1.夫婦、異世界で目を覚ます
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最初に戻ってきたのは、音だった。
ざわざわと葉の擦れ合う音が頭上から降ってくる。その合間を縫うように、どこか遠くで鳥らしき鳴き声が響いていた。耳を澄ませば、さらにその向こうから細い水の流れる音も聞こえる。
千尋は閉じていた目を、ゆっくりと開いた。
視界いっぱいに広がったのは、深い緑だった。何枚もの葉が幾重にも重なり、その隙間から柔らかな光が細く差し込んでいる。見上げても空はほとんど見えない。背の高い木々が枝を張り巡らせ、頭上をすっぽりと覆っていた。
「……森?」
口に出してから、自分でもずいぶん間の抜けた一言だと思った。
身体の下には湿った土と草の感触がある。指先を動かすと、細い草の葉が手の甲をくすぐった。湿った土と青臭い植物の匂いが鼻に入り、頬を撫でる風にはわずかな冷たさまである。
夢にしては、何もかもが鮮明すぎた。
なぜ森にいる。
そこまで考えた瞬間、頭の奥に途切れた映像が戻ってきた。機内の座席。窓の外に広がる雲。突然の大きな揺れ。慌ただしく流れた機内放送。隣の席にいた真琴。機体が大きく傾き、轟音と衝撃が重なった。
記憶は、そこで途切れている。
「……真琴」
千尋は勢いよく身体を起こした。さっきまでぼんやりしていた頭が一瞬で冴える。木、草、岩、倒木。見える範囲を片端から確かめ、その少し向こう、開けた草地の端に倒れている人影を見つけた。
「真琴!」
立ち上がって駆け寄ろうとした瞬間、その人影がもぞりと動いた。
「……ん……おはよ……」
聞き慣れた声だった。それだけで胸の奥に詰まっていた息が抜ける。
真琴は眉間にしわを寄せながらゆっくり顔を上げ、半分閉じた目で千尋を見た。まだ寝起きのような顔のまま数秒じっと見つめ、それからようやく目を見開く。
「……千尋?」
「うん。ここにいる。真琴、大丈夫か? どこか痛くない?」
名前を呼び返すより先に言葉が続いた。真琴は一度自分の手足を見下ろしてから、千尋の顔をもう一度確認するように見上げた。
「いるんだよね?」
「いるよ。ちゃんといる」
「……よかったぁ」
真琴は大きく息を吐き、そのまま肩の力を抜いた。髪に細い草が一本引っかかっているのを見つけ、千尋は手を伸ばして摘み取った。
「一人だったらどうしようって、本気で思った」
「俺も真琴が見えるまで、かなり焦った」
「ほんと?」
「なんでそこで疑うんだよ」
「だって千尋、何があっても『まず状況整理しよう』って顔してそうだから」
ようやくいつもの調子を取り戻したらしい。真琴が少し笑う。
その顔を見た途端、千尋も自分が思っていた以上に緊張していたことに気づいた。森にいる理由も、飛行機がどうなったのかも分からない。それでも真琴が隣にいる。それだけで、今は十分だった。
「とりあえず立てそう?」
「たぶん。あ、でも引っ張って」
「はいはい」
千尋が差し出した手を、真琴は当然のように掴んだ。いつもの感覚で少し力を込めたつもりだった。ところが真琴の身体は予想以上に軽く起き上がり、二人とも一瞬きょとんとする。
「うわ、何これ」
「俺も今びっくりした」
「千尋、急に力持ちになった?」
「それなら嬉しいけど、多分違うな。真琴も自分で動いてみて」
言われた真琴は、その場で膝を曲げ伸ばししてから肩を大きく回した。次に首を左右へ傾け、さらに腰までひねり始める。
「……すごい。膝、全然痛くない」
「真琴、そんなに膝悪かったっけ?」
「悪くはないけどさ。朝起きた時に、ちょっとギシッてする日あるじゃん」
「四十歳の確認項目が最初に膝なのか」
「四十歳だから確認するんでしょ。千尋もやってみなよ。腰とか」
楽しそうに言われ、千尋も肩を回してみる。確かにおかしい。長時間飛行機に乗っていたはずなのに、背中にも腰にも重さがない。首も肩も軽い。寝起き特有の身体の固ささえなく、深く息を吸っても胸の奥まで驚くほど楽に空気が入った。
「……ほんとだ。身体が軽い」
「ね? なんかすごくない?」
真琴は嬉しそうに笑いながら、もう一度膝を曲げた。そんな妻を見ていた千尋の方が先に異変へ気づくかと思ったが、真琴の方が早かった。笑っていた顔が、不意に止まる。
「ねえ、千尋」
「今度は何?」
「ちょっと顔よく見せて」
「顔?」
「そう。もっと近く」
真琴が一歩寄ってきたので、千尋も素直に顔を向ける。距離が近い。十七年も一緒に暮らしていれば今さら照れるようなことでもないが、真琴があまりにも真剣な目で顔を覗き込んでくるので、千尋の方が落ち着かなくなった。
「そんなに見る?」
「動かないで。今、確認してるから」
真琴は目元、頬、額と順番に視線を動かし、最後に千尋の顔全体をまじまじと眺めた。
「……千尋、若くなってない?」
「俺?」
「うん。すごく若い。昔の千尋みたい」
そこまで言われて、千尋も改めて真琴を見る。見慣れた顔には違いない。だが頬も目元も、記憶にある真琴より明らかに若い。結婚した頃より少し後、それでも今よりずっと若かった頃の面影に近い。
「真琴も若くなってる」
「え?」
真琴の表情が固まった。
「ちょっと待って。ほんと?」
「俺より分かりやすいと思う」
「そういう言い方やめてよ。鏡、鏡……」
肩から下がっていた小さなバッグを慌てて探り、中から折り畳み式の鏡を取り出す。開いて自分の顔を映した瞬間、今度は本当に動かなくなった。
「……誰、これ」
「俺の奥さん」
「それは分かってるよ♪」
すかさず返してから、真琴は鏡を鼻先まで近づけた。今度は腕をいっぱいに伸ばし、右を向き、左を向き、もう一度正面から確認する。
「いやいやいや。待って。これ何歳くらい?」
「二十五くらいじゃない?」
「やっぱりそのくらいだよね?」
鏡が勢いよく千尋へ向けられた。
「千尋も見て。絶対若いから」
「分かったから、そんな勢いで渡すなって」
苦笑しながら受け取り、鏡を覗き込む。そこには間違いなく自分がいた。目も鼻も輪郭も見慣れたものだ。ただし、十数年分の時間だけをきれいに取り除いたように若い。二十五歳前後と言われれば、それで通りそうだった。
「……確かに二十五くらいだな」
「でしょ? どうしよう」
「どうしようって言われてもな」
「もっと驚かないの?」
「驚いてるよ。かなり」
「顔に出ないんだよねえ、千尋は」
真琴が鏡を受け取りながら苦笑する。その直後、何かに気づいたようにもう一度鏡へ顔を寄せ、今度は目尻をじっと確認し始めた。
「……ない」
「何が?」
「ちりめんジワ」
「そこ?」
「そこ大事でしょ。見て、肌も全然違う」
「真琴、今それを喜んでる場合なのか?」
「だって若返ったんだよ? 状況は怖いけど、これはちょっとくらい喜んでもよくない?」
そう言って頬を指先で押している真琴がおかしくて、千尋も笑った。
「まあ、戻せって言われても困るしな」
「でしょ? せっかくだから二十五歳の肌は満喫しようよ」
「そこは好きにしてくれ」
「千尋だって髪とか増えてるかもよ」
「減ってなかっただろ」
「今後の心配」
「余計なお世話だ」
真琴が声を立てて笑った。何ひとつ状況は分かっていない。飛行機に乗っていたはずの二人が森の中で目を覚まし、しかも十数年若返っている。普通なら笑っている場合ではないはずだった。それでも、こうしてくだらないやり取りができるだけで気持ちが落ち着く。真琴も同じなのだろう。鏡を閉じると、さっきより少し落ち着いた顔で千尋を見た。
「……でも、本当に一緒でよかった」
「うん」
短く答えて、千尋は真琴の肩に軽く触れた。
「一緒なら、まあ何とかするしかないだろ」
「うん。千尋がいるなら何とかなる気はする」
「それ、こっちの台詞でもあるけどな」
真琴は一瞬目を丸くしてから、嬉しそうに笑った。
「じゃあ、二人なら何とかなるね」
根拠はない。けれど、それでいいと思えた。
千尋は改めて周囲へ目を向けた。二人がいたのは、直径三十メートルほどの小さな草地だった。背の低い草の間には白や薄紫の花が混じり、その周囲を巨大な木々が取り囲んでいる。
二人で腕を回しても届かなそうな幹には厚い苔が張りつき、森の奥は昼間とは思えないほど暗い。頭上を葉が覆いすぎていて太陽の位置も分からず、遠くから聞こえる鳴き声にも知っている鳥とは違う響きが混じっていた。
「……で、現実を見ると、やっぱりかなり変だね」
真琴も鏡をバッグへ戻しながら周囲を見渡した。
「飛行機、ないよね」
「見える範囲にはない。煙もないし、残骸もない」
「人もいない」
二人は自然と黙った。森の音に耳を澄ませる。助けを呼ぶ声はない。機械音も聞こえない。遠くのサイレンもない。あるのは葉の揺れる音と水音、そして時折響く正体の分からない鳴き声だけだった。
「……落ちたよね、飛行機」
「最後に大きな音と衝撃があったところまでは覚えてる」
「私もそこまで。そのあとは全然ない」
真琴は腕を組み、記憶を探るように眉を寄せた。
「誰かに助けられた、とか?」
「可能性はあるけど、それなら俺たちだけここにいる理由が分からない。救助した人も見当たらないし、運ばれた跡もない」
「それもそうか」
真琴は草地を見回し、それから頭上の木々を見上げた。
「飛行機ごと森に落ちたっていうのも、ないよね。この木、全部普通に立ってるし」
「少なくとも、この近くに墜落したようには見えないな」
「じゃあ……何なんだろうね」
「それを今考えてる」
「知ってる」
真琴が少し笑う。
「千尋の頭、今ものすごい勢いで検索窓いっぱい開いてそう」
「検索する先がないのが一番困る」
「スマホ圏外だもんね、たぶん」
「それもあとで確認するよ」
千尋の返事を聞いた真琴が、安心したように息を吐いた。分からないことが多すぎる時ほど、千尋は一つずつ確認していく。真琴はそれを十七年間見てきたし、千尋もまた、真琴が考え込んで立ち止まるより動きながら答えを探す人間だと知っている。
「まあ、生きてる。千尋もいる。身体も動く。今すぐ襲われてるわけでもない」
真琴は指を折りながら、今分かっていることを数えた。
「だったら、分からないことはあとで一個ずつ調べればいいよね」
「珍しく俺みたいなこと言うな」
「十七年一緒にいたら多少はうつるよ」
「俺も真琴にうつされてるもの、かなりあるけどな」
「例えば?」
「とりあえずやってみる、とか」
「いい影響じゃん」
「安全確認してからならな」
そこで真琴が、はいはい、と笑った。
互いのやり方が違うことは、もうずっと前から分かっている。千尋が止まりすぎれば真琴が背中を押し、真琴が先へ行きすぎれば千尋が引き戻す。それで十七年、うまくやってきた。
「じゃあ、まず持ち物確認しよっか」
「そうだな」
千尋はポケットを順番に探った。スマートフォン。財布。鍵。ボールペン。左腕にはソーラー式の腕時計。そして左手の薬指には、見慣れた結婚指輪が残っていた。
「あ、指輪」
何気なく口にすると、真琴も自分の左手を見た。
「あ、本当だ」
薬指の指輪を親指で軽く撫で、そのままほっとしたように微笑む。
「これ残っててよかった」
「うん。俺もそれは思う」
「若返ったからサイズ変わってなくてよかったね」
「そこまで若返ったら指の太さも多少違いそうだけどな」
「落ちなきゃいいよ」
真琴は指輪をもう一度押さえてから、小さなバッグの中身を確認した。スマートフォン、財布、モバイルバッテリーと短いケーブル、ハンカチ、ティッシュ、鏡、常備薬、小さな水筒。それに機内で食べるつもりだった菓子が少し。
旅行用のスーツケースはない。
「まあ、そりゃそうか。預けてたもんね」
「俺たちが持ってた物全部じゃなくて、身につけてた物だけ残ってる感じだな」
口にしてから、千尋はわずかに眉を寄せた。なぜそんな選別が起きる。今は答えがない。ひとまず頭の片隅へ置き、スマートフォンを取り出す。
「やっぱり圏外だ」
「私も。Wi-Fiも何もないね」
「GPSも現在地が取れない」
真琴も画面を確認すると、すぐに明るさを落とした。千尋はそれを見て、何も言わなかった。バッテリーが貴重になることくらい、真琴も分かっている。
「千尋、何パー?」
「六十四。真琴は?」
「四十八。モバイルバッテリーは、ほぼ満タン」
「なら、しばらくは持つな」
「でも使いすぎない方がいいよね」
「うん。写真と記録を優先したい。ライト代わりにするのは、本当に必要な時だけにしよう」
「了解。そこは千尋に任せる」
「バッテリー管理?」
「そう。私に持たせると絶対使うから」
「自覚あるなら助かる」
「褒められた」
「褒めてない」
言いながらも、千尋の口元には笑いが浮かんでいた。使える物はある。だが、どれも有限だ。腕時計も動いてはいるものの、ここが地球なのかすら分からない以上、表示している時刻にどこまで意味があるのかは分からない。
「で、次は?」
真琴がバッグを肩に掛け直して尋ねた。
「水」
「ああ、やっぱりそこなんだ」
「何だよ、その言い方」
「だって千尋、ゲームでも毎回そうだったじゃん。まず水場。次に寝床。そこから資材集めて、私がちょっと遊びに行って帰ってくると家ができてる」
「遊びに行ってるんじゃなくて戦いに行ってるんだろ」
「ちゃんと素材も持って帰るよ?」
「使い道の分からない素材まで山ほどな」
「あとで使うかもしれないじゃん」
「それ、普段は俺が言ってる台詞だろ」
真琴が楽しそうに笑った。二人でサバイバルクラフト系のゲームを始めると、昔から自然と役割が分かれた。千尋が寝床や収納、生産設備を整えている間、真琴は武器を持って周囲を走り回る。戻ってきては素材をまとめて置き、またどこかへ出ていく。別々のことをしているのに、必要なところではちゃんと噛み合う。現実まで同じようにいくとは思わない。それでも、隣にいるのが真琴だというだけで、不思議と何とかできそうな気がした。
「じゃあ私、周り見てこようか?」
予想通りの提案に、千尋は思わず苦笑する。
「もう行く気になってるだろ」
「だって何があるか気になるじゃん」
「分かってる。でも今回はゲームじゃないからな」
千尋の声が少しだけ低くなると、真琴もすぐに表情を改めた。
「うん」
「死んでも戻れる保証はない。行くなら俺から見えるところまで。何か変だと思ったらすぐ戻ること」
「分かった。そこはちゃんと守る」
真琴は素直に頷いた。千尋が本気で心配している時、真琴は無理を押し通さない。反対に、危険が許容できる範囲なら千尋も真琴を縛らない。その辺りの境界は、もう言葉にしなくてもかなり共有できている。
「まず一緒に水場を探そう」
「うん。さっきから聞こえてるもんね」
二人は水音のする方へ歩き出した。草地の端を抜けると、ほどなく木々の間を流れる細い小川が見つかった。幅は一メートル少し。底まで見えるほど澄んだ水が、丸い石の間をさらさらと流れている。近づくにつれて湿った土と苔の匂いが濃くなり、周囲の空気も少し冷たく感じられた。
「わあ、きれい」
真琴が嬉しそうにしゃがみ込み、そのまま水へ手を伸ばす。
「真琴、それはまだ飲んじゃダメ」
「ノマナイッテ」
伸ばした手が一瞬止まった。千尋が横からじっと見る。真琴もその視線に気づき、少しだけ口元を曲げた。
「……ちょっと触って、冷たそうだったら一口くらいって思っただけ」
「それを飲むって言うんだよ」
「だって、こんなにきれいだよ?」
「きれいな水と安全な水は別」
「はいはい。分かりました」
そう答えながらも、真琴は楽しそうだった。千尋も隣にしゃがみ、水面を観察する。嫌な臭いはない。濁りもなく、見える範囲の上流にも動物の死骸や目立った汚れはない。だからといって、安全だという保証にはならない。
「見た感じは悪くないけど、生はやめとこう」
「じゃあ煮沸?」
「できれば。それに簡単でも濾過したい」
真琴は自分のバッグを覗き込んだ。
「鍋は……ない」
「うん」
「容器もない」
「ないな」
「火もない」
二人で顔を見合わせる。真琴が先に吹き出した。
「何にもないじゃん」
「だから今から作るんだろ」
「千尋、こういう時ちょっと楽しそうだよね」
「そう見える?」
「見える。困ってる時の顔じゃなくて、何から作ろうかなって顔してる」
言われて、千尋は否定しかけたがやめた。確かに、何もないなら何が必要かを順番に考えればいい。そういう作業を嫌いではない。
「まあ、何もできないよりは考える方が楽だな」
「ほら。やっぱり」
真琴が満足そうに笑う。
「こういう時、本当にインベントリと作業台ほしいよね」
「木を殴ったら丸太が出るなら楽なんだけどな」
「やってみる?」
「真琴の拳が壊れるからやめとけ」
「私?」
「俺は最初からやらない」
「ずるい」
そんな話をしていた時、小川の向こう側で低木がかすかに揺れた。二人とも同時に口を閉じ、顔を上げる。白っぽい何かが葉の隙間を横切り、一瞬だけ姿を見せて消えた。
「今の見た?」
「見た。小動物っぽかったな」
真琴の目が一気に輝いた。その変化があまりにも分かりやすくて、千尋は嫌な予感より先に笑いそうになる。
「ちょっと見てきていい?」
「俺も行く」
「心配性」
「ここで真琴だけ行かせる方がどうかしてるだろ」
「じゃあ一緒に行こ」
真琴は嬉しそうに立ち上がり、小川沿いに数歩進んだ。低木の手前まで来ると、すぐに地面へしゃがみ込む。
「足跡あるよ」
千尋も隣へ寄って覗き込んだ。湿った地面には、小さな足跡が残っている。形は兎に似ている。ただし千尋の知っているものより少し大きい。周辺の葉にも、何かに食べられたような跡があった。
「兎かな」
「似てるけど、大きいな」
「食べられるかな」
「もう食料として見てるのか」
「だって、お菓子だけで何日も無理でしょ?」
真琴が当然のように言うので、千尋は否定できなかった。
「まあ、それはそうだけど。似てるだけで食べられるとは限らないからな」
「捕まえてから調べる?」
「まず捕まえられる前提なのが真琴だな」
「千尋よりは捕まえられると思うよ」
「それは否定しない」
「あはは、でしょ?」
真琴が得意そうに笑う。その横で、千尋は改めて周囲へ視線を巡らせた。足元の植物も、どこか見慣れているようで少しずつ違う。葉の形、厚み、幹の色、花の付き方。知っているものに似てはいるのに、これだと言えるものがない。耳を澄ませば、鳥らしい声の中にも聞き覚えのない響きが混じる。
「なあ、真琴」
「ん?」
「ここ、日本じゃないよな」
「……今さら?」
真琴は半分呆れたように振り返った。
「いや、日本どころかって話」
そこで言葉を止めると、真琴はすぐに察したらしく、楽しそうに目を細めた。
「異世界?」
「まだ決めるの早い」
「ええ? 若返ってるんだよ?」
「それは事実」
「飛行機もない。知らない森。知らない生き物もいる。十分じゃない?」
「まだ説明できないことが多いってだけだろ」
「そこまでして認めない?」
「分からないものを、分かったことにするのが嫌なだけ」
真琴は少し笑い、肩をすくめた。
「ほんと千尋らしいね」
「そういう真琴は、もう異世界だって決めてるだろ」
「だって、その方がちょっと楽しいじゃん」
明るい声だった。けれど千尋には分かる。真琴の視線は、時々暗い森の奥へ向かっている。好奇心だけではない。何かが飛び出してくるかもしれない場所を無意識に確認している。怖くないはずがない。千尋自身だって怖い。だから何も言わず、真琴の手を取った。
「戻ろう。水場の位置は分かったし」
真琴は一瞬だけ千尋の手を見たあと、その指を自然に握り返した。
「うん」
「怖くなったら言えよ」
「千尋もね」
「俺も?」
「当たり前でしょ。私だけ心配されるのずるい」
そう言って真琴が少し強く手を握る。
「二人とも怖かったら、二人で怖がればいいじゃん」
「……それもそうか」
「でしょ?」
二人は手を離さないまま、元の草地へ向かって歩き出した。足元には木の根や石が多い。千尋が歩きやすそうな場所を選びながら先へ進むと、真琴も何も言わずその後についてくる。
「今日、あそこを拠点にする?」
「そのつもり。水が近いし、森の中より周囲が見やすい」
「じゃあ家作ろう」
「いきなり家は無理だな」
「じゃあ小屋」
「それも道具がない」
真琴は空いている手の指を一本立てた。
「斧」
「ない」
「ナイフ」
「ない」
「ロープ」
「ない」
真琴は全部の指を下ろし、大げさに肩を落とした。
「本当に何もないね、私たち」
「あるだろ」
「何が?」
「手と頭」
真琴が横目で千尋を見た。
「今ちょっといいこと言った?」
「普通のこと言っただけ」
「そういうところなんだよなあ」
真琴は笑ってから、周囲の低木へ視線を向けた。
「じゃあ私は何すればいい?」
「まずは、その辺の知らない物を勝手に口に入れない」
「子供扱いしてる?」
「さっき水飲もうとしただろ」
「飲んでないよ」
「止めたからな」
「じゃあ、触るだけなら?」
千尋が黙って真琴を見る。数秒見つめ合ったあと、真琴が先に吹き出した。
「はいはい。勝手には触りません」
「よろしい」
「今度は完全に子供扱いしたでしょ」
「気のせい」
くだらない話をしながら数歩進んだところで、千尋はふと足を止めた。後ろにいた真琴が危うく背中へぶつかりそうになり、慌てて横へ避ける。
「千尋?」
声の調子がすぐ変わった。千尋は答えず、自分の胸元へ手を当てる。
「……なんか変だ」
「痛い?」
真琴がすぐ隣へ回り込み、顔を覗き込んできた。
「胸? 息苦しい?」
「いや。痛いとかじゃない」
「頭は?」
「それも大丈夫」
真琴の眉が寄る。さっきまで笑っていた顔から、一瞬で冗談が消えていた。
「じゃあ何?」
「うまく言えないんだけど……身体の中に、今までなかった何かがある感じがする」
「何それ。ちょっと怖いよ」
「俺も説明できない。ただ、嫌な感じじゃないんだ」
千尋は目を閉じ、自分の内側へ意識を向けてみる。すると、それまで曖昧だった感覚がわずかに輪郭を持った。身体の奥に何かが満ちている。血液とも体温とも違う。ずっとそこにあったのに、今初めて存在に気づいたような不思議な感覚だった。
隣では真琴も同じように胸元へ手を置き、目を閉じている。
しばらく二人とも黙ったまま、自分の身体へ意識を向けた。葉の揺れる音と小川のせせらぎだけが、やけに近く聞こえる。
「……あ」
先に声を出したのは真琴だった。千尋が目を開けると、真琴もゆっくり目を開いた。
「ある?」
「うん。ある……気がする。何だろう、これ」
「俺にも分からない」
真琴は少し不安そうに胸元を見下ろしていたが、その表情にはすぐに別の色が混じり始めた。千尋には見慣れた顔だった。
「……真琴」
「何?」
「今、魔力とか思っただろ」
「思った」
即答だった。
「やっぱり異世界じゃん」
「そこへ戻るのか」
「だって身体の中に謎の力まであるんだよ? これで異世界じゃなかったら、そっちの方がびっくりするよ」
「まだ何なのか分からないだろ」
「千尋、ほんっと頑固」
「真琴が決めるの早すぎるんだよ」
そんなやり取りをしながら、千尋がもう一度その感覚へ意識を向けた時だった。何の前触れもなく、意識の中に文字が浮かび上がる。
【自己照覧を開始しますか?】
千尋は言葉を失った。瞬きをしても消えない。視線を左右へ動かしてみる。目の前には相変わらず森があり、草があり、すぐ隣には真琴がいる。その景色を邪魔する物理的な板が浮かんでいるわけでもない。
それなのに、文字だけははっきりと認識できた。
「……真琴」
「どうしたの?」
さっきの体調の話があったせいか、真琴がすぐに心配そうな顔になる。
「今度は大丈夫。そうじゃなくて……何か見えない?」
「何か?」
「外じゃない。目の前っていうか、頭の中っていうか……説明しにくいんだけど」
真琴は怪訝そうに千尋を見たあと、周囲ではなく自分の内側を探るように目を細めた。数秒もしないうちに、その目が大きく開く。
「あ」
「出た?」
「出た。『自己照覧を開始しますか?』って」
「同じだ」
二人はしばらく互いの顔を見たまま黙った。先に表情を崩したのは真琴だった。驚きと戸惑いを残したまま、それでも我慢できないというように口元が上がっていく。その顔を見ただけで、千尋には次に何を言うのか分かってしまった。
「ほら」
「言いたいことは分かる」
「まだ何も言ってないよ」
「異世界じゃん、だろ」
「そう、それ」
真琴は嬉しそうに笑った。
「ね? もう認めてもいいでしょ?」
「……かなり怪しくはなった」
「かなり?」
「かなり」
「そこまで来たら、もういいじゃん」
「まだ知らないものが多すぎる」
「もう、千尋は本当に千尋だねえ」
呆れているようでいて、真琴の声は楽しそうだった。千尋もそんな妻を見ながら、改めて意識の中へ浮かぶ文字を確かめた。
知らない森で目を覚ましたこと。
二人とも二十五歳前後まで若返っていること。
飛行機も事故の痕跡も消えていること。
スマートフォンは圏外で、GPSも使えないこと。
そして今、二人の意識の中へまったく同じ文字が現れている。
ひとつひとつなら、どうにか別の説明を考えようとしたかもしれない。けれど、さすがにここまで重なれば、千尋自身も「普通ではない」というところだけは認めざるを得なかった。
「見る?」
真琴が尋ねた。好奇心に満ちた顔をしているが、すぐに先へ進もうとはしない。千尋が答えるのをちゃんと待っている。昔からそうだった。真琴は行動が早い。それでも本当に二人で決めるべきことでは、千尋を置いていかない。
「ああ。見よう」
「一緒に?」
「もちろん。一人だけ先に開くなよ」
「分かってるよ。こういうのは一緒に見た方が楽しいじゃん」
「楽しいかどうかは、まだ分からないけどな」
「大丈夫。変なの出ても千尋と一緒なら笑える気がする」
「それは俺も同じかな」
真琴が少しだけ目を丸くしたあと、嬉しそうに笑った。森の中で目覚めてから、分からないことばかりが増えている。
ここがどこなのか。
なぜ二人が若返ったのか。
あの飛行機事故のあと、何が起きたのか。
そして、この《自己照覧》というものが何なのか。
答えは一つもない。それでも、隣に真琴がいる。四十年生きて、そのうち十七年を夫婦として一緒に過ごしてきた相手が、今も変わらず隣にいる。なら、分からないものは二人で一つずつ調べればいい。千尋が真琴を見ると、真琴もこちらを見ていた。
「じゃあ、いくぞ」
「うん。一緒にね」
二人は同時に、意識の中に浮かぶ文字へ注意を向けた。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
頑張ります!
楽しんでいただけたら幸いです。
どうぞよろしくお願いいたします。




