう。
扉はあえて今日は付けなかった。交代で見張る以上、開口部から外を見張れる方が都合がよかったのだ。《敵意希薄化》をどこまで信用していいのかも分からない。説明にも近距離まで来れば見えること、匂いや音、痕跡は残ることが書かれている。
便利だからと言って、最初の晩から二人そろって寝てしまう気にもなれなかったので、せめて屋根の下、開口部から外を見張るという形にしたのだった。
小屋の中を整えているうちに、夕方が近づいた。朝から口にしたのはあのリンゴもどきだけだった。空腹はもう無視できないほどはっきりしている。
「明日は食べ物を探す旅にしたいなぁ……肉食べたい。魚でもいい」
「希望が全部口から出てますよ、真琴さん」
「明日、明るいうちに小川に魚がいるか確認しに行ってみようよ」
千尋の性格上、直ぐに食べられるとは思えないけど、確認しなければ何一つ進まない。だが、ここで体調を崩してしまってはどうしようもないのは事実である。
明日からの食糧調達を考えつつ、今日のところはリンゴもどきで腹を膨らませる。新鮮な水を飲んで、この環境に感謝することで、紛らわせることにした。
家の前に焚火を移動させ、夜に備えた。煙が入りにくい位置へ設定し、開口部の近くに葉や細い枝、薪を運び込み、火を切らせないようにする準備をした。
双創で作成できる寝台を作成して、設置すると急に拠点感が強くなった。(寝台のバフはそれぞれに《疲労回復》がついた)
今日は先に真琴が寝ることになった。さすがにあの量を運んだのだ。疲れているだろうということで、真琴もありがとうと言って、素直に受けた。
寝床へ腰を下ろした真琴は、頭上の屋根を見上げた。
「星が見えないね。でも、それはそれで安心する……かも」
「そうだね、安心しておやすみ。見張りは俺が頑張るからね」
「うん、ちゃんと後で起こしてね」
やがて日が沈み、森が夜へ変わっていく。遠くで何かが鳴く。乾いた枝が折れる。葉の擦れる音。風ではない何かが移動しているような気配もある。
それでも、小屋のすぐ近くまで何かが寄ってくる様子はなかった。
「効いてるのかな?でもいつも近づいてくる獣はいないもんね」
真琴は開口部の内側から暗い森を眺めていた。千尋にも、昨日より静かなような気がしている。だが、そう思いたいからそう聞こえているだけかもしれない。
「一晩じゃ分からないかな。明日の朝、周りの足跡とかも見てみよう」
昨日までと比べて、近づいた足跡が減っているのなら、それは一つの判断材料にはなる。真琴は短く頷いた。千尋が何を確かめたいのかはそれだけで十分伝わっている。
しばらくすると真琴の呼吸がゆっくりと一定になっていった。千尋は開口部のそばへ座り、壁へ背中を預けた。昨日までは背後にも森があった。
今夜は違う。
扉はない。危険が消えたわけでもない。食べられると判断できたものは、今のところリンゴもどきだけだ。ここがどこなのかも、人がどちらにいるのかも分からない。
それでも豆腐だけど我が家もできた。一日、少しずつできることは増えている。
背中に触れるその硬さは、朝に目を覚ました時の地面とは違い、不思議なほど心強かった。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
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